あとがきごちゃ煮(期間限定:11月2日〜年末)



Scene1:


 水筒の玄米茶を飲みほして、「ごちそうさまでした」と日向ぼっこからゆっくり立ち上がった。
「もっていきんしゃい」
 麦わら帽子をかぶった頭の上、垂らしたタオルで顔に日陰を作ったばーちゃんが握り飯をくれた。一口かぶりつくといい塩味が昇る。田んぼの横で海の味とはおつなものだ。つややかな飯粒に、ずっしりとしたちからと重み。なんてふかい味わい。中身はこんぶ。磯だなあ。
 ついつい、誘惑に負けて、もう一口、もう一口と数回の接吻で、あっさり手の中はからっぽになった。最後に親指を優雅に唇で食む。午後の日差しが直江のやわらかな髪をあたたかく照らす。
「たか坊ならチャーリーあたりにおったぞ」
 がんばれよ、というじーちゃんの声援はどっちにむけてか。
 スーツの肩越しにふり返り、老夫婦にほほえみひとつ。選挙カーは白い軽トラ。
 おはようございます。こんにちは。おつかれさまです、いい天気ですね。
 開けたままの窓から、ときおり農道に座ってのんびり井戸端しているひとたちにぽやぽや挨拶するだけだから、ひとりでいい。新車に乗り換える気はいまのところない。
 なおえ、のぶつな。なおえ、のぶつなをよろしくお願いします。
 そう言うと、やんややんやと拍手喝采がおこった。なんだかここで演歌の一曲でも歌わなきゃいけないような気分にかられる。
「のぶちゃーん!」
「こんにちは。このあいだは差し入れをどうもありがとうございました」
「うふふ、どういたしまして。あ、いいわよ、わざわざ降りなくてもう。あ、仰木君ならあっちにいったわよ」
「そうですか。ありがとうございました」
「がんばってね」
「ええ」
 極上スマイルで奥様がたを悩殺しながら、直江はキーを挿し込み、ギアを握った。さて、高耶さん。
「私の直江号から逃げられるとお思いですか……?」
 好きなひとがいる。
 選挙演説の初日以降、逃げられっぱなしだが。
 軽トラの窓から吹く風。たわわに頭を垂れる稲穂。自分の心もふくめ、この町ではなにもかもが豊かに実って自分の背中を押してくれる。




「まさか来てもらえるとは思わなかったんだ。俺が立候補したことで、てっきり嫌われていると思ってたから……」
「あの真っ赤な顔はみものだったわねぇ。てゆかあんなんじゃバレバレだってのに」
 と綾子は、じーちゃんの自転車のパンクをなおす手を止めないまま言った。
「あの子、まえに酔っぱらったときに唸ってたのよね。アンタの選挙ポスターに向かって。おまえは左下から撮ったほうがもっとやさしくてやわらかくてカッコイイのに、いったいどこのどいつが撮ったんだ……って。もうバカらしくなっちゃったわよ。ギリギリで剥がして持って帰るマネはしなかったみたいだけど。まあ、おまわりさんが選挙ポスターひっぱがしてたら問題よねえ」
 よし、できた。とサドルを叩く。チャーリー直江はバイクショップだったはずだが、9割方はお年寄りのスクーターと自転車の修理を請け負っている。
「でもね。よくなつかれたもんだな、ってうれしくなったのも事実ね。いっつもだれかとケンカばっかりしてたのにさ。怪我してはアンタんとこ。煙草吸ってはアンタんとこ。無免許運転直前でアンタんとこ」
 毎週毎週、高耶は派出所の直江の前に突き出されてきた。なんの事件もない田舎で、直江にとって高耶はちょっと目つきは悪いがかわいい、馴染みのお客さんだった。この町の若者たちはつねにご老人の監視の目に曝されているから、高耶の悪事はたいてい未遂のうちにあっさりと発覚する。プライバシー? ほう? なんじゃそれ? お年寄りがたくましい町は、平和で元気だ。ハリネズミになった高耶のとげをひょいと掴む、老人の手は、厚くて鈍くて丈夫だった。

――ほい、直江さん。またですまんが叱ってやってください。ほんに、このボーズはのぅ。
――うるせえジジイ! ちょっと、下ろせ直江……っ!
――はいはい、今お茶を入れますから。私のお説教が終わったらちゃんとおじいさんにも謝るんですよ。

 いまは、直江の元同僚(かつ高耶の現同僚)の千秋修平がのんびり座っている派出所で、何十回お茶と茶菓子を食べたことか。聞けば、高耶は二階にいるという。
「これ、町長さんの自転車なの。あがるんだったら、ついでにできましたって言ってくれない?」
 嫌われてないとわかっていても、やっぱり逃げられるのはつらいから、直江はこころもち足音をひそめて階段をあがる。
 町内めぐりは夕方五時には切りあげる。あとは夕食の時間だから、おじゃまするのはしのびない。だいたい九時にはほとんどの家の明かりが消えるし。
 高耶さん。
 非番なら、ウチでお茶でもしませんか?
 自宅兼、いまは選挙事務所、だれかさんが玄関に置き去りにした小さなだるまも、目を入れられるのをおっとりまっているんです。その真っ赤なにらみ顔……困るんですよね。
 みるたびにあいたくなって。
 ふすまにそっと手をかけたとき、高耶の声が聞こえた。
「だいたいじーさんもこんな昼間っからなにやってんだ。選挙どーしたよ、選挙! 元・越後の暴れん坊が選挙前にのんびり茶ぁすすってていいのかよっ!!」
「したじゃあないか。このあいだ選挙演説。おまえも聞いてただろう、あの拍手。我ながら名演説だったなあ」
「どこの町に敵の応援演説する立候補者がいるんだよ……」
「おや、直江くんはおまえの敵かい?」
 ぐっ、と高耶がつまる気配がする。
「あんなに熱いラブコールまでうけて?」
「いたのかよじーさん!!」
「いたよ。ひまだし」
「ひまなのかよじーさん!!」
 悲鳴に泣きが入る。
「にしてもおまえが逃げたあとの盛り上がりといったら、この町の歴史に残らんばかりだったなあ。拍手喝采で町が大きく揺れ、家にいた寝たきり老人は、すわ地震かと飛び起きて、それをきっかけに介護いらずになったそうだよ」
「うそつけよ……」
「あれだけ手を焼かせられたのに、よりにもよっておまえを生涯の伴侶に選ぶとは。やっぱりわしの目に狂いはなかった。いいじゃないか。わしももう八十だし、そろそろ引退させてくれ。直江くんになら、孫も町長もゆずれるよ」
「勝手にゆずるなー! だいたい過疎地で子供作れねえカップル認めてんじゃねえ!!」
「おまえたちが子どもを作れたとしても、何十人もできるわけでなし」
 と暢気に言う。「もう諦めてるよ。それより、孫が一番好きな男としあわせになるほうがだいじだ」
「オレ……ッ! オレはべつに直江のこと、なん、か……っ! わぁっ!!」
 おたおたと勝手に動揺して肘で茶をこぼした高耶をのんびりと見やっているうちに、謙信は廊下にたたずむひとの気配を鋭く察して、目を細める。
「ああ、この甘納豆うまいなあ。高耶、帰るんなら武田さんとこにこれ持ってってくれ。塩豆大福。ついでにもう終わったろうから、門脇さんからわしの自転車を受け取って、持って帰ってくれ」
 布巾を持ってこようと立ち上がって、ふすまに手をかけた高耶がいぶかしげにふりかえった。
「オレ、今日バイクだって言ったろ」
「荷台に乗せてってもらえばいい。帰りは遅くなってもいいから」
「?」
 ガラリと高耶が開けた戸の、先。
 ふうむ…と立っていた直江は、彼を見下ろしてきた。

 
ギャ――――――!!!!!!

 絶叫で激しく店を揺らし、ダダダダ…と階段をかけおりる。すっころびそうになりながら、高耶はありとあらゆる呪力をもって、あの祖父にぎっくり腰の呪いがかかるようにと心の中で叫んだ。もうやだ。もういやだこんな町。こんな、

 
町中仲人

 みたいなの。このままだと、町公認のホモカップルになっちまう。
 結婚式(!?)には自分の悪行の数々が過去のエピソードとして語られ、きっとそれからなにかにつけて、刺激の少ないこの町の老人たちのあたたかくもはた迷惑な好奇と親切の目にさらされ、なまあったかく祝福されながら老後までふたり幸せに過ごすことに――いやだ、ありえねえ。
 だから言えない。言いたいことが、答えたいことが、先に伝えたかったことがあるのに、たしかにここにあるのに。
 流されて、言いたいわけじゃないのに。
 そんな誤解、直江に一寸でもされたら。恥ずかしくて死にそうだ。
 とりあえずバイクをあぜ道に走らせる。帰りは遅くなっても? あんの好色ジジイ、殺す。いや無理。あれでけっこう強いから。せめてこぼしたお茶にすべって転んで腰痛再発しますように。
 ウガーッ! とやみくもに空に吠える高耶の姿を求めて出てきた直江は、
「あら、直江さん。高耶くんならあっちへ行ったわよ」
「ちょっと待ってね。ウチの二階から見えるの。あっ、ほらほら、いま成田さんところでつかまってるわ」
「こっちじゃこっち。抜け道使いんしゃい」
「どうもありがとうございます」
「がんばってね。みんな応援してるから」
「……はい。この公約は、命に代えても守ります」
 あたたかくやさしい住人に、優雅に、でも、心から微笑んだ。
「あのひとと――幸せになります」
 のんびりと軽トラが走り出す。
 素敵な午後だった。
 この町にふさわしい、夏の終わりのような空だった。


2007.9「直江町はじめました」あとがき〜第四の直江町〜


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Scene2:



「気持ち的にはおーよそ第400回ぐらい。今日の直江もおもしろかったな会議――」
「ようやく今日、直江と弁当を食うというお百度参りの祈りが通じたわけだが、もし、もしだ。たとえば今後、直江がウチに来るなんてビックサプライズがあったら、茶菓子とか大丈夫か?」
「直江っておやつに何食べるのかなあ? 意外と甘党だったりして。寺でしょう? 羊羹とか饅頭とかないよー? なんとなくスナック菓子は嫌そうな気がするし……なんかあったっけ、今うち。高耶」
「……ば」
「……ば?」
「……ば?」
「……バナナあった」
「……」
「……」
「……うん」
「お、おかしくない、よな?」
「そっ、そうだそうだ、おかしくない! 健全な高校生の家にバナナの鎮座は、ぜんっぜん! ぜんっぜん、不自然なことじゃないぞ、高耶!」
「大丈夫。やましくない。やましいことなんてなんにもない。ほかに直江に捧げるおやつなんてウチんなかには何もないだろう? だから、いっしょにあいつが、直江が、口いっぱいにアレを頬張るところを真正面からちゃんと見よう、見よう、見まくろー!」
「バナナは手軽にカロリー摂取できる最高のおやつだもんなっ! まるごと串焼きして出しても不自然じゃねぇ。そして砂糖かけてうっすら焦げ目ついた大きな焼きバナナを舐めながら直江が言うんだよ。『あなたたちのバナナは甘いですね』って――」
「……感無量だ。そんな直江に出会えるならオレは地獄の門番皆殺しにして帰ってくるぜ。じゃあオヤツはOKとして、飲み物は? 緑茶じゃバナナにはあわねーよなあ」
「そうだな、今うちにあるのは麦茶と牛乳……」
「……牛乳?」
「ああ、ぎゅうにゅ……」
「……」
「……」
「……」
「……いやいやいやっ! 牛乳もぜんっぜん! ぜんっぜん! おかしくなかった!」
「そそそそそうだ、牛乳は健康にいーよなっ! フツーの高校生男子がぐんぐん成長するためにうちにあるんだもんなっ! べつにあいつの唇にしろいのべっとりこびりつかせたいなんて露ほどにも思ってねーよオレたちは、なあ?」
「ああ! ほかになんにも出せないなんて直江! 体が震えるほど悲しいよ! だから早く露まみれになっててらてらしてる直江のあそこが見たい」
「だいたいあんなキャラほかにいねーよ。奇跡だよ。奇跡の男、直江だよ。昨晩見た、頭をワラジの底でぐりぐり踏まれながらもググッと睨んで顔をあげようとする直江なんて最高にヨかった……」
「なにそれ! オレもそんないかがわしい直江の夢が見たい!」
「例えばどんな」
「一人SMしてる直江とか」
「今日、不能直江」
「うん。ナイス怪談」
「仰木はちゃんとさっきの授業起きてたのか?」
「あたりまえだ。光合成する直江ってのは、オレたちが吐いた息を最後の一息まで吸い込み、同じだけの直江ブレスを返してくれるんだろう? 午後の陽射しを浴びながら、寝っころがって、安らかに吐息と吐息の交換をし続けるオレたち。そして夜ともなればあいつの出す毒で熱く苦しい触手プレイに及ぶオレたち。そう、言うなればあいつは男の夢。昼は淑女で夜は娼婦――!」
「すっげえー! 交わろう、直江!」
「うっひゃー! オレだけのアマテラス!」
「あいつんちってさー、カルピス牛乳で割ってるよな」
「濃いー! むちゃくちゃ濃いー! だがそこがよい」
「そんなに濃いのが好きか直江。そうか。ふっ、さすがオレたちが見込んだ男だ。ついでに一度、飲むときちょっとむせてほしい」
「胡椒でも入れとく?」
「ちょっとねまらせたのを出すか。外に出しておいて」
「つまづいた拍子に頭からぶっかけるのってありか?」
「あいつの顔にしろいの……あの綺麗なさらっとした髪にしろいの……」
「変態変態!」
「とか言いつつ笑っている口はなんだ!」
「だってー。オレ、ビジュアルにこだわるポニーテールだしー」
「いいんだよ。愛があれば。オレたちの家訓ではいいことになってる。じいさんの昔部下かなんかだった男は愛って兜を作ったというし」
「ウチにさえ来させりゃ密室だ。なにがあったってバレやしねえ。邪魔者は潰す。犯罪は隠匿する。千秋は興味ないからほっとく」
「だから、故意じゃなかったのかもしれなかった。ほんとうは」
「家を掃除しよう! あのウチを、直江が来てもいい家にする。そして【裏直江】をなそう! な!」
「おお!」
「ええ!」
「……おい、微妙な小ネタしてる三バカ、そこになおれ」
「あ、千秋?」
「そこになおえ?」
「どこに直江……? って、いねえ! さっきまでいたのに!! 千秋! ロープほどいたなっ!?」
「おーい、ナオモーン!」
「旦那なら、さっき吐きそうな顔して出てったぞ」
「なに――!?」
「酸っぱい牛乳だ! 酸っぱい牛乳持ってこーい!」
「直江直江直江っ! ひっ、ひっ、ふー、だぞ。ひっ、ひっ、ふー!」
「……ちげぇよ」



2008.2「hello,goodbye,hello,hello」あとがき〜妄想暴走直江町〜


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Scene3:



 その日高耶は緊張の面持ちで集英社のビルに入った。
 バッグの中にはボロボロになった一冊のコバルト文庫。それはヤンキーだった高耶を号泣させ、更正のきっかけを作ったとある少女小説だった。
(とうとう橘なおえ(*1)に会えるんだ……)
 彼女に近づきたい一心で、高耶はイラストレーターの道を目指し、第40回コバルトイラスト大賞受賞者として、とうとうこのときを迎えたのだった。大丈夫だ、大丈夫。胸のうちでくり返す。オレならもっとすごい曼荼羅だって描ける。
(先生の隣は譲らねえ……!)
 タイガースアイをきゅぴーんと光らせつつ扉を開けると、背の高い黒スーツの男がそこにいた。
「あっ、担当さんですか? あのっ、今回は挿絵の依頼、本当にありがとうございました……ッ!」
「あなたがtakayaさん?」
 と、男は微笑み、優雅な動作でゆっくりと立ち上がった。
「橘なおえです。直江は本名ですからどうぞそちらで呼んでください」

(*1)
たちばな・なおえ……栃木県生まれ。牡牛座。AB型。「あなたの犬なの狂犬なのよ」(*2)で上期コバルト読者大賞受賞でデビュー。コバルトシリーズに、「祝福の鐘が鳴る!」「最愛のきみへ!」「私はあなたのドーベルマン(はぁと)」などがある。なおえちゃんシリーズ(第二部からは狂犬シリーズ)など。

(*2)
陸上部の先輩・仰木高耶に恋をしたなおえちゃんのハチャメチャ学園ラブコメディ。デビュー作にして100万部を突破。「先輩の背中に羽がはえてとんでいきそう…!」と、「あなたの大地を忘れないように」と刺繍したタオルを渡すという全国的現象まで。キャンプファイヤーでの告白のあと、いきなり失明したり不死の病に倒れたかと思えば、宇宙からきた謎のヒルコと協定を結んで高耶に猛烈アタック(死)したり。「証明してあげます! 先輩を愛してなんかいないことを!」と叫んでのキス攻撃など、コバルト史上最強のツンデレと誉れ高い。

***

「はぁ……」
「どうしたんですか、先生」
「実は担当さんから、私のPNは地味じゃないかと言われたんです」
「ええっ!?」
「別に名前なんてどうでもいいと適当につけましたから、いざ変えるとしても悩んでしまって。いっそ本名の直江信綱にしてしまおうかと思わないでもないですが、男の名だけは売り上げに響くからやめてくれと担当さんが言いますし」
「そりゃあ、エキセントリックな内容のわりに先生のPNって穏やかっていうか……でもいいんですっ! 先生はそれで!! つうかクソ担当! 分かりました、明日編集部にガソリンまいてきましょう」
「いえ、そこまでは……」
「安心してください! 学生んときはよく門の前で部活帰りの生徒つれこんでボコってましたから。昔はオレもちょっとKK入ってたし」
「KK?」
「狂犬です。『あいつマジKK』みたいな」
「……」
「はっ! でもオレが捕まったら、狂犬シリーズの挿絵などでって紹介されちまう。他にオレ、仕事ないし……。よし、じゃあ先に別に名が汚れてもぜんぜんかまわねえような仕事ぶんどって……!」
「まっ、まってください高耶さん!」
「いいや止めないでください、先生っ!」
「あなたが私以外の仕事を受けるのがいやだと言っても……?」
「……なッ」
「……すみません。変なことを言いましたね。ええと、何の話でしたっけ。ああ、そうそう。たとえば高耶さんを見習って、『naoe』とかいうのは……」
「恐れ多い! そんな、バンドか携帯小説みたいなの先生に似合いません」
「『たちばななをゑ』」
「微妙に言いにくい……」
「眞鍋ナヲリ」
「あ、かわいい。って、どっかで聞いたことありますよそれ! あの、オレ、は……いまのままの橘先生の名前が好きです」
「なおえと呼んでくれませんか?」
「直江?」
「ひらがなで」
「……な、なおえ……?」
「なんでしょう……あなたにそう呼ばれると、どうしてかこう、ぐっとこみあげてくるものがあるんです」
「なお……」
 直江の動きで、ゆっくりとソファが二人分の体重で沈む。
 いまにもキスができそうな距離で直江の指が怪しく高耶の顎にかかり――
「……なんでも言ってください先生……」
 邪心の欠片もない顔で、うっとりと高耶は言った。
「CDドラマジャケでもポストカードでも応募者全員大サービスでも巻頭カラーでも巻末おまけマンガでも宇宙船でもメイドでも何万人というモブでも。喀血するまで、オレは、先生のためになんでも描きます……!」

 ――そのまま直江は、ずぶずぶと高耶の腹に沈んだのでありました。

 その後、彼への思いのたけをますます叩きつけた直江の小説は、一読者としての高耶をおおいに興奮させた。
 高耶と前挿絵者(鮎川)との対決。
 編集部の意向(「少女小説なんですから、一ページに伏せ字は何文字までOKかとか聞かないでください!」)との衝突。
 燃え上がる直江の情熱と、あれと思っているうちにそのままやられてしまった高耶とのコンビ解散(ちがう)の危機。なおえちゃんシリーズ発禁問題。
 しかしその反対に、少女小説初小説部門売り上げ5週連続一位をはじめ、「出てきただけで少女小説の歴史を変えるような」なおえ賞の設立。アニメ化。OVA。原画展。舞台化。舞台・「狂犬」を演じるための二人の役者・そして作家と演出家の裏の戦い。
 「橘なおえの正体を探るスレ」があちこちでたちあがり、コミケではなおえスペが登場。いろんなジャンルの同人作家がなおえに転び、「ころびなおえ」と言われる。男性向け(高なお)はもちろん、なおえちゃんを男体化しての女性向け(なお高)も登場し、一日目・二日目のメインジャンルになる。
 そしてある日、とうとう狂犬シリーズが全世界で1億部を突破したとき、この騒ぎを収集すべく、裏切りを覚悟で直江は決心した。
 そう、なんと新聞全紙にある日いっせいに一面広告をのせたのだ。
 直江と高耶の顔写真と、二人が真剣交際していること。
 少女小説作家の概念を覆す、たったひとつのキャッチコピーとともに。

“大人の本気を教えてあげる。”

 あらたななおえ伝説の始まりである――。



2008.2「秘密」あとがき〜その後、橘なおえはどうなった?〜


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Scene4:



「病気だと?」
 一蔵は驚いて直江を振り仰いだ。直江は目を見開いて小三郎を凝視している。
「おう……。仰木は病気なんじゃ。今は起き上がることもできん。もう長くはないかもしれんの。嘉田さんたちが言うちょった。病気じゃ。あれは病気じゃ。あれは――」
 おそろしい病名を聞いたというように、小三郎は沈痛な顔を伏せた。

 巣立ち症候群だ、と。

「たか……仰木隊長!」
 半開きのドアをバンと開けると、
「なおっ…」
 入ってきた直江を見て、高耶がパッと顔を輝かせる。
「……み!」

 誰!!

「普通そこは橘でしょう! なお…っ、橘! でしょう。橘です。橘入ります!」
 やけ気味に言うと、はぁ、と高耶がため息をついた。
「むさいの入ってきたよ……」
 くらっと一歩後じさろうとしたのを、直江はかろうじてぐっと踏みとどまった。人生でここまで外見により全否定されたのは初めてである。いじめか。これは世間で言ういじめじゃないか? 高耶は壁にかけられた青いパジャマ(子どもサイズ)を見てふたたびため息をついている。
「しっかりしてください高耶さん。校倉平次郎忠臣は出ていきました。ここにいるのはただの直江のぶ――」
「帰れ」
「三文字!」
 おっくうげに目線を向けた高耶は、直江を見定めるように下から上までなぞりあげた。
 しばしの無言の間のあと、首を落とす。
「……ないわー」
「ありです。ぜんぜんありありです!! なんですか、もしかしてあれからずっと忠臣忠臣。自分のこととはいえ、いい加減にしないと私だって怒りますよ!?」
「んだよ! おまえだって記憶ない奴を景虎扱いしたじゃねえか。オレが大人の本気を押し当てやってどこが悪い!!」
「押し当てるんですか! 何を押し当ててやるんですか!」
「んだよ、打ち間違っただけじゃねえか」
 教えてと押し当て。似てる。か。いや。問題はそこじゃない。
 すっかりやさぐれモードの高耶は、ベッドに腰かけて足をブラブラ揺らした。
「認めたくないならしかたありませんー。だったらー、騙されたと思ってそうだと思いこんでつかあさいー。自分がオレの言うかわいいかわいい忠臣だと思いこんでつかあさいー」
 命令形じゃない語尾が、てきとうすぎる。どこかで聞いたセリフに直江が冷や汗をたらした。
 スネでグレな目の前の人は、唇を尖らせ、忠実にあのときのセリフを再現する。
「そうすればー、いくら凡人でも忠臣のおこぼれ程度には、もしかすると忠臣っぽくなるかもしれませんよーっと」
「すみません! 本ッ当ーにすみません!!」
「直江……」
 青ざめて叫んだ直江に、高耶はふと真面目な顔になってぽつりと言った。
「オレはショックだったんだ」
 ぐっと胸がつまった。すでに事情は聞いた直江も、ふとあの子どもと高耶との日々を思って目を伏せた。一緒に食事をとったり、テレビを見たり、ツーリングしたり、あまつさえ一緒のベッドで寝たり……? 直江からすれば、自分のことながら羨ましいのと嫉妬で、我ながらどこにこの感情を落とせばいいのかわからないぐらいだったけれど、それでもあのつかの間は、高耶にとってもやさしくいとおしい時間だったのだ。
「おまえにはわからない」
「……かも、しれません」
 が、と続けようとした直江の言葉は、幾度目かの高耶のため息に遮られた。
「おまえに据え膳食われなかった男の気持ちなんてわからない」
「何があったんですか! というかナニをあいつにしたんですか、あなた!!」
「武士か。武士だからか! 高楊枝なのか!」
 と、いきなりキレた高耶がシャツを引きちぎり、ぎょっとした直江の手をなめらかな素肌にあてさせる。それから、潤んだ目を上目づかいで――
(な、なんて試練だ……)
 直江は今にも動きそうな手や足や体をかろうじて止めたままプルプルした。
(ここであなたを我慢すれば正しいのですか。ここで我慢すれば近づけるのですか……←誰)
 まあ、と高耶はさっさと直江の手を解放して若干頬を赤らめた。
「そういうところも好・きv(森野風)なんだけど」
「あなたキャラ変わってますよ! ちょっと待ってください。まさかとは思いますが子ども相手に色仕掛けなんてしてないでしょうね!? って、なんで目を伏せるんです! 警戒心がなさすぎます。あの男は私なんですよ!?」
 なんだか情けない自論ではあったが、高耶は遠くを見ながら「ないない」とどうでもよさげに流した。
「そのときはおまえのあれが役にたたないときだよ」
「たちます。絶対にたちます。もりもりたちますって」
 微妙に言い方に変化をつけながら直江は、がっしと高耶の肩を掴んでこちらに引き戻した。
 と、その瞬間ぎょっとした。
 高耶の目から静かにぽろぽろと涙が流れた。
「もっと甘やかしてやればよかった。大事にしてやればよかった」
「高耶さん……」
「あとビデオもとりたかった。本当は武藤のカメラ借りて限界まで撮りたかった。おんぶとか抱っことかあーんとかあと一緒に風呂も入ってやって、絹のシャツ濡れた背中、髪を抗ってなじられたかった」
「欲望がだだもれです!!」
「なあ、直江。大きくなったらやっぱり一緒に風呂も入ってくれなくなるのかな」
「入ります。どんなに大きくなっても入ります。息子役なら私と一緒に風呂に入ればいますから、息子。息子のように、我が息子をそりゃあもう存分にかわいがってください」
 自分でも何を言っているのかわからなくなった直江に、何かが琴線に触れたらしい高耶がきゅるんとした目で訊いてきた。
「え、撫でてもいいか?」
 ごくり。
「どうぞ」
 なぜかやたら恥じらいつつ、高耶が口元に手をあてた。
「き、きすとかしたらおどろくよな」
「びっくりするでしょうね」
 でもぜひ。
「高耶さん……わかりました」
 と直江はやましい気持ちを押しこめ、まだ若干青ざめたままではあるが、できるだけ真摯な顔をつくって高耶に向かった。
「本意ではありませんが代理となりましょう」
「直江!」
 直江の本気を感じ取り、しっかりうなずくと、高耶は両手で顔を覆った。自己暗示だ。
 ぱっと顔をあげ、
「――忠臣」
 ふわりと微笑む。
「か、景虎様」
 つい口調も変わってしまう。
「風呂にするか? それとももう寝るか?」
 いいんですか。いいんですね。
 ゴホン、と直江は咳払いしつつ、
「で、では風呂で……」
「そうか」
 高耶はぱっと顔を輝かせた。
 が、壁を指差し続けられた言葉に、直江は悲くもきっぱり言うしかなかった。
「じゃあまずあのパジャマを着――」
「……むりです」



2011.1「おみトラ!(後編)」あとがき〜その後、なおみはどうなった?〜


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Scene5:



 これしかないわけじゃないはずなんだけれど、きっと取り上げられたら大声で泣き出してしまうかもしれないので、どうぞ取り上げないでください。
 かみさま。

 銀座の某店の前。ガラス張りの正面の壁にできたモミの木は、塩化ビニールに金属を固定させた日本一のきらびやかさだ。
 “ここだけにしかないツリーを……”という宣伝文句そのままに、37メートルという高さだけでなく、トップスターの飾りを頂上に、ロケット型電球、十字の飾り、モールといった、あらゆる飾りが銀座の夜を明るく照らし出している。
 その真正面。という格好の場所にも関わらず、なぜかクリスマスケーキの売れ行きはあまり芳しくなかった。
 ……いや、原因はわかっている。
「まったくもって情けないですなあ。見てくれだけ若くよいものに変えてもしょせん内面は滲み出るもの。これだから親の臑かじりは使いものにならぬこと、ならぬこと」
 もごもご動く白ヒゲから、さっきから洪水のように量産されている文句と嫌みと皮肉に、もう反論する気も失せた直江はウンザリと顔を背けて、足早に通り過ぎる銀座マンの姿をボンヤリ見やった。コートを着込んだ彼らは、ちらっとツリーを見上げながらも、もう先月末からあるクリスマス飾りは見飽きたのだろう。さっさと暖かい我が家へ帰っていく。
 いいな、自分ももう帰りたい。
「笠原君はまだお子さまですからなあ。他の学生同様、紙に己が欲しいものを書き、靴下を吊るして神ならぬ親頼み、ぐらいが関の山でしょう。……笑え」
 と、風船を持っておずおず寄ってきた小さな女の子に、高坂が直江を肘でつつく。
「こんな恰好で笑えるか」
「まったく見栄えごとき気にして笑えぬとは、誠に情けない。ほら、このように」
 と、にいと笑った。怖い。小さな奥まった目が糸になり、サーカスのピエロのようだ。すうっと伸びてはいるが、何かしら人間味を感じさせない鼻梁。能面じみた顔。ゴムのようによく横に伸びる、やわらかそうな、それでいて酷薄そうな唇が吊り上がり、陶器のような白い顔は灯りと調和していっそうほのかに青白く見える。はっきりいって、不気味以外のナニモノでもない。
 ヒッ、と子どもが引きつけをおこしたように息を飲んだ。
 カッチン、と見事に一瞬硬直したのち、はっと外縛が解けたように母親のもとに半泣きで転がり逃げていった。
 その一部始終を見ていた通行人たちが、またザッと数歩分直江たちから遠ざかった。
 さっきからケーキの売り上げが不振なのは、9割方この不気味サンタのせいだ。直江は目を覆った。
「なあ、高坂。俺がサンタをやったほうがまだいいと思うんだが」
 そう言う直江の頭には、雄々しいツノがついている。バランスがとりにくいのは、木製の赤いつけ鼻のせいでもある。首もとにかけられた客寄せ用のハンド・ベル。
 着ぐるみは茶色の全身タイツみたいなもので、まるで変質者じみてて恥ずかしいことこのうえない。あと寒い。直江の長身に足りなかった裾部分は、仕方なく魚屋の黒い長靴で補っているが、隙間からすうすう外気が入り込んでくる。
 隣の高坂はといえば、もこもこと暖かそうな余裕のサンタ服だ。
「いいや、おまえはトナカイだ」
「なんで決定なんだ」
「今宵こそはと喜びました、だろう」
 なんだっけ、と一瞬遅れて、ああと思う。喜ぶのか?
 ……喜べるのか?
「これも肉欲のためだろう」
「……七面鳥の、な」
 くしゅん、とくしゃみをして、もごもごとあまり自由にならない手で着ぐるみの頭に首をひっこめた。ツノがあるためぐらぐらと後ろにずれそうになる。幸いイブの今日は暖かく、十一月下旬並み。雪でも降ればクリスマス・イブらしいが、これでは暖かすぎて気分が出ないという人間もいそうだが、直江にとってはまだありがたい。
 夕方、大学を出た直江を待ちかまえていたのが、この男だった。
 いつもなら戦闘以外は関わるまいと、きびすを返すところ――いや、実際に返しかけた直江を引き留めたのは、「いいバイトがある」との一言。
――どうせ笠原君は親に遠慮して、クリスマスだからといって贅沢するでもなく、そうはねだれぬ小遣いも、残り少なくなっているところでしょう。もし私のバイトを数時間だけ手伝うならば、よい報酬が得られますぞ。
 背を向け去りかけていた直江は、その「報酬」に思わず足を止めてしまった。
 この時期、予約なしではとうてい手に入らぬ七面鳥の丸焼きが、なんとまるまる一羽……だと?
――例えばボロアパートに住んでいるような貧乏水商売人には、そんな豪勢な肉料理、どんなプレゼントより、喜ばれるでしょうなあ。
 泰然自若な態度で、不敵とも思えるふてぶてしい微笑を浮かべていた直江をキャッチした男の隣で、ハア、と直江は本日何度目かわからないため息をついた。
 それでも夕方から夜にかけこの数時間。寒空のもとケーキを売り続け、もう十一時過ぎ。どうにか減った箱は残すところあと一つ。電車の時間を考えると、いっそ自分で買って終わりにしたいが、本末転倒。
 ふと、高坂がナイショ話をするように、身を寄せてきた。
「……で?」
 こそこそと聞いてくる。
「どうなんだ。景虎との進展は」
 なんだこの大学生同士のような会話は。
「ばればれなんだよ、おまえ。そんな調子じゃ、織田もそのうち勘付くぞ」
 と、学友めいた忠告までしてくる。
「うるさいうるさい」
 と、サンタ帽を高坂の顔にぐいぐい被せていた直江は、こっちにふらふらした足取りでやってくる女性を見て、げっと固まった。
「ほほお、これはなかなかの美人だな。ははーん、さては手を出したか。信長復活がはっきり姿をともなった今、一世一代の戦になるやもしれぬというのに、さすが思いきり青春を謳歌しているな。やはり図々しさを絵に描いたような男は違う」
「ああもう、うるさーい! ただの学友だ。おまえが応対しろ」
 ぐいぐいと赤い背中を押しやっていると、
「……あなた、もしかして笠原君?」
 とっさにバッと高坂から奪ったヒゲで「ちがいます」と、口元を押さえ、もごもご直江は答えた。
 目の縁が少し赤い吉岡恵美子は、薔薇色の頬のままじーっと直江を見て、こくりと首を横に捻る。
「私の白馬の王子様?」
「鹿です」
 直江は率直に事実を述べた。
「私の鹿?」
「あなたの鹿です」
 トナカイですよ……。
 至近距離で見つめあい、低温で囁く。
 酔っぱらっているらしい恵美子は、やがて納得したようにコクコクうなずきながら、
「そうなの。クリスマスまで大変ね、トナカイさんも実験に使われないうちに、おうちに帰ったほうがいいわよ」
 と、親切めいた忠告をしてくる。ほっ。
「聞いてちょうだい、トナカイさん。あのね、最近ちょっと気になる人がいて、もし今日も誰もいないようだったら、友人として、そう、友人としてね……ほら、暇なものどうし? 忘年会みたいな? 誘おうかしらーっと朝から思ってたら、今日は用があるって帰られたの。やっぱりデイトかしら、デイトなのかちら」
 呂律がまわっていない。しかしふらふら揺れながらも、みっともなくはなく、艶っぽく吐息をもらす才女の姿は、なかなかどうして相変わらず色香に満ちていて見事であった。
「え、ええっと、そうだね、それは残念だったね。どこの誰かは分からないけど、何かやむをえない用事があって、ああでも、今頃きっと後悔してるんじゃないかな」
 今の自分みたいに。と、そっと直江はため息をついた。自分や恵美子みたいに、教授の手伝いにかり出されている人間が他にもいたらしい。
「ほらちゃんと立って。吉……じゃない、えっと、きみ一人? 女性がこんな遅い時間まで飲むもんじゃないよ」
「お嬢さん、ケーキはいかがですかな。残り物には福がある」
「この男は気にしないで」
「今ならおまけにこれがつきます。クリスマスの、なんとなくお約束。恋にお悩みのお嬢さんに、素敵なプレゼント。年越しにぴったりな、青い背表紙約60冊。きっと忘れられないクリスマスとなることでしょう」
 どこから出したか、大きなデパートの紙袋二つに、文庫本がぎっしり詰まっている。
「迷惑だ!」
 直江はぎょっとしてサンタ服の袖を引っ張った。高坂はいたって平然としている。
「ありがとうサンタさん」
 と、あどけない声で恵美子はぺこりと頭を下げた。なかなかに礼儀正しい。
「大丈夫だ。タクシーを止める。一緒に手をあげろ」
 直立不動でびしっと手をあげるサンタにならって、直江もおずおずと茶色の手をあげた。この二人が並ぶと、さすがに目立つ。クリスマスでなかなか掴まらないタクシーも物珍しさですぐに止まり、直江は恵美子を押し込めて、住所を告げた。
「ふっ、あの娘、年明けに会ったら別人になっているやもしれませぬなあ」
 走り去るタクシーを見送り、高坂がのっぺりと微笑んだ。
「……って高坂! 一体何を渡した! おまえがタダの親切であんなプレゼントを渡すはずがない。まさか警察に捕まるものとか、読み終わると呪いがかかる魔術本とか……!」
「失礼な。ちょっと長いがタダの少女小説だ。タダ長いから、途中5.5巻と20巻と最終巻を抜いてある」
「嫌がらせか!」
 てか、最終巻はともかく、5.5巻ってナニ。
「そこはご安心のアフターサービス。手に入れたいときの連絡先も袋の中だ。ふっ、その三冊で60冊分以上の金が舞い込む手はずだ。餅を買おう」
「いくつ餅を買う気だ。まったく、あいかわらず意味がわからん。なければ本屋で買うだろう」
「ここではまだ手に入りませんゆえ」
 と軽く目を細めて笑みを浮かべた。だから不気味だって。
 ヒゲのなくなった高坂は、うすら笑いをおさめると、ぐるりとあらためて周りを見渡した。
「やれやれ。しかしクリスマスもすっかり定着して、まるでこれしかないといわんばかりのバカ騒ぎですな。むかしは、外国の祭りをなぜ日本がやらなきゃいかんと言っていたのに」
「今でもけっこう反対している人間はいるな。さあ、終わったしもう片付けていいだろう?」
「キリスト教国でもない国で、キリスト教国にも見られぬ盛大な祭りをいく日にもわたって行うなんぞ、正気の沙汰ではない、って考えですな。明日が終われば、どこもかしこも今度はマツがモミの木にうってかわりましょうぞ」
「クリスマスがどんどん派手になるからか、最近じゃあ正月もにぎやかだな」
「まあまあ。神の国と言い張って戦争して、敗けて何か変わるかと思っても箱を開ければ、この国は結局基本的なところで何も変わらん。それに絶望した人間のやけっぱちも多少感じますな。まあこの国は、いつの時代もあまり深く考えず、自分らが生ぬるく暮らしていけるよう、異国の祭りもさっさと取り込み、楽しんでしまうものですよ。これまでも。……そして、これからも」
 と、何やら遠い目をして皮肉気に薄く笑いをこぼした高坂に、直江は真面目な顔になった。何を考えているか分からない男だ。
 なのに、ときどきこんな真摯な目をする。はるか遠くとごく近くが、いつもシャッフルされている。そんな感じだ。それでいて、両方の世界を行きつ戻りつすることに、何ひとつ苦労を覚えずにいられるだろう男だ。行き交う人々の向こう、直江にはまだ見えない先を見つめて、静かに高坂が告げた。
「――死人が街を歩きまわる時代が来る」
「なんだと」
「服を替えるように姿を替える異常な祭りの話だ。衣装はあちこちで売られ、目的も何もない。全部百円の店で材料を揃え、気合いの入ったものはより手のこんだものを作り、顔には装飾がされる。血まみれの看護婦、フランケンシュタイン、猫耳と尻尾のセクシー衣装、黒と赤と黄色の世界……」
「高坂……何が見えている」
「カボチャ」
 かぼちゃ?
 あ、ほんとだ。と、直江は混雑する街の奥にフルーツの出店を見つけた。
 メロンの横にカボチャがある。なんで?
 と、高坂のほうを振り返ると――サンタは忽然と消えていた。
「……あれっ、高坂!?」
 直江は呆然とした。しばらくあたりを探したが、高坂の姿はどこにもない。煙のように消えてしまった。
 仕方がないので。直江は悪態をつきつつ一人で苦労して机を片づけた。着替えてぺしゃんこになった着ぐるみを抱え、どっと疲れた身体で、バイトの元締めのところへ行くと――驚愕の事実が待っていた。
「……はあ!?」
「うん。だから、さっき来た友達に、きみの分のバイト代も渡したよ。え? もちろん現金だけど」
 だ・ま・さ・れ・た!
 直江はぷるぷる震えた。おのれ高坂。次にあったが百年目……というか、もう、頼むから、百年目ぐらいに会いたい。
 頭を抱えうずくまりたい気分で、見上げたクリスマスツリーが、直江の心とはうらはらに、ぴかぴかと眩しかった。あちこちに出された出店で、にぎやかに、もしくはそっと、クリスマスの贈り物を選ぶ人たち。
 封筒に入れてメッセージとともに贈る色とりどりのハンカチ。子供用の紙モールの小型ツリー。若者は照れくさそうに、造花の出店で色を選んでいる。最近では生花そのままにポリエステルで作られたものも増えてきたせいか、安っぽくないと人気だ。その顔は、みな幸福そうだ。
 誰もが誰かを幸福にしたくて、うずうずしている。
 遠くでパトカーの音が鳴り響いた。
「なんだなんだ、ケンカか?」
「昨日も暴力団の取り締まりがあってたろう。パーティ券を売ろうとして会社員の客を脅したとかで」
「クリスマスだからなあ。タカリも盗みも増えるんだろうな」
 例年人出の多い銀座や新宿などの盛り場には、人混みとそれに伴う事故の続出が予想されるために、警視庁から機動隊が繰り出されている。
 今年はキャバレー、バーなどの深夜営業は認めず、キャバレーが午前一時半まで、その他は午前一時まで、としてクリスマスは営業時間の厳守に目を光らせていた。
 どうしよう……。
 時計を見れば十二時半。どこの店もそろそろ仕舞いだろう。終電はないし、タクシーで帰ろうにもこの状態じゃあ、とうぶん捕まらない。さらにこの渋滞をいくには、大学から直行した財布の中身が厳しい。
 覗いた財布をパタンと閉じて、ガックリうなだれた直江に、いきなり何かが鳴き声をあげて突進してきた。
(え……っ!?)
 ショックを受けていて、気づくのが遅れた。直江がはっと顔をあげたとき、大きな丸い影が目の前に迫っていた。
「わっ!」
 雄叫びをあげて飛びかかってきた大きな動物を、間一髪手で防ぎ、ばっとよける。
(って、鳥……!?)
 バサバサ……と羽の音。黒い塊としか判別できなかったそれは、よく見るとこの時期肉屋の裏で解体待ちとしてよく見る――
「七面鳥!?」
 誰かが驚きの声をあげた。
 ニワトリとは比べものにならない大きさ。こんもりと体を覆う黒い羽。
 間近で見ると小柄な大人がうずくまったぐらいの大きさはある七面鳥は、銀座の真ん中でぐぼーっと大きな雄叫びをあげた。
 そして、なんと唖然とする直江の前で、さっきの拍子に落ちた直江の財布を、ぱくっとくわえたまま駆けていくではないか。
「なっ! おい、待て――!!」
 直江は慌てて七面鳥のあとを追いかけた。これで財布まで失えば、まさしく踏んだり蹴ったり。
「おい、待て、止まれっ」
 必死の叫びも、相手は鳥。捕まれば肉になるとでも思っているのか、すたこらさっさと逃げていく。
 くそっ。直江は盛大に悪態をついた。こうも人出が多くては念を放つことも。
 人混みをかきわけ、直江は必死に追いかけた。七面鳥はひとけの少ない路地裏へ向かっていく。よし。
 直江は鋭く目を細めて、あたりに誰もいないことをざっと確かめ、狙いを定めた。
(そこで追いつめる――!)
 手に念をこめた。もうちょっと――
 ……ぎゃん!!
「えっ……」
 何か強い衝撃が放たれ、瞬間、細い路地に張られたバリアに感電でもしたように、ばんっと七面鳥が弾かれた。ぼてっと転がってきたまんまるな鳥に、直江も仰天した。いやそれよりも――
「直江? なんだその鳥は」
「景虎様!? どうしてここに」
 目を回して気絶した七面鳥の先――路地詰まりにいたのは、なんと景虎だった。直江はぱちぱちと瞬きをしたが、すぐにその不自然な体勢にはっと気づいて、固く訊いた。
「また発作が?」
 景虎はゆるゆると丸めていた背を戻すと、フイッと視線を逸らした。
「べつに。何もない。ひとに心配されてもいけないからちょっとここに避難していただけで。……軽いやつだ。いつもの」
 あからさまに否定すれば、また直江からツッコまれるだけだと分かっているから、ボソボソとつけくわえる。
 それより、と自分が気絶させたらしい七面鳥を見下ろし、
「一体何事だ?」
「えっと……」
 なんといっていいものやら、直江はこめかみを掻いた。とりあえず財布を拾う。よかった。
「おまえの……か? これ」
「いえ違います。いきなり道路に現れて。あなたは? 今日はレガーロのパーティでは?」
 レガーロはいつもと同じ十二時までの営業で変わりはしないが、せっかくのクリスマス。
 閉めた知り合いの店で打ち上げをするのだと、前にマリーが言っていた気がする。
「さすがに客が多くて疲れたんでな。明日もあるし、俺だけ今日は先に帰ろうかと。マリーたちはパーティだ。おまえこそなんで」
「……ちょっと所用で」
 もごもごごまかす直江を、景虎がちょっと訝しそうに見る。
 と、そっと鼻に触れられた。
「なんかおまえ、鼻赤くなってないか?」
 つけ鼻でこすれた、ともいえずに、ほんのり温度をあげた頬で焦っている様子がおかしかったのか、景虎はちょっと笑った。笑ったことで、逆にその心の内側にある一種の陰りや寂しさの痕のようなものが垣間見えて、直江はぎくりとした。
 なにを、していたんだろう。
 こんなところで一人。
 誰とも交わろうとせず。
 そのとき直江はなんとなく、景虎がさっきまで思っていただろうものたちのことが、わかった気がした。
 景虎はふっと吹っ切るように肩をすくめると、「これ……どうするかな」と七面鳥を見下ろしていたが、やがて何か思いついて、積まれている大きなワイン用の木箱を起こした。
「入るかな……あ、いけそうだな。ちょっと借りよう」
 何をするのかと見ていると、落ちていた麻縄で手早く七面鳥の足をまとめてぐるぐる巻きに縛った。新聞紙をまとめるように、胴体にもまるまる十字に縄を巻きつける。直江とともに抱え、木箱に押し込めると、さらにその上から縄を巻きつける。
「これでよし。ほっといたらまた暴れるだろうし、ここに放置しておくわけにもいかないだろう」
「何かアテが?」
「そうだな、近くの肉屋が宴会をやっているから、そこへ持っていくか。そのままサバかれるかもしれんが……おまえ明日も冬休みだろう? 暇なら手伝え。ちょっとした小遣いになるかもしれないぞ。どうせこいつも、そのへんの肉屋から逃げ出したもんだろ……ん?」
 と言って、今気づいたというように「これって泥棒になるか?」と、小首をかしげる仕草がおかしくて、つい直江は笑った。
「いえ、きっとそれは…」
 続きは飲みこみ、「大丈夫です」と言った。
 直江は、箱の中におさまったプレゼントに目を細めた。
「持ちます。あなたは案内を」
「ああ。あ、ちょっと待ってろ」
 と、どこかへ走り去った景虎は、やがて何か袋と紙コップを持って、戻ってきた。
 ほら、と手渡されたのはホットワインだ。スパイスと甘いアルコールの匂いが、鼻をツンとさす。さっきの出店で買ってきたのか。寒さと裏切りに冷え切った身体とハートにぐっと効いた。ふらふらと直江は紙コップをすすりはじめた。
「これはハンバーグだ。店の残り物だがもっていけよ。明日家の人に焼き直してもらえ」
「あなたは? もう食事を済ませたんですか?」
「賄いでな。ああ……オレはいい。夜中に肉食うと翌日もたれる」
 直江が温かいワインを身体に沁み渡らせているのを見て、壁に背を預けて、景虎も煙草に火をつける。
「もたれるんですか」
「……何だ、何度も繰り返すなよ」
 いえ、そういう意味ではなく、と直江は箱の中で気絶中の七面鳥を見下ろした。よかった。
「年末まであっというまだな。来年の餅の準備もしなきゃなんないし」
「今年も店で餅つきですか?」
「ああ。バンドマン含め一人身が多いしな。仕事納めのついでにまとめてやってしおうって。まあ昭和生まれが張り切ってくれるさ」
「またジジむさいことを」
 からかうように言うと、景虎がわざと煙を強く、直江のほうへ吹きかけてきたので、反射的に顔を背ける。にっとおもしろそうに景虎の目が細くなった。
「去年なんて、朽――」
 はっと口を閉ざす。
 直江もふと真顔になった。
 長い沈黙が落ちた。
 景虎は無言で煙草を落とすと、靴でにじり消した。
 直江は、景虎の横顔を注視した。ああ、同じだ。そのまま木箱を抱えこもうとする景虎に、直江もふたたび反対側に手をかけ手伝う。さっきの、路地詰まりで一人、何かを思い詰めたような顔。
 そんな顔を景虎がするたびに、直江との間に小さな小さな亀裂が走る。初めのうちは目に見えぬほど小さな。でもわずかな亀裂は次第に知らぬうちに裂け目を深くしていくらしい。やがて黒々とした闇に包まれた穴が見えてくる。それはきっと、景虎の心の奥底に潜む穴だ。
 そこから噴き上げてくる冷え冷えとした孤独感に、急に外気温まで下がった気がして、直江もコートの襟を併せた。
 今年が終わる。失ったものの切なさも喪失感も何も癒されることなく。
 木箱を抱えあげながら、直江はうなだれるように視線を落とした。……景虎様、あなた、自分がどんな顔をしているのか、気づいているんですか?
 そんな直江を、今度は景虎がじっと真剣に見つめていたことに、直江は気づかなかった。
 と、いきなり箱が大きく揺れ、ガボガボとおぼれているような独特の鳴き声が内側から聞こえてきた。
「お、お、お、」
 慌てて二人がかりで抱え直すが、あまりに揺れるので、「すまん」としまいには木箱の隙間から念で気絶させた。
 ふたたび静かになった箱に、ふっと互いに表情をやわらげた。視線をあげないまま景虎が言う。初詣。
「どこか行くのか」
 ……例年と同じところに、と家族で行くだろう近くの神社を思い浮かべながら直江は言いかけ、しかし咄嗟に違う答えを返した。
「いえ、特に決めては」
「ならどこか行くか。昼ぐらいからでいいだろう。あんまり人出が多くないところで……マリーも誘って」
 と、ふと直江の顔を見た景虎が、「なんだ」と言った。
「初めてだ」
「あ?」
「あなたが、来年の話をしてくれたのは」
 来年って、と景虎が呆れたように言って、少し間があった。
「……あと一週間もないだろう」
「それでも。この体になって、あなたが怯まず、次の約束をしてくれた。俺は。それがうれしい」
 湧き水のようにわき上がってくるものをじっと噛みしめている直江の横顔に、景虎が、不意を付かれたように黙った。きゅっと、眉がなじるようなかたちになったような気がした。唇が何か言いかけ、それから、何も言われなかった。
 歩いていく。二人して。

 だれかを想うことで、こんなにもきつい気持ちになったことがないので、もしかしたらいつか耐え切れなくなるかもしれない日を思うと、不安ではありますが。
 子どもにケーキを、少女に本を。
 隣の人には、今傍にいる人には、――何を贈ろう?

 とりあえず今は。
 メリークリスマス。

 また来年。



2014.12「恋と昭和と二〇一四」あとがき〜尚紀と高坂と七面鳥・変人がサンタクロース〜



2015.11.2 UP NOVEL PAGE
炎の蜃気楼25years、おめでとうございます。オフラインのあとがき寄せ集め。本文内容とはほぼほぼ関係ないアホ話ばかりですみません…。