センチメンタルな旅・冬の旅





【アンソロジー】
詞華集、名詩選。ギリシア語のアンソロギアanthologia(花を集めたもの)に由来する。
優れた詩や散文を集めたもので、最初の編者は紀元前一世紀のメレアグロスとされ、詩人50人のエピグラムepigram(短い風刺詩)を集めた。
アンソロジーの名は2世紀の編者ディオゲニアヌスによって用いられた。
ジャンル別、時代別など種々あるが、内容は編者の鑑識眼や好みによって左右されることが多い






「てめえがアンソロジー?」
 ひっくりかえった語尾は、あきらかにせいだいな呆れと、うさんくささとわずかな嘲笑をふくんでいた。こっちだって、その気は毛頭ないけど、失礼だ。
 ホームセンターで千円の、ちゃぶ台ふうローテーブルに置かれた手紙。
 「御身ご多忙」「些末な依頼」うんぬんかんぬん。たらたら小難しくいやみったらしい文面は、けさ高耶の家のポストに消印なしで入っていたものだ。
 要約すると、

――断ったらしいが、そんなに怖いのか、腰抜けめが。

 となる。
 ちなみに送り主は『高坂弾正忠昌信』。朝からやたらカラスの鳴き声がしていたのは、もしやこの不吉な手紙の前ぶれ、もしくは予告通知だったのか。
「だいたい譲とっつかれたの、こいつのせいだろ! 断ったのだって直江なのに、なんで何も知らねえオレがねちねち嫌味言われなきゃなんねーんだよ!」
「まさか書くつもりだったのかおまえ」
「へっ、誰がするか、んなめんどくせーこと。作文なんざ、まともに書いたのは小学生までだっつーの。だいたい『テーマ:私の主従(主・従どちらからでも可)』って、オレ、おまえらのことなぁんも知らねーし」
「勝手になぁんもかぁんも忘れてるだけだろ。けっこう俺ら長いつきあいだぜ大将。時間だけはな」
「時間だけは、っつう時点でおまえとろくなつきあいしてる姿が見えない」
 さあどうだかな、と千秋はペットボトルから麦茶をつぎ足す。ゴン、と高耶もとうに空になったグラスを置くと、いかにもめんどくさそうに高耶のグラスにもついだ。あいかわらず客人を持てなすこころづかいがひとかけらもない。
「おまえがこうやって何度うちに転がりこんできたかもまるで覚えてねーんじゃ、俺への感謝も書けねーな」
 反射的に高耶が口を開いたが、ふっと眉をよせる。なにかいおうとしていえず、じわじわと口がすぼみ、けっきょく唇はへの字に閉ざされる。
 それを横目で盗み見ていた千秋は、あぐらをといた脚を畳に投げ出し、あんまり興味もなさそうに話を戻した。
「で、そのアンソロジーとやら。あと誰が書くかおまえ、知ってんの?」
「あ、ああ……んにゃ。でも政宗んとこの片倉小十郎は、まえにチラッと言ってたんだよな。オレはよくわかんねーから、あとで直江に訊いてくれって言っといた。勝手にひとりであれこれ動いたらまずいんだろ」
「おー、おー、ちったー自覚するよーになったかー」
 撫でてきた手を、高耶は乱暴に頭のうえで払いのける。
「二段組みA5予定。四百字詰め原稿用紙三十枚程度(手書き可)。タイトルは……」
 千秋は口をグラスにつけながら規定を読み上げた。
「……『闇戦国読本』?」
 深い沈黙ののち、ごくり、と静かに麦茶を飲む干す音が部屋に虚しく響いた。
「……って、なんだその公式っぽいタイトル!」
「オレが知るか!」
「危なく次世代に誤解されるぐらいだろォが! まさかこんなご当家アンソロジーが、闇戦国の「歴史」として後世に残るんじゃねェだろうなァ!」
「だからオレが知るか!」
 もしそうなったら何度だって換生して破壊と破棄をくり返してやる……と手紙を睨んでいた千秋が、ふと訊いてきた。
「おまえ、ぜーったい書くなよ」
 だから書かねーけど、なんで。
 というと、おまえに書けるわけないだろターコ。真顔であっさり切って捨てる。
「書きたくないんであって、別に書けねーわけじゃねえよ」
 フン、と高耶が鼻を鳴らすと、「バーカ、なにやる気なってんだよ」と思いっきり千秋が馬鹿にした目をよこしてきた。
「一冊で一気に読むほうの身にもなれよ。よっぽど厳選されたとして、どうしたって力量に差がでるのがアンソロジーだぞ」
 それをおまえみたいなド素人に!
「しかもいちから。うまい代理人たてられたらいっかんの終わりじゃねーか。他家はともかく、武田なんて超一流文官に執筆させて寄こすにきまってんだろ。そんなやつらと同じ枠内、おなじ装丁、おなじ枚数、おなじ締切で比べられて。おまえ、そーゆーこと全然考えてないだろ」
 だとしても言いようがあるだろう。むっつり黙りこんだ高耶に、容赦なく千秋は続けた。
「断って正解。てめえみたいなド下手くそ、書くだけ身内の恥だ。セーフセーフ。だいたいなんでその相談を俺にする。直江が断った結果に文句つけるんなら、当の本人にいってやれよ」
 それから不意に声を落とした。
「おまえ、最近直江避けてるだろ」
 ぎくりとした。
 べつに。目を反らし、そらぞらしく立ち上がる。
「コンビニで茶、買ってくる」
「じゃあついでにアイスと昼飯。焼肉弁当ね。よろしく」
「カネ寄こせ」
「授業料でしょ、オ・ウ・ギ・ク・ン」
 床に転がった男が糸をつけた五円玉を指でまわしながら、足を振って見送る。べつに、まったく頼んでない。こんな念合宿。このままばっくれようかと思ったが、戸を開けたとたんむっとした空気と凶暴な日差しが飛び込んできて、そんな気も萎えた。
 日差しを避けるため、高耶は腕をまえにかざしてつぶやく。
「くそ、海でも行きてえな」




 確かにいった。
 いったけど。
「なんでこうなったんだろう……」

――現在の天気は晴れ。気温は三十三度。からりと快適な夏の気候となっており、バカンスには絶好のお天気でしょう……

 高耶のうめきに、直江はめくっていた機内雑誌から顔をあげた。
「とりあえずビーチサイドのホテルをとっています。目の前は海ですから泳げますよ。初めてなら、国際通りや首里城などの観光地もありますが……空港から一時間半ぐらいなので、きょうはもうホテルに直行でもかまいませんか?」
「おまえさ、ときどきむちゃくちゃするよな……」
 と複雑そうな顔で高耶がうめいた。顔つきを見るといまだ信じられていないらしい。直江としても、無茶苦茶というほどではなく、ちょっとした思いつきというか気まぐれに近いものなのだが。

 飛行機は、沖縄に向けて飛んでいる。

 佐賀と福岡での事件を終え、これから東京に戻ると松本へは夜中になってしまうこと。あしたなら福岡から松本までの週三日のみ航直の直行便が出ていること。カウンターで迷っていた直江の目に、たまたま一時間後の「沖縄便空席アリ」が入ったこと。ちょうどキャンセルが出たばかりで、夏休みにもかかわらずホテル込みで二人分の往復席がとれてしまったことなどから、少し足を延ばして一泊延長となった。
「夏休みに入ってからずっとつきあわせていますから。軽い息抜きというか、ご褒美みたいなものだと思ってください」
 ラッキーと羽伸ばしに笑われるかと思ったら、予想に反して高耶は困った顔で、すこし笑っただけだった。
「……ご褒美なんて立派なもんもらうほどのことしてねーよ」
 しかし、機内から空港通路に移ったとたん、高耶はちょっと呆然、から一気にテンションがあがったようで「すげー!」と直江の袖をひっぱってきた。
 本州から九州とは、また違う海を越えたのだと、直江もあきらかにわかった。
 カラッとした天気。風に揺れる大きなヤシの葉。なにより空の青さがぜんぜん違う。
 静かで機能的で涼やかな機内にいたせいか、そのあざやかな色彩はひどく目に刺さる思いがした。
 外に出たはずなのに、見えない壁があるみたいにずんと身体がおどろいている。明るさや楽しさより先に脳が指圧される。とことんこの肉体は、ふだん飲み食いしている水と空気と大地でつくられていることを、妙なところで知らされた。
「車を借りてきます。ちょっと待っててください」
 一心に外を見つめている高耶にいい、直江は空港内のレンタカーカウンターへと向かう。




 サトウキビ畑に挟まれた歩道のない道路をのんびり走る。
 ぽつぽつ見える民家の屋根や入口にシーサーを見つけるたびに、高耶は声をあげた。
「なんかなごむよなぁ」
 海ちかくで、休憩がてら車を停めた。道路にせりだすサトウキビを押さえているロープをなぞりながら、高耶が直江を見上げてちょっとまぶしそうに目を細めた。直江も横のサトウキビを見上げる。一メートルから、大きいものは三メートルぐらいだろうか。総じて直江より高い。
「あんまり違和感ないなおまえ」
「そうですか?」
「もちょっと南国的にチグハグするかと思ったけど……サトウキビのほうが高いからかな。人がいねーからあんまりおまえがでかいって気にならねぇし」
 と、ふと気づいたように聞いた。
「景虎と来たことあるか?」
 サワサワと葉の揺れる音が、一瞬空いた間に響いた。
「……いえ。兄の不動産屋の出張で来たことはありますが、あなたとはタイミングも合いませんでしたし」
 と曖昧に口をにごらせた。沖縄がまだ占領下で旅券がいった時代でもある。しかし、それを抜きにしても。
「でも、もしかしたら、あなたがここに生まれなおした可能性もあったかもしれませんね」
 と、話をそらすように直江は冗談めかした。
 海を二つ越えた場所。遠い遠い島。
 ザン、とちいさく波の音がした。たっぷりの陽光は、響きかたも違う。遠くの音までよく聞こえてくる。
 歩きぬけた新緑のむこうに、青く美しい海が広がった。
「もしオレが沖縄に生まれてたら、毎回飛行機で調伏旅行かな」
 すこし、直江は真面目に考えてしまった。高耶が沖縄にいたら。最近の怨霊たちの動向は、景虎なしでは厳しいものがある。とすれば、高校を卒業して、その機でもいい。
「越してもらうかもしれませんね。私か、長秀はまだ怪しいですが、晴家の近くでも」
「そっか」
 高耶はいつになくおっとりと微笑んで、言った。「そうだな」
 静かな声にはひっそりと寂しさや諦めのような響きがあって、おもわず直江は、すみません、と謝っていた。心から。
「なに謝ってんだよ、例え話だろ」
 海岸へ下りる石段のところで、高耶が足を止めた。
 赤い鳥居。導かれて奥へ進めば、ひっそりと小さな神社がある。高耶がなんともいえない顔で見下ろしている木箱は、どうやらよくある恋みくじらしいが、なぜか箱には「十八禁」。
 予想できない御籤に、これはいったいと凝視している高耶に、気になりますか? 直江は聞いた。
「やっ、べつにっ! ただ、なにが書いてあるんだろうな……って」
「気になるようでしたら、試しにひいてみては?」
 高耶はぎょっとした顔で、「いい、いい」とすぐ首をふった。
 が、気にはなっているようで、きびすをかえしながらもチラチラと目を走らせている。気持ちはわかる。十八禁みくじ……直江だって謎だ。
「では、私のお金であなたが引く。いいことが書いてあったらあなたが持ち帰ればいいし、さほどよくなかったらお金を出した私が枝に結びます」
「それどっかで……っつか、結ぶったってこのへんサトウキビ畑しかねーけど……」
 と高耶は狐につままれたような顔をしていたが、直江がさっさと財布から金を出して筒に入れてしまったので、観念して木箱に手を突っ込み、いちまい引いた。
「なんと?」
「えっと、吉……って、判断しづれーな」
 続く内容を読んでいった高耶の顔が、みるみる呻き顔ちかくに、くしゃっと寄る。
「……ただのエロみくじじゃねえか!」
 あほらしいと丸めて、ジーンズのポケットに乱暴につっこみ、高耶はずんずんと海に向かって下りていく。
「見せてくれないんですか」
 高耶は石段のとちゅうで振り向き、低い声で「いやだ」と答えた。
「見たきゃもういちまい引け、自分で」
「ああ、いいことが書いてあったんですね」
「…ッ、ちげーよ! あーっ、うるせー! うるせー!」




 「魚の家」と板にペンキで手書きされた看板。その先はなんてことはない、岩場の窪みに、そのまま潮が引いて帰れなくなった魚が数十匹溜まっているだけだった。
 それでも真っ青だったり小さく骨まで透けそうな熱帯魚はあきらかに本州では見ないたぐいの魚だったから、高耶はおもわずというように、ほうっとちいさく息をはいた。海面に指先をつけると、水をはじく油のように、ぱぱっと散らばって四方にすばやく逃げてしまう。
 千畳敷には、泳いでいるひとのすがたもあった。ビーチではないですが、岩や石が少なく深めだからきもちがいいですよ。レンタカーを借りるときに教えてもらった。海はただエメラルド色に輝いている。
 海面からのぞいている岩々をひょいひょい跳び移っていく高耶を、滑らないていどに乾いた場所で、直江は見ていた。
 波がいくつも生まれて生き物のように浜辺へ向かう。さながら小さな竜神の競争のようだ。
「泳いでいいんですよ。さっきの店に水着もあったでしょう」
「おまえ泳がないんだろ。いいよ」
 と、ジーンズの裾を折り返した高耶は、これだけ買ったビーチサンダルで直江のところまで戻ると時計を見た。
「三時間しかたってないのか。変な感じだな。なんかもう二日ぐらいいる気するぜ」
「距離移動はてっとりばやい気分転換ですから。時間の感覚も狂ってしまいますね」
 海は深緑色から群青へと変わりつつある。夕陽を受けたところだけがうすく水色へと変わる。粒子の集まり。空気のすき間。
 思考が生まれるそばから消えていく感覚は初めてで、あらぬほうへふっと意識がもっていかれそうになるのを、直江も、となりの存在だけでかろうじて留めた。
 地の力はすごい。引っ張られるのでものっとられるのでもなく、じぶんを両手サイズの球体としたら、その球体の枠をとっぱらわれるのに似ている。楽しいとも癒されるともまたちがう。溜まっていた砂がさらさらとこぼれて見えなくなるぐらい、広く広く、抜けていく。それがよいとも悪いとも言えないけれど。
 とことんプラスの力に慣れていないな、と直江が内心苦笑していると、ぬるい海水を足先で蹴っていた高耶が、不意に「なあ」と違うトーンの声で振り返った。
「ひょっとしなくても千秋から聞いたんだろ。オレが……その、おまえ、避けてるとかなんとか」
「……ええ」
 すこし目を伏せ、直江はこたえた。
「やっぱり。おまえも忙しいのに急に沖縄なんてゆーから、どうしたのかと思ったら」
「ふつうに断られると思ったんですけどね」
 けれど高耶は来た。
 陽に晒されていつもより濃い輪郭を見せる人に、直江はいう。
「あなたには、貴重な休みを、もう一日余分につきあわせることになって申し訳ないんですが――」
「そんなのはどうでもいい」
 高耶は首の後ろをかきながら、「どうでもいい」と、もういちどつぶやいた。
「うちの両親さ。まだオレが生まれるまえ、沖縄にも旅行に行ったんだって。そんなに金があったわけじゃないから二泊三日の短い旅行だったらしいけど」
 さいしょの旅行が北海道。つぎが沖縄。子どもができたらしばらく遠出もむずかしくなるだろう。そうしたらこんどは毎年、すこしずつおおきくなる子どもといっしょに、近くのいろんなすてきな場所をまわろう。そうして、子どもがおおきくなったら、また飛行機にのって、家族でここに来よう。
「玄関のところにあるんだ。シーサーの木彫りのレリーフみたいなの。おふくろが出ていって、離婚して、でもまだあるんだ。うちに。親父もたぶん気づいてない。それを……いま思い出した」
 高耶の家の、だれしもがあたりまえの家の景色として馴染んだもの。まつろう記憶。幼いときに聞いたはなし。
「おまえと来なかったら忘れたし、思いだしたのもいやじゃなく嬉しいって思えたのも、おまえが仙台でおふくろに会わせてくれたからだし」
 だからオレは。
「おまえに、あんまり甘えちゃいけないと思って」
 広がる景色が鮮やかすぎるせいか、すこし目を伏せて笑う顔は心なしか悄然として見えた。
 ひとりきりで、自分の中に向けて言っているような声。
「高耶さん」
 いわんとすることがわかったようなわからないような不安で、直江は高耶の腕を掴んだ。
 それは、甘えていることを否定されたいのか受け入れてほしいのか判断できないトーンで、いいんだとたやすくうなずいてしまったら、握りしめて彼が必死に守っている硬い石が小さく砕けてしまいそうで。直江が続く言葉を見つけきれずにいると、
「おまえは」
 高耶がぽつりといった。
「……本当は、オレなんかにずっとついてていいやつじゃないんだよな」
 その口調の不安定さと思わぬ揺らぎに、とっさに直江は手を離した。
「奈良で言われたこと、ずっと考えてた。あれから、よく思い出すんだ」

――あなたを護るのは、この私です

――私にとって一番大事なのはあなたです。それがあなたのためなら、最後には手段を選びません

――自分自身の価値を忘れないでください。それでも、もし忘れてしまいそうになったら……

――私が、いつでも思い出させてあげますから

「あんなこと言われたら、おまえに逃げちまう。おまえのこと、さいごの逃げ場にしちまう。だから、あんまり会っちゃいけねえって。仕事とかはしかたないけど、それ以外で……」
 仰木高耶≠ニして。
「いままでだって、こいつなら突き放さない、って無意識に利用してるんじゃないかって思うとき、あるし。オレがどうっていうより、あんまりおまえが誠実で一生懸命でまっすぐでオレのことずっとかまって……揺るぎないから。……だから、オレは、もしかしておまえに甘えてるのかなって」
 ……たとえば、景虎に戻れば、おまえのこと、こんなに利用しなくて済むようになるのかな。
 いわれた意味を反芻しているあいだに、高耶はさっさと濡れた足をタオルでぬぐい、スニーカーにつま先をつっこむ。
「高耶さん……」
「オレ、おまえみたいになりたい」
 ざん、とひときわ大きな波の残滓が、遠くで散らばった。
 スニーカーに指をかけたまま、高耶はまっすぐ射抜くようにこちらを見つめている。
 そんな人間じゃない。
 私はそんな人間じゃありませんよ、と。
 穏やかに笑ってなにもなく高耶≠ノいおうとして――直江は――けっきょく、できなかった。
 体ごとぶつかって壊れそうになりながらも、高耶は願っている。否定してくれるなと、こんなにもまっすぐ。痛々しいほど。
 そういう願いを、いまぶつけられている。
 直江が開きかけた口をそのままつぐむと、高耶はようやくほっとしたようにうつむき、首をねじるようにして顔をそらし、駐車場のほうへ戻っていく。
 その背を強く抱きしめていいのか。駄目だとしたら何がいけないのか。直江はまだはかりきれないでいる。
 ――利用している?
 だれが。




「だぁいじょーぶ、だーいじょーぶだって……」
 力をいれて掴んだ腕は抵抗なく持ち上がり、なんとか引っ張って部屋まで入ったとたん、高耶の身体はベッドへおおきくよろめき、倒れこんだ。
 さっきまでホテル近くのログハウスで早めの夕食をとっていた。沖縄料理とオリオンビールの後、まだ飲むの飲まないのと言いあうふたりの声を聞いた店主が、「これで割るといいよ」と泡盛のボトルとシークァーサーの原液を置いていった。飲んだぶんだけ計り売り、ということらしい。
 うすめに割った泡盛はまるでジュースのような飲み口だったため、平気そうな顔で飲んでいた高耶に気づくのが遅れた。会計を済ませて戻れば、椅子から立った高耶の足下が、ふらついた。ハッと見れば、けっこう量が減った瓶。しまった。
「大丈夫ですか、高耶さん。ほら水、飲んでください」
「へーきへーきぃ」
 ベッドからひらひらと手が返ってくる。むりやり水を飲ませ、寝かせて、ようやく落ち着いた。
 リゾートホテルというよりはシティホテルに近い。それでもだいぶ広い部屋をざっと見渡しながら直江が時計を外していると、
「アンソロジー」
 とくぐもった声が聞こえてきた。
「……断ったって」
 横向きになった顔が、訊いてくる。ああ、あの話か…と思い出し、そうですね。と直江はあっさり答えた。
「私たちは彼らとは違います。私的警察としてなれあうわけにはいきませんし、なにがきっかけになるかもわかりません。遊びでもなんでも、変な情報提供に繋がる可能性があるなら、避けたほうがいい」
 むくりと赤い顔の高耶が身を起こし、ゆっくりベッドにあぐらをかいた。
「あれ、そんなややこしい話?」
「実態はただの『うちの殿様話』に近いですけどね」
 あとは拾った犬が大きくなったとか屋敷に花が咲いたとか現代人の変わった遊びとか同盟募集――までは、さすがにまだない(たぶん)。
 どこのだれのきまぐれで始まったか知らないが、このぶんじゃ秘密裡に怨霊文壇サークルとかあるんじゃないか。悪さをしないと調伏するわけにもいかないため、つい想像してうんざり直江は額を押さえた。いや、むしろそっちに夢中になって、現実世界の勢力争いなんか忘れてくれればいっそラクだが。
「今回あなたに執筆依頼が来たのは、上杉景虎の復活を聞きつけたからだと思いますが……逆に心配ですね、各自の立場は分かっているのかと。高坂はともかく、他のメンバーからして何かの罠と考えるほどではありませんが……内容はなんであれ、我々が彼らとなれあう必要はないでしょう」
「なんだ、そういうことか」
 となぜかほっとした顔で高耶はうつむき、それからむっと何か思い出したように、ぶつぶつ言い始めた。
「千秋のやろー……つうか高坂とかいうやつ、マジむかつく。ガチでブン殴ってやぁー……」
 語尾が弱まったのでどうしたのかと見ると、「あー…」と高耶はなんともいえない顔で頭をかいていた。
「なんっつか、怒るっての、できなくなるな」
「え?」
「この気候ってか。なんか、もう、高坂弾正忠昌信って名前自体が南国ムードになってるよ、いまオレのアタマん中で」
「頼もしいですね。聞かせてやりたいですよあいつに」
 それ以上高耶がなにも言わなくなったので、直江もなんとなく窓の外を見た。
 夏とはいえ夜がずいぶん明るい。車通りがないからか物音ひとつしない。日々感じる空気のなかにもある果てない静けさがひっそり寄り集まったようだ。下のプールでは、まだ母親と子どもらが影絵のように遊んでいる。オーシャンビューの窓から海に沈む夕陽を眺めていると、「あーあ」と高耶が声をあげた。
「こーゆーとこ、つきあい初めて二、三ヶ月とかで来たらまずいよな」
 そういえばエレベーターで乗り合わせたカップルがいた。
「ええ。子どもができそうですね」
 とさらりと返してハッと振りかえると、高耶がしらけた顔をしていた。……ドン引きされている。
「間がもたないって言いたかっただけなんだけど……」
 呆れ半分の顔で、けれど高耶は、ひといき置いて笑った。
 禁欲そうな男の、意外な一面を見たといわんばかりに。
「エロオヤジ」
「高耶さん!」
 エロとオヤジのどっちに反応したのかわからないまま声をあげると、高耶はよりいっそう笑い声をあげて、ベッドにボン、と再度勢いよく上半身を投げた。その拍子に、高耶のポケットからぽとりとこぼれたものがある。
 直江が拾い上げる。さっきのみくじだ。
 ――『体位、騎乗位が吉』?
「……背中と指股には特に注意を払え。官能には大胆にまた積極的に身を投じよ。怪我のもとになる玩具はつつしむべし」
 愛撫に肌染めて震える夜は燃えて落ちても消えない。励め。
「わー! わー! わー!」
 とベッドから跳び起きた高耶が、直江の手からひったくった。
 ばつ悪く視線を泳がせていたが、やがてキッと睨んできた。
「おまえにも半分は責任あるんだからな!」
「……ええ」
 ちゃんと半分責任とらせてください。
 なんて言葉をさらりと飲み込んで平気な顔をしているぐらいには、自称、おとなだ。
 高耶はみくじをくしゃくしゃっと丸めて今度こそゴミ箱に放り捨てると、鏡台の藤椅子を引いた。
「書いてやんよ」
「え」
「アンソロ。他にすることもねーし」
 オレだって書けるっつうーの。どっかと腰かけて、ごそごそ引き出しを開け始める。
「あなたが?」
「つまりおまえのこと書きゃいいんだろ? まだ二ヶ月分しかわかんねーけど……あ、心配すんな。どこにも出さねーから、書くだけ」
「それはいいんですが……ちなみにどんなものを?」
「んー。うちのちょいエロ家臣……嘘だって。睨むなよ。えーっと、そうだなぁ」
 ボールペンのキャップでこめかみをつつきながら、「あ、こんなのどうだ」とニッと視線をあげてきた。
「小学生の作文パロみたいにさ」
 そうだ。出だしは――

「『オレの直江』」

 真顔になったのが、自分でもはっきりわかった。
「聞こえませんでした」
 口が勝手に動いたのも。
「は?」
「聞こえませんでした。もう一度言ってください」
 怪訝な顔で、でも高耶はくり返してくれた。
「……オレの、直江?」
 瞬間、うずくまりたくなった。大きな、本当に大きなため息をつく。
「なんだよ」
「なんでもありません……。器のちいささと小ずるさに、ちょっと嫌気が差しただけです」
「なんだとぉ!」
「あなたじゃありませんよ」
 ぜんぜん意味がわからない。と、妙な顔をする。それはそうだろう。
「すみません。どうぞ続けてください」
「えーっと……、オレの直江は坊さんです」
「なんですかそれ」
 思わずつっこむと、予想していたように高耶がけらけら笑った。
「実は末っ子です。乗ってた車はこないだ廃車になりました。だいたいスーツを着て、いっつも忙しそうにしています」
「高耶さん、書くなら先にシャワーか風呂に浸かってはどうです?」
 そうだな。と高耶は素直にボールペンを放り投げる。クローゼットから浴衣とタオルを取りだし、直江のほうを振り向いた。
「風呂いっしょに入らねえ?」
「はい?」
 思わずひっくり返りそうになった。
「わ、私はあとで……」
 そ、とわかっていたようにも少しがっかりしたようにも見える声を残してドアへ行く。
「……直江」
「はい!」
 姿勢を正し、反射的にいさましく返す。
「欲しいもんができたら言えよ。礼にもなんねーだろうし、高いのはまぁ、あれだ、やれねーかもしれないけど。おまえが欲しいもんができたら、そのときはオレがいっしょにいいの探して、ちゃんと見つけてやるから……」
 いきなりに戸惑っている直江の先で、もう酔いの見えない背中が言った。
 カードキーを持った手をノブにかけて。
「本当の景虎なら、もっと的確で心に響く言葉で表せるだろうけど」
 首をひねり、振り向いた。――ありがとう。
「守ってくれて、優しくしてくれて。オレのこといつも考えてくれて、傍にいてくれて、見捨てないでいてくれて、ありがとう――おやすみ」
 パタンとドアが閉まり、それから最上階が大浴場だったことを思い出して、トン、と直江は力を抜いた背中を壁につけた。
 ごちんとさらに後頭部をうちつけて、天井を仰ぐ。
「……恐ろしい島だ」




 いつもより長めにシャワーを浴びて直江が出ると、きちんとベッドは高耶のぶんだけ膨らんで盛りあがっていた。
 机を見れば、転がったボールペンとメモを破ったあと。ゴミ箱を漁ることまではせず、直江は鏡越しに高耶の姿を見つめた。
――景虎に戻れば、おまえのことこんなに……
 どういうつもりで言ったのか。
 こういうとき、ふと倒錯的な思いにかられることがある。高耶が「景虎」の顔になるとき。誰も知らない。本人は無意識だろうが、直江のことで悩むときだけ。
 自分だけが、高耶を景虎にする。
 ぞくりとした。思考がみょうな逆転をおこした。この少年を景虎≠ノ変化させていく。直江が。直江だけが。自分自身で、埋めた罪をほりかえす。会うことで、会うたびに、おのれを苦しめる存在を浮き彫りにしていく。と、どうじに、もっと。
 ……もっと、と渦巻く。
 もっと染まってしまえばいい。自分がこのひとを考えるその何分の一かでも、彼が直江のことで苦しみ、思い悩む暗い色に染め上げられてしまえ。はりつめてやぶれそうな欲望に、あらがわず包まれる。あおるひとりごとさえ、芝居がかっている。滑稽な。
 ……いったい、俺は何を願っている。
 彼の不幸を願っているわけじゃないし、そもそもが直江の思いあがりに近いものだろうが、その考えは拾い損ねたつややかな原石みたいに、胸の深いところにことりと落ちた。
 息をついて、高耶のシーツに手を伸ばす。安らかに寝息をたてる肩まで、引きあげてやる。唇にかかった上掛けを少しずらすと、直江の指先に高耶の吐息がかかった。目をすがめる。
 そっとわきあがる情欲に似たもの。
 けれど狩るものの眼差しに変わらない。慎ましやかに、うやうやしく。ただの恋人のように慈しむためだけに、この人を抱きたいと。なにも知らぬまに――醜い欲望なしに。
 ただまっさらに抱いてしまいたい、と。
 思ったのは初めてで、どうかしてるとぼんやり思った。
 長秀と晴家の顔を思い浮かべて、やけに遠いことに、いっしゅんひやりとした。夜叉衆も、仕事も、下手すれば四百年の歴史さえもひどく遠い昔のことのように思いだした=B
 遠い。あついのに、さめている。
 まだここに来て半日もたっていないのに。世間から隔離されたみたいに、ふたりきりだから。希望も恐怖もいっとき忘れ、二人して確かなからっぽとなった。ただ、いま目のまえの高耶が、きょう交わしたことばだけが、ともに見た南の島の景色ばかりがすべてで、直江のまえで眠る生き物に集約されて、質感を伴って、ここにいて。ほんとうで。
 彼がそばにいてくれてよかった、とほっとした。こんなささやかな心の動きひとつ、彼に通じることはないだろうけれど。
 高耶さん、と小さく呼びかけてみる。
 返事はない。広い部屋で空調の音すらほとんどしない。
 熱をもつうすい耳に、ささやく。――ほんとうに。
「……植えつけられたらいいのに」




 明けがた、高耶がそっと起きあがる気配がした。
 トイレかと思ったら手探りで荷をたぐりよせる動きがしばしあり、きちんと服を身につけた高耶が、となりのベッドの直江を伺って足音をたてないように、靴を履いて出ていく。
 閉じていた瞼をそうっと開き、高耶の気配が消えたのを確認してから、直江は半身を起こした。
 ベッドサイドを見ればまだ五時だ。ハンガーにかけていた高耶の服だけがない。
 直江はしばらくベッドに腰かけてそのままだったが、立ちあがり、ふとベランダのカーテンを引いた。スリッパをつっかけ、ベランダに出て見下ろすと、明るい闇のなかで、見覚えのある背中がプールの脇を抜けて海に向かっていくところだった。
 少し考え、それから簡単に服を着替えて、ついでに自分のシャツをおまけにいちまい手に取って、直江も部屋を出ていった。


 高耶はいた。
 ひとり、岩場にたってぼんやりと月を眺めていた。
 さんざめく銀の星は、満月だからうすいとはいえ、本州よりだんぜんよく見える。夜明け前でも、まだ月は眩しいほどだった。
 ひょい、と海にむかって高耶が岩に跳び移ろうとしたところで、足を滑らす。あ、と声をあげかけた直江のまえで、ぎりぎりで移した足が、またその岩でみごとに滑った。
 あ、あ、と二、三歩つるつると滑ったあげくに、とうとう海面に落ちるかと思ったが、高耶はなんとか奇跡的に踏みとどまった。
 ……はぁ。言葉にならない安堵を吐く。
 それ以上滑らないことを確認し、ほっと顔をあげた高耶は――高耶のサンダルを借りて見ていた直江と、ばっちり目があった。
「……いたのかよ!」
「まったく気づいていませんでしたね」
「見てたんなら声かけろよ! あ、待て、来んなおまえ、滑るから。戻る」
 と、スニーカーでこんどは慎重に戻ってきた。
「鍵もってきたか?」
 一枚しかないカードキーを見せると、ちょっとほっとした顔になった。
「少ししたら電話してみようかと思ってた」
「綺麗な満月ですね」
「ああ……本当に綺麗だ」
 と、尻ポケットから携帯を引き抜き、月に向けて切ったシャッター音が鈴の音で海辺に響く。
「ここの海も見納めかぁ」
 直江がワイシャツを差し出すと、薄着の高耶は見透かされたように目を細め、笑って素直に羽織った。冴え冴えと降り注ぐ月光に、まぶしそうに伸びをする。
「もう一泊ぐらいはできますよ」
 そんな高耶の後ろ姿に、なぜか思わず直江は声をかけていた。
「美弥さんに連絡をして、帰りは福岡でも東京でもいいですから。どちらでもここからなら便も結構飛んでいますし」
「あー……」
 高耶は少しの間、ぽわんとほうけたように遠い目になった。それから、照れたように「やばいな」と鼻の下をこすった。
「いや、だめ、だな。なんか、うまく言えねーけど……ここはだめだ」
 それだけは、しっかりと決別した声で。
「へこんだり、ちいせえことで腹たてたり。そういうこと全部含めてオレだから……」
 うまく言えない続きは、自分もわかるような気がする、と直江は思った。
「このまま、ぜんぶなくしたら、すげえ気持ちいいんだろうなって思うけど、けど、だめだ。まだだめだ。だから、もうちょっと……無駄に焦ったり、したい」
 ここに住んでいる人は、そういうの全部飲み込んで生きてるんだな。すごいな。くしゃくしゃと高耶は前髪をかきまぜた。
「そうですね……。ほんとうに、そうだ」
 思考が広い空と海に吸い込まれていく。月がだんだん左から右に移って、うす明るくなっていく。目のまえも頭のなかもこころもまるごと揮発し、浮かぶそばから飲み込まれて消えていく。自分たちが慣れていないだけなのだろうのか。
「非日常時間」なんて安直な感想を捧げたところで、ここでだって「日常」をおくっているひとたちはいる。
 それは、いままで感じたことのない戸惑いだった。
 西の薄れていく満月を眩しそうに見つめる高耶の先で、空と海が、サーモンピンクと水色の層をなす。白かった雲が、下からどんどん、朝焼けの色に染まっていく。しだいに蝉が、騒がしい合唱で朝を告げ始めた。
 ぱしゃん、と魚が跳ねる音がした。
 すうっと波紋により、水面に飛行機雲がつくられていく。
 切り取った視界には月しかない。
 高耶のほうを振り向けば、高いところにある雲は薄くオレンジに。低いほうは空より暗い灰色へ。はるかな空の高低差を見上げている直江に、高耶もならうように隣にやってきて言った。
「でも、見つけてくれるんだよな」
 高耶のほうを見返す。空をみながら、わかっている顔をしていた。ぜんぶわかって、受け入れているような顔。知らないくせに。いままでの直江のことも。いまも、これからも。
 なのにこんなに確信に満ちた表情で、声で。
「もしオレが、ここにいても、ここじゃないどこにいても、おまえは。オレを……見つけるんだよな」
「……はい」
 それがどんなに平凡で幸福な生活だろうと、きっと直江は壊してしまう。後見人の名を借りて、だれよりなにより自分の欲望を優先させて、目のまえの人といっしょにいるために。なんて身勝手で罪深い。
 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。許して。 
 それでも、いるかぎりは護るから。
 世界全部を敵にしても、護るから。
「帰るよ。ちゃんと帰る。……でもいつか、どうしても何か忘れたくなるようなことができたら」
 直江。
「また、連れてきてくれるか?」
「ええ」
 直江はしっかり頷いた。
「約束します。どこでも、どこまでも」
 本当は、あなたとならいつまでも。
 高耶はきゅっと笑って、それからハッと思いだしたようにいった。
「つか、こういうホテルに男二人って変じゃね?」
 直江は少し黙り、
「おかしくないですよ」
「間がいやだ! やっぱ不自然だろ! 昨日からカップルか家族連れしかいねーし! 何しに来んだよ、男二人で!」
「ダイビング仲間……とか。それより朝食に行きましょう。ホテル自慢の、海の幸バイキングらしいですよ」
「ソーキそばある?」
「……どうでしょうね。そういえば昨日食べ損ねましたか」
「ブルーシールも食ってねえしさ。あー、やっぱ一泊二日って短けーよ!」
 日差しが照りつけはじめる。ホテルの屋根が煉瓦色を増す。朝日を浴びた一対のシーサーが、鮮やかなサラダのプチトマトのように、左右ぴったりおさまっている。




 帰りの空港で、高耶はちいさなキーホルダーを買った。琉神の名がつくご当地ヒーローだ。
 対象年齢のところをじっと見ている高耶に、だれへの贈り物かなんとなくわかってしまった。
「高耶さんも、子どもの頃、こういうのが好きだったんですか?」
 はっと戻そうとした手より早く、直江は自分の手を重ねて押しとどめた。揺れる黒目が見上げてくる。
「……おふくろに、バースデーカードの、礼。でも、今の子どもにこういうの、やっぱ迷惑かな」
「子どもに今も昔もありません」
 きっぱり直江は言った。
「それに、覚えていてほしいと願うことも、罪でも悪でもない」
 忘れられたくないと。
 覚えていてほしいと。
 高耶の目が直江をとらえた。それから、ゆっくり鮮やかな――まだ少し痛みの残るものではあったが――笑いをつくった。
 南の島の青が乗り移ったように。
 重ねた手に、力が込もる。
「誰だって、ほんとうは――。覚えていてください、高耶さん」




 そう言ってくれたのは、確かに直江だったのに。




 ちらりと。
 窓の外に白いものが落ちた気がして、高耶は窓を少しだけ開けた。
「……っ」
 途端、冷たい空気が、頬を刺すようにして車内に入り込む。ちいさな雪の粉がキラキラ舞っている。

――全国的に寒波が吹いた昨日、沖縄では日本一早い桜の開花宣言がおこなわれました。

 曇り空を見上げながらラジオに耳を向けていると、運転席の直江が訊いた。
「ホテルの前に寄りたいところはありますか」
「みなみのしま」
 怪訝そうな顔をする。あたりまえだ。どこかそんな地名があるのかと少し考えているらしき顔に、あっさり冗談だと告げてやる。
「少し疲れた。千秋が来るまで少し寝たい。阿蘇神社に迎えを寄こすよう軒猿に伝えてあるから、阿蘇方面へ向かってくれ」
「わかりました」
 ――景虎様。
 前を見たまま答える横顔が、少し知らない顔に見える。そんな痛みにもだいぶ慣れたはずなのに、ふとした拍子にズキズキと痛めつけられる。
 いま。高耶の記憶にしかない、うつくしい島がある。
 痛み止めが効いてきたのか、ピリピリ冷たい風を受けると、猛烈な眠気がきた。深い深い海にどこまでも落ちていくような、ひたすらに潜っていくような。あのときに似ている。圧倒的で強烈で、自分がかすれて消えてしまいそうな旅の途中。
 これからどんな、ところに行こう。
 戻って一週間もしたら、楽しかったかよと千秋にからかわれ、ああ楽しかったぜ、と屈託なく答えられるぐらいには、うすれて馴染んだ、そうだ、あれといっしょだ。なにもかもが丸ごとだった島。
 だが、思い描く場所はもう、この世のどこにもないのだとわかっている。
 日焼けはすぐに毎日の鏡のなかで忘れてしまい、肌になじんでしだいにうすれ、携帯写真は広島の海に沈み、たまにぶりかえすこんな胸の痛みも、ずいぶん麻痺した。
 すべては慣れて、過去に消えていく。
 滑らかに走る車のなか、重だるい指を窓のスイッチにかけた。
 ぼんやりとながめる。
 この流れが、とおい楽園までつづいていますように。
 ここにいますよ、といった手が、みあたらない。
 いっしょに旅を、するひとがいない。
 そうだ、帰らなければ――でもどこへ?
 帰ってしまったら、なにか悲しいことがおきる気がするのに。
 もしかして、自分はまた、どこかの旅へまぎれこんでしまったのだろうか。やさしくて、さびしくて、かわりにとても自由でどうしようもない。つなぐ手がどこか行っても、ひとり空っぽのままでいる、そんな旅の延長ばかりを重ねているんだろうか。
 だったら、もう。
 自分は帰りつく場所を、知っているような気がするのに。




『オレの直江』     上杉縁組  上杉景虎


  オレの直江は坊さんです。
  いつも忙しそうにしています。
  直江の仕事は、オレを守ることです。
  なんでと訊いたら、悲しむ人がいるでしょうと言いました。





 驚いた。
 いいのか、と驚いた。
 直江だけは自分と景虎に線を引かない。世界を住み分けない。高耶がかたくなに握りしめている、ちっぽけで、千秋たちから見たらくだらないむき出しのものも、強引に切り捨てさせない。
 だから、甘えてると思う。




  直江がいてくれて
  ちゃんと名前を呼んでくれるかぎり
  オレはオレを保ったまま
  景虎になれるんじゃないかと思う。
  それがいいのか悪いのかわからない。
  けど、なんていうか。





 ザン、と波の音が聞こえた気がした。
 高耶はプールのほうを見るが、やっぱり物音一つしない。
 間接照明を受けたカーテンに、琥珀色の光がうつっている。泡盛でうまくまわらない頭をひねる。ゆらゆらと酔った思考も意識も、もうまどろみの中に片足を突っ込みはじめている。
 もういいや。スリッパをつっかけ、カーテンをわずか開ける。重い頭を振って、強引に創作物をしめて終わらせようと思い出す。小学生の作文パターン。
 隙間風みたいにあらわれる。男の子が、女の子が、両手で読み上げる、そんな定型的なイメージ。


  でもぼくは。わたしは。
  そんなお父さんが。


 ふと手が止まった。じっと紺碧の空を見つめていると、昔抑え込んでいたものが表に出てきて、はっきりと一度壊れ、またザワザワと破片が集まって再生される。文字が、意味をなさない花びらのようにほろほろほどけていく。



  ――オレは、そんな直江が、



 目を閉じる。指に力を込める。
 下からぴったり、冬の外気とガラスいちまいぶん、隔たれる。
 感情も記憶も交感も。残しているのが自分だけなら、自分が壊さないかぎり、あれは「本当」だ。たぶん。きっと。
 だから信じよう。直江を。自分がかんぜんに壊れる、あと少しだけ。
 まぶたの裏で、幻の桜が咲いている。
 もうすぐまた……おまえと過ごす、春が来る。







Fin.(2020/10/6UP)
初出:2011.3プチオンリー「乾坤一擲」アンソロジー寄稿……って10年前! と再掲ってなにやらいろいろ恥ずかしいですね。


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