グッバイサマー
かくん、と首が前のめりになったタイミングで、「直江」とシートベルトで固定された肩あたりを軽く揺らされて、はっと覚醒する。 「すみません」 「……いや」 さすがに慌てて、今どこだときょろきょろとあたりを見渡せば、だいぶ海水浴場から遠ざかっている。 寝るなんてとんでもない、と思ってはいるものの、こうしているあいだにも睡魔はしつこく襲ってきて、昼間の波のように寄せては返す妙な波動に、ついうとうとしてしまう。それこそ誰か強力な催眠暗示でもかけてるんじゃと思うほど。このぶんじゃあ、助手席で舟を漕いでいるところを見られていてもおかしくない、と少し日に焼けた顔で直江は赤くなった。 日が落ちて、気温も真昼よりはさすがに落ち着き、赤いコンバーチブルのボディにも直江たちにも、夕暮れの心地よい風が吹きぬける。 後部座席では、きゃしゃな体を横たえた晴家がすやすやと眠っている。むりもない。普段慣れぬ太陽と海水にどっぷり浸かった(ついでに喧嘩までした)体だ。さらにこんな、なめらかな運転とよい乗り心地では。自分だって油断すると急速にまぶたが何かの引力に強く引っ張られ、くっつきあって、そのまますぅっと落ちていこうとする。 いつのまにかラジオは消され、運転席の景虎は煙草を吸っている。片手でステアリングを持ったまま、どうやら道路は渋滞にはまったようだ。 「大学は順調か。試験は夏休み明けだろう」 「ええ。専門が多いのが難ですが、被っている人間も多いので、ノートを見せてもらいつつ、なんとか追いつくようにはしています」 「医学部は大変だな。でもまぁ、笠原の家のこともあるしな……」 なおき。 と呼ばれて、あ、とすぐに訂正される。「じゃない、なおえ」 直江は助手席からそっと左のほうに身を乗り出し、いたずらっぽく声をひそめた。 「……なんですか、賢三さん」 「やめろ」 と景虎は心底嫌そうな顔をして、サングラスを中指で押し上げた。 「新しい箱とってくれ。そっちに転がってないか? 足元とか」 「だめですよ。目を離すとすぐに吸う」 「今日ぐらいいいだろう。運転役だ」 とすぐ穏やかな目になって言う。ずるい。こんな顔をされては。直江は短いため息のあと、足元にある箱を取り上げた。あれ。 「もうホープに変えたんですか?」 「いや、バットが品切れで。味は結構近いからな。おまえはもうこればっかりなんだろう」 「ええ、吸い始めたのは最近ですが」 開けると、蓋の裏にラクガキみたいな小さな黒いマークが印刷されている。 ピカピカの太陽。晴れ。 「……またか」 「なにが、あ、天気がか?」 「取り替えましょう」 とさっさと直江は、自分の荷物から同じ銘柄の新品を取り出して開けた。こちらのマークはくもりのち雨。 「なんだ、集めてんのか? 店のマッチも毎回持って帰るし。おまえ、そういう箱モノ収集癖でもあるのか?」 前の車と適度な車間距離をとって走らせながら問う景虎に、しばし直江は黙っていたが、ぽつりと口を開いた。 「ずっと晴れですよね」 「? それ以外にあるのか?」 「……ほら。買えば必ず晴れって相当なものだと思いますよ」 「そうか? ほかにあったとしても、大吉みたいなものだろ」 「割合でいえばほぼ同じですよ。自分で曇りとか雨とか雪とか見たことないでしょう」 「おまえが無理矢理取り替えてくれる以外はな」 と言う景虎に、 「――天秤の運を、少しでも減らしたい、というか」 え? と景虎がちらりとこちらを見てきた。 直江は景虎に横顔を向けたまま、吹き抜ける風に目を細めた。 「こういうところで使ってると、肝心なところでしっぺ返しがおきるんじゃないか、とか。馬鹿な心配なんですけど。ただ天秤のはかりが釣り合うのだとしたら、なんかあったときに、この減らした分の運だけ、あなたの怪我が減ったりしないかな、なんて」 苦笑した気配が、となりから伝わってきた。 「いじましいことするな」 サングラス越しに、妙にやさしい目つきで言われた。 「それで? 吸わせてくれないのか?」 箱を両手で握ったまま黙っていると、 「じゃあオレのは箱ごとやるから、おまえのその煙草を一本くれ。それでいいだろう?」 言われて、仕方なく直江は一本差し出した。景虎が唇でくわえたそれに、隣からライターで火をつけてやる。 うまそうに最初の煙を吐き出した景虎に、直江は言った。 「……このままあなたの家まで行ってしまおうか」 ね、行きませんか。 景虎が運転しながら淡く笑う。 「駄目だよ。家まで送り届ける」 すずしい目つきで受け流されれば、それ以上はねだれず、直江もふっと笑ってシートに身を預ける。本当にこの人をおんぶしまくったときがあったっけ。なんだか幻のように思える。 「さっき、」 「え」 「起こして悪かった」 「いいえ。主人が運転している横で寝るなんて、あるまじきことですから」 慌ててシートから身を起こすと、違う、と景虎が言った。 「なんだかおまえが泣いているように――いや。今にも、泣きそうに、見えたから」 直江は真顔になった。 急に早くなる動悸を隠しながら、 「そんなに涙脆くありませんよ」 とすぐに微笑みをつくって、冗談みたいにやわらかく返した。景虎もあっさりうなずく。 「そうだな。すまない、オレの気のせいだ。でも、おまえが泣くとき、それは大概、オレがおまえに、酷いことをしているときなんだ」 ――だから止めた。 静かに言われて、胸がつまった。 まぼろしだ。起きたらすぐに消えてしまう、今だってもう覚えていない。そんな、たわいないまぼろしだ。 湖のボートで抱きしめた鏡と、白い体。空襲みたいな轟音の中、心臓のうえにあてられた銃口の固さと、重ねた自分の指に抵抗する指の必死さ。廃屋の狭いベッド。 思考を押しつぶす程の圧倒的な力と、それをはねのけたときの壊れそうなほどの怒りと、驚きと、悲しみ。恐ろしいほどの静寂で対峙したルビー色のオーラ。ヘリコプターの音、人々の制止の声、やがて額に熱く植え付けられるような感覚。 それから。 「悲しい夢でも見たのか」 透明なまなざしを隠すように、目を閉じて直江は、風に吸い込まれてしまうほどの声で、いいえ、と答えた。 「……ただ、一生懸命でした」 そうか、と赤信号で止まって景虎も目を伏せた。夕陽が眩しかったのかもしれない。それとも彼も、見たことがあるのだろうか。その瞬間の、熱さと、歯がゆさと、悲しみと、悔しさと、体を灼くような熱い何かと、頭の中の空白。こうするしかない、ともう限界まで濃く塗りつぶした場所から、亡霊のように聞こえてくる己の声、そういうものがどっといっしょくたにあふれてくる感覚。 ――だから止めた。 あなたは、どう思っただろう。 「寝てていいぞ」 「起きています。あなたと一緒に」 今度は景虎が身を乗り出し、何かと目を見張った直江の顔を覆うように、深くカンカン帽を被せた。 すっぽり視界が暗くなったから、直江は、傲慢な男の唇がもう滅多にみせてくれない調子で甘く囁くのを、昔のいろんな景虎の柔らかい表情で聞いた。 「いいんだ。そんなに長い時間じゃない。じき渋滞も抜ける」 帽子越しに優しく透ける陽と影。 直江は笑って頷いた。景虎の手が離れて信号が青になると同時に、飛ばされないよう帽子をずらして胸に抱いて、瞳を閉じる。 車は走る。スムーズになった道を静かに。そうだきっと、そんなに長い時間じゃない。 「あ、違った、右折だったか」 景虎が控えめに呟くのが聞こえた。夏の夕方の風が耳を撫でてゆく。 いいんです。 声に出さずに直江は言った。言葉なんかよりもっと大事なものでいっぱいの、濃い液体みたいな空気にたゆたゆに浸されながら。 迷ってください。もっと、遠くまでいってください。 もっと、時間いっぱい、帰る場所すら忘れるほど隣にいさせてください。もっと、ずっと。いろんな景色を駆け抜けて、幸せそうにとなりで笑って。それが終わったら。 スピードを。 風が前髪を吹き上げる。道路はどんどん流れていく。その中を景虎も直江も走っていく。びゅんびゅんと、ぐんぐんと。 スピードがあがる。 もっと、と直江は祈るようにねだる。もっと、もっと、あげて。 暗闇も絶望も振り切るほど。 あなたとならば、走っていける。走りきれる。 誰も何も届かない、何の力も及びはしない、まっさらなところへ。 だけどつかまってしまうんですよね。きっと。私たちは。 ここで終われば、という選択をいくつも重ねながら、またか、とまだか、を叫びながら。 そちらでないほうを愚かにも、惨めにも、選び続けて。謝罪も弁解もされないまま、最後の最後までどうしようもない。分かってる。 きっとそのたびに、泣いて泣いて泣いて。 本格的に眠りにおちる直前、蜂蜜のようにとろりとしたまどろみの中で、慣れた煙草の、甘い匂いを嗅いだ気がした。 ホープ。希望。 そして景虎も。 煙草一本分だとしても、何かをまだ。 「今日はいい日でした」 重たるい眠気が舌先をしびれさせるから、水の中にいるような、ふわふわとおぼつかない声で、直江はやっとそれだけ伝えた。 うん、と景虎が返す。 そんな幾つもを積み重ねて。 おやすみ。 瞼の裏に、日に焼けた初めて見る少年の笑顔の残像が浮かんで消えた。 |
2019.8.1 UP(初出/ネットプリント 2014.3)
NOVEL