種火になる
日が暮れてきた。郵便局の前のポストの影が、濃く、長くのびていた。空は高く、うっすらとした鱗雲が掃き寄せられたように空にぽつぽつ浮かぶ。秋の乾いた空だ。小さな飲み屋の固まった路地はまだどの店も閉まっている。ものさびた小路。 白い煙は、紅に染まりつつある中でもよく見える。薄い唇の隙間からふうっと押し出すと、なまめかしく浮かび、漂い、消えていく。無機物のはずなのに霊的なものに近い。吸った、という余韻だけを直江の唇に残して。 今吸っている煙草は少し甘い香りがする。今の宿体に変わって嗜好も変わった。食べ物の好き嫌いが変わるほどではなかったから、煙草を吸ってみてそうと気づいた。景虎なんかはずっと同じものを吸っていて、「これに慣れてしまったからな」なんて苦笑しているが。 ぽうっと煙草の先が橙になり、ちり、と焦げる。吸えば、反応する。おもしろい。これぐらい分かりやすければいいのに、なんて埒もない考えに浸ってしまう。 燃えて焦げて近づく先を見つめながら目を細めると、ときどき火をもらいに近づくハンチング帽の横顔が見える。小さな火の灯る先と先、そっと秘密をわけあうように手を添えて。 少しだけ顔を傾け、まつ毛を伏せて、唇を近づけてくる。 火はすぐ移り、またそこで燃えて焦げて近づく。でも最後まで届くことなくいつも無造作に靴底でひねり潰される。あたりまえだ。自分だって同じことをやっているのに、なんだか思考が煙草寄りで、直江はやるせなく自嘲する。熱源はその唇まで届くことすらできない。ばかばかしい。 直江は指のごく近くまで迫った火種を見下ろした。指を開くとあっけなく煙草は路地に落ち、そのへんに潰された吸い殻と同じひとつの景色になった。 ポケットにつっこんだ手にマッチが触れる。踊り子のシルエットとレガーロの文字。皮手袋越しにコツンと弾く。たかがバーのマッチ箱一つ、乱雑に扱っても問題はないはずなのにどうしても少しだけ慎重で丁寧な扱いになってしまう。 今夜はどうしようか。夜、もう一度行ってもいいだろうか。もう一本吸いたくなったが、もう時間なのでゆっくりと直江はきびすを返した。 景虎の態度に、心当たりがないわけでもない。 三日ほど前だ。景虎が高熱を出した。 舞台を休めないマリーの代わりに薬を手に入れ、アパートにかけつけた直江を迎えたのはほとんど声の出ていない状態での「帰れ」の一言だった。 「感染る。医者の息子が医者の家に病原菌を持ち込むな」 朽木のこともありここ数日またとみに景虎は直江に冷たい。 もちろんそこで怯む直江ではないが、息使いも荒いくせに人の家まで持ち込まれすげなくされるとさすがにきつかった。 「……なら、さっさと下着を脱いでください」 こっちの声色も若干変わってしまう。 は? というように景虎が赤い目尻を動かしてきた。 「坐薬なんです。これが一番早い」 熱か羞恥か耳まで赤くし、何考えてんだと言った。ぼうっとうまく呂律もまわらない声で小さく返す。 「自分でやるから、いい、出てけ」 「こわがることじゃないでしょう」 とありったけ毛布を重ねた布団の中、冷たく湿った浴衣の肩に手をかけるとびくりと景虎が震えた。 「馬鹿、いいから、ほっとけ……」 本気で払ってくる手が弱い。ほとんど力が入らないのだろう。起き上がりもできないくせに。風邪だからというだけでなく自分を邪見にするような厳しい顔を見ると苛立ちといまいましさがないまぜになって、強引に布団を剥いでうつ伏せに返した。 膝を折り曲げ、高くした腰から一気に下着を下ろす。 「なっ……」 と、景虎の体が不自然なぐらい強張った。 「やめろ、離せっ、はなれろ…っ」 見ればさっきまでの赤みがひき、逆に青ざめるぐらい血の気が下がっている。何が作用したのか、がくがくと震えながらも前へ逃げようとする身体は、しかしほとんど力が入らないのだろう。すぐにバランスを崩して布団につっぷしてしまう。それでもとかく前へと逃れようとする。掴んだ直江の手からも逃れようと、上半身の浴衣もずれて腰まで落ちても、妙に必死で逃げようとするそれは、ちょっと怯むぐらいの拒みようでいつもの不遜な景虎らしくなかったが、しかし直江は構わずに、狭い口を指で広げた。 「やっ…」 景虎が、ひ、と息を詰めた。 パッケージを割り、自分の熱で溶かさないように、流線型の薬剤の先を押し当てる。 「やめ…っ、いやだ、や……」 助けを求めるようとするように、手が畳のうえで丸まったり開いたりする。はっ、と景虎の喉奥で呼吸が詰まる音がした。まずい、肺かと一瞬吸引機を目で探したが違うようだった。咳き込む代わりにひたすら体を萎縮させて、声を出しきれていない。 直江は弱々しく暴れる景虎の手首を片手で畳に押し付けた。 自分よりはずっと小柄な体をすっぽり覆うようにかぶさりながら、座薬とともに指を一本、ゆっくりと奥まで呑み込ませようとする。首の後ろから耳たぶまで辿った男の息に、景虎が今にも死んでしまうのではというほど顔と首を引き攣らせる。 「息を吐いて」 直江は懇願するようにその耳元に吹き込んだ。紅潮する目じりがはっと新しい涙をこぼし、その声に景虎が目を見開いた。 「大丈夫だから……」 ひくん、と狭い口が小さな薬剤を奥へといざなう。腕の中に顔を伏せた景虎が左右にかぶりを振る。 「あ、あ――…」 直江を全身で拒絶しながらも、身悶える曲線が悩ましげだった。 病人だ、という義務感のようなものが、この場だけは腹の底の疼きを忘れさせた。ただ交尾のかたちに開かれた脚の手前に、景虎の腹の裏の傷が見えた一瞬、衝動にかられて直江は肩甲骨あたりの溝に溜まる、ちいさな汗のたまりを舐めとった。透明な塩の味。 「笠原さん……?」 軽く袖を引かれ、はっと顔をあげると、下から美奈子が覗き込んでいた。 「あ―…すまない、ぼうっとしていたみたいだ。何か言った?」 「う、ううん。ちょっと聞きたいことがあったんだけど……また後日にしますね。母が少し体調を崩していて。なかなかお礼もできずにごめんなさい」 「いいや、早く帰ってあげて。風邪が流行っているようだから。お母さんも君が側にいることが一番安心するだろうしね」 そうね、と呟く美奈子は自分の妙な体のことで両親を心配させてしまったことに落ち込んでいる。 「もう心配かけたくないわ。大事にしなきゃね。せっかくできた家族だもの。大事にできる人がいるのは、嬉しいことよね」 「そうだね」 レガーロに毎日来る直江に景虎はいい顔をしない。こっちに来る暇があれば親孝行のひとつでもしてろ、と言われたこともある。 景虎はすぐ直江を家に帰そうとする。巻き込まれることを危惧しながらも、なるべく家族との時間をもたせようとする。 血も繋がっていない同士が、出会い、心をつなぎ、同じものを食べ、今日あった出来事を話し、互いの暮らしを支えあい、できるだけ居心地よく整えられた一つ屋根の下ですこやかに眠る。二足のわらじだとしても直江の献身的な姿に足る両親であることを知っているから。その中でひとときのやすらぎを得ることを、大切だと思っているからだ。景虎が。 ひつようなことだと思っている。そのひつようなことを直江は景虎に与えることができない。 四百年。過ごしてきた時間に油断させられている。安らぎも癒しも、与えられる気がしないのに。 綺麗な夕陽ね、とすっきり晴れた夕暮れを見ながら、美奈子が目を眇めた。「ありがとう」と微笑みのかたちで小さく呟くのが聞こえた。今日一日、無事に終えられた。今日一日、大切な人が無事でいてくれた。どうか明日もこんなふうに安らかに穏やかに一日の終わりを迎えられますように。透き通るように白い横顔が照らされ、銀幕の一場面のようだった。 直江も同じ気持ちだった。なのにどうして、自分は彼女のように笑えないのだろう。 たとえば明日明後日、景虎の前に美奈子のような人間が現れないともかぎらないのに。 「賢三さん」 ステージにだけスポットライトが残る薄暗い店内のテーブルで、一人グラスを傾けていた景虎に、高らかにヒールの音をたてて近づいた女がいる。 店が始まる前の直江と景虎のやりとりを見て、言いたいことをステージ中ずっと抑えていたマリーだ。 「先に帰れ。オレもこれを飲んだら片付けて帰るから」 顔もあげない景虎の、空いた手を掴んだ。 直江相手に目もやらなかった景虎は今も不機嫌に目を伏せたままだ。代わりにマリーはきっと眦をあげた。マリーには直江の気持ちもよくわかる。さっきもほとんど会話は成り立つことなく直江は行ってしまった。 拒絶ではなく自分が必要ないといわんばかりの景虎の態度。ささやかな気遣いを積み重ねて不安定な足場にして、それでやっと伸ばしている指先なんて見もしない。 例えばこの男が抱かせろといえば、自分は一瞬の躊躇なくいまこの場で一枚残らず脱いでみせるのに。 「慎ちゃんも風邪?」 「ああ。早めに帰した。オレがうつしたかもしれんしな」 マリーはテーブルの上に紙袋を置いた。中には筑前煮とメンチカツが入っている。取りつく島もなさげな景虎をあきらめ、直江がマリーに渡した差し入れだ。 伏せた顔で景虎がちらりと紙袋を見たのがわかった。じっと、探るような眼差しで。 「銭湯に寄っていくからこれ、持って帰って。食べたら直江に器を返しておいて。……昨日、あいつアパートに来たんでしょ? 会わなかった?」 と言うと、景虎はますます難しい顔になった。ひっそりと人と混じるのを拒むような、それでいて目の荒いやすりみたいにすこしざらついた。 なのに何も言わない景虎が憎たらしい。ただでさえ今日はイライラしているのに。 バン! と強くテーブルに打ち付けられた手で、景虎が掴むより先にグラスのウイスキーの表面が揺れた。 「景虎! あたしまで無視するつもり!? 何よもう、生理痛の苦しみも知らないくせに!」 虚をつかれたように景虎が肩越しにそっと目だけで見上げてきた。 「こっちは毎月毎月血ぃ流しながら歌ってるのよ!」 「やめろ」 「何よなによ、ドレスは汚してないわよ。ちゃんっと御不浄まで我慢してるんだから! そりゃちょっと漏れるときもあるけど」 「……そうじゃない」 と顔をしかめて景虎は額を抑えたがマリーこと晴家は止まらない。 「ただでさえその顔目つき悪いのに、今日は特に朝からイライラしてずっとむすっとして! なによ虫歯でも痛むっての!?」 ヒートアップを続ける晴家を遮るように、「ちがう」と景虎は言った。 「歯じゃない。首だ」 「……は?」 じゃなくて。 「くび?」 「寝違えた」 はあ、とその答えに脱力した。なるほど。だから朝から。 晴家はわざとらしく咳払いをして、気まずさをごまかすようにウイスキーのキャップを強く閉めた。 「な、なぁんだ。でも珍しいじゃない。あなたいつも同じ姿勢で丸まって寝るし。それともやっぱりあれって寝違えやすいの?」 景虎は珍しくいいあぐねるように額を抑えたまましばらく視線をさまよわせていたが、少し酔いの見える眼差しで、記憶を手繰り寄せるようにして、グラスをたよりない指先で引き寄せた。 「……昨日、寝てたらアパートに来た男がいて」 心なしか、かすれた声にやや熱がともった気がした。 「話す気分でなかったから無視して寝てたら部屋に入ってきて、何も言わず側でずっと見下ろしてて、そのうち帰るだろうと寝たふりしてたら髪を、梳かれて」 ゆっくりと。 しんと静かな冷たい部屋の中で。 それはずいぶんと長い時間で。 「景虎」 「……なかなか寝つけなかったのにそのうちいつのまにかトロトロ眠くなって」 「――たまらなくきもちよくてとろけちゃったんですってよ、直江」 瞬間、ぐぅっと喉元をしめつけられたような悲鳴がテーブルからあがった。誰もいない、空っぽの入り口へ呼びかけた晴家は、つっぷすように首元を抑えて呻く景虎を冷たく見下ろす。ふだん冷静で理知的な印象が強いだけに珍しい姿ではある。 「晴家……」 「それ、直江には?」 景虎はするどく目を眇めると、 「言わなくていい」 と、晴家の哀れむような視線を受けてややあって嘆息した。どっちへの同情かは知らないし知りたくもないけれど。 「ちょっとは優しくしてあげなさいよ、あの子に」 「あの子って中身いくつだと思ってんだ」 「優しくしてない自覚はあるのね」 景虎は一瞬きゅっと眉を寄せた。いつもの殻に籠るような顔ではなくて、どこか困ったような風情で。 その、景虎のつぶらな目が心なしかこどものように揺れた気がした。長めの下睫毛がぐっと童顔具合を増す。 けれど景虎は、さっとそれを陰めいた笑みの下にしまうと「あいつに優しくするのはオレの仕事でも役割でもない」と煙草に火をつけ思いきり肺に吸い込み吐き出した。止める暇はなかった。 「ばかね」 晴家は言った。もう怒ってはいない声だった。 「あなたはもう少し人に甘えることを覚えるべきだわ」 景虎はすこし目を伏せて「いいんだよ」と言った。拒絶も強がりも、何の感情も窺えない口調でそう言うと、景虎はもう、それっきり口を聞かなかった。表面上の投げやりさなんかじゃない、もっと深いところにある、景虎の諦念みたいなものを垣間見た気がして、ホールに細くのぼる紫煙を見ながら晴家ももうそれ以上言うのはやめた。 「まぁ、お礼に手料理でも作ってやったら? たまには違う家庭の味も食べたいんじゃないかしら」 「家庭……? オレが料理は得意じゃないこと、おまえだって知っているだろう。が。軍でやってたのも短い間だし、味もそっけもない飯なんざあいつだって食いたくないだろう。そういうならおまえが作ってこの器にいれておけよ」 「天は二物を与えないのよねぇ」 サンドイッチなら失敗しないんだけど、とかろやかな美しい声で歌うようにいって晴家は小首を傾げた。 晴家が出ていき、煙草をぎゅっと灰皿に押し付けると、景虎は頬杖をついた。暗いフロアは景虎を残すのみだ。消し忘れた喧騒の余韻を残すステージスポットの光は、ひどく目に刺さる感じがした。まっすぐな。逸らすことを許さぬ、きつい視線。 その感触を思い出そうとするように、目を閉じた。 ぎゅっと手を握る。アルコールかそれとも違うものかで少しだけ干上がった喉で唾を飲み下す。 静かに満ちてくるものがある。 あの指、手つき。触れるのを恐るような、焦がれるような、何年たとうと忘れないような。あんなふうに触れられて言葉を発することができなかった。あんなきつい目をするくせに。 覚えてる。覚えてた。覚えてると思うときがくる。どれかは分からないけれど。 いつかすべてを失うときがきても、もしかしたら。 時間軸がぐんにゃりとたわんで過去も今も未来もごっちゃになってしまった気がする。もう一度されたら、また、ほどけてしまう。 それはあの小さな部屋をいっぱいにして景虎を息苦しくさせる。たぷたぷと静かに満ちて、でも自分を押し流すでもない、ただ来た道も進むべき道も見えなくさせて、息の仕方も忘れていく、どうしようもないもどかしさ。 ――あなたにとって……私は…… 「ならおまえにとってオレは……」 苦く呟く景虎の言葉にならない続きに重なるように、外で強い木枯らしが笛のように鳴った。 歌うように、叫ぶように。 |
2019.8.11 UP(初出/ネットプリント 2014.1)
昭和編始まって数日後に書いたものでした。おもしろすぎてどう手をつけたら、でもなにか書きたい、というもだもだ感が如実に。
NOVEL