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34)
微かに一定の音で波で聞こえつづけるひとの声に安心したのか、オレの手の下で、全身から最後の力が抜かれていく。やがてすうすうと静かな呼吸音が聞こえ始め、今度こそ彼は、胎児のような眠りにおちていった。どうも反則勝ちっぽいな、と苦笑しながらオレは立ち上がった。
試合に負けて勝負に勝った先生に触れていた手が、なにかを駆り立てるように体温より少し温かくなっている。軽く握ると、呼応するように心臓の鼓動が強くなった。生きろ、と胸に直接伝わるリズム。
生きろ、生きろ、生きろ――――。
呼ばれたようにカタンと開けた窓から広がる光景に、オレは思わず感嘆の息をついた。
こんな夕陽はじめて見た。
白みがかった黄色い円はやけに冴えていて、まるで月のようだった。いつか見た夕焼けより眩しいものを見ているような感じに襲われ、目を細めた。
「綺麗だ」
ふと、見せてやりたい、と思った。あの二人に。
けれどできないから、太陽が沈むそのひと時を、せめてとじっと深く見つめつづけた。それが今生きてるオレができる唯一の礼だと思えたから。
「そういえば、満月なのにあれだけの星が見えたのって変ですよね」
でも、いいだろう。そんなおかしな奇跡が、プレゼントのように一度ぐらいあってもいいだろう。
ありえない一夜は、きっと互いの顔が見えるようにだ。あの顔を、手を、震えを。温かな涙ばかりがあった、あの夜のすべて。
「だれのしわざかな」
物語に答えは求めない。けれど、あの夢を愛しいと思う自分の気持ちだけは信じられる。これでいいのかと迷ったときには、あの夢が背中を押してくれるだろう。
炎がゆらめくような空と、くすぶる煙のような雲の間を、白い太陽が最後の輝きを街に放ちながら、ブロック塀の向こうに徐々に消えゆく。わずかに感動して、
「先生……」
と、とっさに振り向いた瞬間、安らかな寝顔に口をつぐんだ。
沈みゆく太陽と、この顔。どちらが価値があるかと一瞬迷い、オレは宝箱を閉ざすようにそっとカーテンをしめた。そうして陽光に膨らんだ部屋は、ふたたび二人だけの王国になる。こうして目を閉じた顔を見ていると、あのとき身体越しに触れた彼の心の襞まで思い出せるようだ。
「先生、もう寝てますか? 綺麗な夕焼けでしたよ」
そっと呟く。あの陽がふたたび地上に顔を出すとき、また新しい朝が来る。それまでの短い夢と戯れているのか、ベットからは答えは返らない。ならばオレも、それまでここにいよう。
夕陽があんな色に見えるからには、今日は空気がとても澄んでいるんだろう。このまま闇が深くなれば、もしかしたらあの日を越えんばかりの美しい星空が見えるかもしれないけれど――
「見れなくて残念ですね」
オレも、先生も。
口を湿らすためか、ふと口がまるでむっとしたようなタイミングでつぐまれた。おや、と思う。
「……拗ねないで?」
ごろん、とこっちに寝返りと打つのに、たはっ、と笑ってしまった。
意識はないはずなのに言葉が通じているようでおかしかった。ためしに言ってみる。
「そろそろ帰ります」
ふと表情が翳った。わずかに鳴る胸を感じながら、
「もう少し、ここにいてもいいですか?」
聞こえたみたいにふっと和らぐ目元。たまらず撫でてやりたくなるのを抑えながら、まいったな、と夕陽より熱い胸で思う。
たとえばこの人が目を醒ます。
そのとき世界が、このうえない愛しさと希望と唄と青空と――平和に満ちたものであるように。
だからオレは今日も生きて。
いつの日か、そのときにかける優しい言葉を探す。
……そんな生き方も悪くない。
「あなたに出会えてよかった」
今はまだ、これを口にするのが精一杯だけど。
ふっ、と真顔になった彼に微笑みながら、これで聞こえてたらいやだな、と思い、そっと空気だけで囁いた。
「あなたが好きです」
こうして眼を閉じているとあどけなささえ残って見える顔を見つめていると、彼が手を伸ばした。そこにだれかがいるように。オレは頬をそれに寄せる。上から手を重ねる。ぴったりと、肌が手に覆われた。
聞こえていますか、この声が。
だったらオレの願いはひとつです。だから、どうかいつまでも――
「どうかあなたは――」
その願いを口にするより先に。
彼が、眼を閉じたまま。
こぼれるくらい幸せそうな顔で笑った。
その瞬間、彼もシーツもベットも壁も消えた。
どしゃ降りのカーフロントみたいに、ぼろっとオレの視界がくずれ、
「……え」
ぼたぼたと頬を伝ったものと。
それを涙と認識するまでに間があった。こちらに向けた顔をそれ以上見ていられなくて、体を折り曲げてうつむくと、ぱたぱたと落ちた水滴が顔を覆った手を抜けて診察室の床にはじかれた。頬を流れる、あなたが夢で見ていた海と同じ味。
どうしてあなたのことを考えるとこんなに胸が痛むのか。
がむしゃらにその身を抱きしめてやりたくなるのか。
好きだと、あなたが好きなんだと、ただそれしか言えなくなるのか。
開けた窓が風を呼び込み、白いカーテンを大きくはためかせた。体の奥底の固まりが静かに放熱してきたのをオレは感じる。固い殻は刻を待ちながら愛しい子守唄を奏でる。
もうすぐだ。――もうすぐだ。
大事な約束を交わすように、横たわる人の手と己の指をからめて祈りの形にした。
そばに行く。
何度つぶやいただろう。いつもオレはこうして手を握り、口や胸で囁いた。誓うように。祈るように。
いつだって全霊で、喉を嗄らし、眼球を干上がらせる熱情が押し寄せるのを感じながら、ひとりにしないと魂で叫んだ。
あらん限り手を伸ばしたその先で、強気ながらも寂しさの影を含んだ眼の人に問う。
そこは最上だったか。
あなたが今、ひとりでいるそこは。
起きたらいるか?
ずっといますよ。
……別にいなくなってもいいんだぞ。
嘘つき。あなたがどれだけさびしがりやか知っている。
本当だって。
こっちも本当です。
……じゃあ信じる。
呼んで。
なにを。
祈りと誓いの名を。あの夜のように。
そしたら途切れることない、長い長い話をしてくれるか?
ええ。ずっと。
眠りにつくまで、ずっとずっと話していてほしいんだ。それでも……?
あなたの望むままに。
終わりの言葉はめでたしめでたしか?
違いますよ。決まっているでしょう。
髪。梳くの気持ちいい。
そう。じゃあずっとこうしててあげる。
彼が安心したように深い眠りにおちていったのを感じた。
カーテンの隙間を縫って、一筋の夕陽が部屋に差し込んできた。そっと一本一本指をほどくように手を解放し、いつも彼が座るイスに背を預けながら、オレもそっと目を閉じた。キィと微かにきしむ音に交じって、どこからから小さな音が聞こえる。桜の花びらが鍵盤に落ちて奏でるとしたらこんな音だ。きっとささやかなくせに深海に落ちて波紋のように世界にひろがる、そんな力を持った。なら、たゆたう深海は羊水か。またどこかの世界で生まれたあなたを包む水なのか。懐かしい唄。そうだ、音はオレの中から聞こえてくる。あれはあなただけの唄じゃない。オレの中にかすかに残っている温かなものが、あなたに向けてくり返し奏でる音です。平熱と平板。かつてそんな言葉で永遠を曝したものがいた。今オレは、その意味をもう一度飲みこんで否定しよう。この身をもって否定し続けていきたい。
庭の木をなでる風にのるように、羨望や嫉妬から手を離して真実のほうに差しのべた。
残ったのは、たったひとつの大切な言葉。
それはオレの体を歓迎するようにするりと一周し、かさついた部分を癒し、光らせてから胸に一番近い温かな場所に落ちついた。じわり、と固い実の殻を破り、中の果実が溶ける。滲むように広がっていく。
そう、この感情は。
だれにも冒せない、自分だけの宝物で、魂だ。
自分の中に入れたそのひとつに、何度でも触れる。飽かず触れる。その中から毎回新しいものを発見して、愛しさとともにまた大切な場所にしまう。それはあの物語を見ることに似ていないだろうか。自分しか見ない夢のように、大切なものが何者かに奪われたり損なわれたりすることはないと信じる、その刹那の想いも永遠のものとなる。
いとおしい核。だからこそその殻を叩き、いつだって逢いたいと願い、永遠にあの存在がいることを信じることが肝要なのかもしれない。
オレはときどき囚われていく自分を嫌悪したり、現実との不適合さにやりきれなくなるだろう。けれど同時に、むしょうに言葉にできない幸せを感じたり、意味もなく泣きたくなったりもするだろう。その行為は、苦しくてやるせなくて、腹立たしいほど幸福だ。きっと自分は、この場所で愛しい人とそうやって毎日過ごしながら、
今までも、これからも。
この話に、恋をしていく。
心のなかにちいさな胎動のようなものを感じる。
薄く目を開けると、眠る彼の横顔が見えた。
オレにもだれかを愛せると教えて。
たったひとりの、大切なあなた。
あどけない表情に微笑みながら、オレは確かに見つけたと思う。
最後に残る――その言葉。物語の終わりの言葉。
「愛しています」
その瞬間、呼応するように胸のそれが星みたいに瞬いて、弾けた。
目を閉じたそこは――ああ、いつかの夜空だ。きらきらした粒子が夜空に広がっている。青い蝶のように愛しあった記憶が近くを舞う。やがて燐粉はぺかぺかした星となって何万年の昼と夜を生きるだろう。
目を開ければ、涙でかすんだ夕焼けはあざやかな炎のようにゆれている。欲しかった言葉を届けられた人物が、ちいさな子どものように穏やかな眠りの中でそっと微笑む。もう一度、ゆっくり瞼を閉じて仰のいたオレの代わりに、これから始まる初夏の夜だけが見届けた。
正直なところ、オレはまだ死ぬのがこわい。
けれど泣く場所を見つけたとでもいうように、不思議と朝、頬を濡らすことはなくなった。
はるかずっと遠い先。
そのときが来たらオレも見れるだろう。すべてが出そろった夜空を。
いつか全部受けとめよう。
――あなたが、最後の吐息にかわるときそうしたように。
オレは語る。
語り続ける。
静かな夜の海にずっと波が打ち寄せるように、いつまでも鳴り止まない微かな音。大事な人の温もりを胸のうちに抱きしめながら聞いた、子守唄のようなあの唄が聞こえる限り。黙ったままの空の人に代わってありったけの想いを。終わりなき恋を。自分はこの大地に立って。
だからあなたはまなざしを。せめて、木漏れ日のようなやわらかいまなざしを。
長い長い時間を経て気づくこともある。
夢まぼろしでなく、いつの日かあれはオレの中で真実となっていたらしい。
ほんのわずか、想いをあらわにした彼の目が心に浮んだ。そのとき確かに感じた幸せを思い返す。この他愛のなさをオレたちは求め、支えられながらもときどき、心地よい春みたいな過ごしやすさに身勝手にも心もとなくなったりさびしくなったりするのだ。そんなときオレは夢を見る。確かに今の自分を形作る一部を、もっと知るために。くり返しくり返し、愛しているとページをめくるように。
いつから見始めた夢かはっきりしない。
もちろん、いつ終わるのかも。
遠い世界の話のようにも、ひどく身近な話のようにも思える。今はもう、足元に伸びる影や、皮膚をめくったらそこにひそんでいるかのような自分の一部だ。
たとえ、はるか遠く長い年月が過ぎ去って、すべての人の記憶が深い深い脳の底へと沈み、オレ自身、オレのことを忘れてしまったとしても。
日々の中でゆっくり忘れ去られるものであったとしても。
オレは、見続ける。この物語を。
ただ、あなたへ語りつづけるために。
立ちあがり、眠る彼の冷えた指先を両手で包んだ。爪が花の色になるまで。
ごうごうと流れる天の川も、
空に寄り添う金の月も、
ぶつかりはじけて幾億と生まれた銀の星も。
すべての想いをのみこんで、幸せの欠片はきっとそこにも散らばっている。はらんで届く、懐かしい場所へ。新しい季節へ。
生まれる前の夢を見ながら、オレは願った。
拾わせてほしい。今度は一緒に。
「おやすみなさい」
星空の下、誓った言葉がみずみずしくよみがえる。
大丈夫。
こわくない。
待っていて。
愛している。
「え?」
なにか聞こえたような気がして、耳を口元によせた。
「……ばにい……る」
ええ。知ってます。
それは未来のための子守唄。
微笑み、頬を包む。
肌が触れる距離で、あとわずか、身を近づけていく。
あなたが見ている物語にも、俺はいるだろうか。
目が覚めたら、聞いてみようと思った。
The spring of the encounter.
[acepe]/ peace fin.
the last story of "Tachibana clinic"
Thanks to reading!
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