やたら暑い夏の日だった。 立っているのがやっとだった。 何が起きたかなんて星が瞬くくらい一瞬で、オレの脳に届くかまでには後何光年かかるか想像もつかなかった。 膝を震わせアスファルトにへたり込むドライバーに殴りかかる力もなくて、オレは重い頭をめぐらせた。美弥を探す。誰が通報したのだろう。サイレンが遠く聞こえてきたかと思うと、すぐに救急車からたくさんの人が降りてきた。 おかげですぐに美弥は見つかった。担架に乗せられたノンスリーブの薄い水色のワンピース姿を見て、なにかかけてやれよと漠然と思った。熱いんだから。美弥がこの凶暴な真夏の太陽に焼けちまう。 日差しが強いからって日焼け止めを塗ってた妹。 「……」 名を呼ぶための声が、サランラップみたいに喉に張り付いて出なかった。 かわいそうだから、早く何か布でもかけてやってくれよ。声もかけられないまま、立ち尽くすオレはずっとグラグラする視界で、美弥を乗せた救急車がけたたましくサイレンを鳴らして道路へ滑り込んでいくのを見ていた。霊安室までの廊下は、今まで生きてきた中で一番冷たかったような気がする。外界から隔離されたような空気が零度をともって満ちている。 リノリウムの廊下で、その部屋に入ることもできずにオレはいつまでも突っ立っていた。 どうしよう、としか思えなかった。 世界で二人だけの兄弟だったのに。 ふと、美弥が風呂あがりにずっと歌っていた曲が、不安定なメロディで頭に流れこんできた。 なんて曲だったか。 聞きたいけどもう聞けないのだと、少しでも記憶から呼び出そうと耳の横を掌で覆って、目を閉じた。 漆黒の闇でオレはすべてから耳を塞ぐ。 聞こえない。聞こえない。 妹は、もう、歌わない。 星物語 (前編) 「まもなく、上映が始まります。会場暗くなりますのでお立ちのかたはお席に――」 部屋の中心にあった白い丸い大砲にも似た大きな機械が、その姿を闇に溶かした。 暗くなる直前に見た隣の男の横顔も、それと同時に擬似的な夜空に溶け込む。 ゆるやかなクラシックがフェードイン。 ほぅ、と場内にささやかに蔓延するそれぞれの吐息。柔らかな女性の声が、耳障りよく流れてきて、斜めに倒した座席に身を委ねながら、 「まず、南の空に見えてきますのが――」 ちいさなちいさな白い点が宝石のように輝き始めるのを確認してから、そっとオレは体中から力を抜いた。 この夜は数十分で一年以上の暦を動く。一番初めに浮んできた星を見る目に力をこめた。何のために?近づくために。ああ、おまえが言っていたな。 ――手を伸ばせば、距離も縮まるんだよ 「綺麗ですね」 オレだけに聞こえるように直江が囁いた。いまだ実感のない不安定な過去の記憶に揺さぶられそうになるのを、留めてくれるようなタイミングで。答えようとしたが、この静かなプラネタリウム館で、うまく声量が調節できる自信がないオレはとりあえず頷いた。見えただろうか?そっと直江の横顔を見ると、肘かけに置かれた節ばった手が視界に入った。 会って数週間しかたってない、奇妙な男。 声の代わりにこの手を握って同意としようか。 距離が縮まるのは空とだけじゃないはずだ。オレは膝の横から手を離して闇に紛れて直江のほうに伸ばす。 と、咎めるように鋭い音が場内に二度大きく鳴って、オレは激しく驚いた。 とっさに引っ込めた手と一緒に夜空は大きな星座をうつした。さっきのは鳴き声か。翼を広げた白鳥がちっぽけなオレの心を笑うように優雅に飛んでいる。頭を一度振って、中途半端に浮いた手をそのまま自分の膝に叩き付けた。無音の動きに痛みは感じなかった。 できもしないことばかり、 暗闇は幻想みたいに見せる。 「――最後は、1等星たちに勢揃いしてもらいましょう。シリウス,プロキオン,ポルックス,カペラ,アルデバラン,リゲル。これらを繋げるとベテルギウスを囲む大きな六角形ができますね。これが“冬のダイヤモンド”。光り輝く豪華なダイヤモンドです」 あんなに分かりやすければいいのに。 それはきっと、夜空に浮ぶ何億という星の中から目的の一個を見つけ出す。そんな奇跡に近いのだという確信がふとオレの中に生まれた。手を伸ばして届くものではなく、かといって、呼んで振り返ってくれるものでもなく。 オレのほうは仕方ないことだと思う。 直江にどうしようもなく惹かれるのは、直江が自分を認めてくれる唯一の人間だから。あのダイヤモンドみたいにすぐ分かった。あんまり分かりやすすぎて、見も知らない他人だとか男だとか、布で綺麗に拭き取ったみたいに消え去っていた。行儀悪くオレはイスの上で膝を抱えた。 「寂しい」とか「いつも誰かとつながっていたい」とかいう、昔はまったく分からなかった気持ちが、ぎゅっと胸を締め付ける痛みとともに今おぼろげに理解する。甘えとか弱さでなく、もっと根本的な部分。誰だって、自分をその他大勢でなく、一個の「個体」として見てくれる人間に惹かれる――ただそれだけのこと。 誰だって、そう。なぜかいつも寂しいのだ。 ぼぅ、と街の光が消える。 街に電気がなかった何百年も前にタイムスリップした夜空に、オレ達数十人を放り出す。ほぅ、といきなり数倍に増えた星々にあちらこちらから何ともいえないため息が聞こえた。 「シリウス」 「!」 「――あなたの星だ」 闇に紛れて直江が、オレの耳にそっといたずらみたいに一言吹き込んですぐ視線と体を元に戻した。隙をついたキスくらい心臓に悪い。――キス! オレは自分の考えに内心盛大にため息をついた。生まれてこの方したこともないのに。 そしてもう振り向かない直江のたわいない、しかし好意的な行動に、むしょうにやるせなくなってオレは唇を舐めた。今が暗くてよかった。じんわりと目に熱いものが込み上げそうになるのを、奥歯を噛み締める。乾燥を早めるべく瞳孔をかっ開いてゆっくりと回る天体を見続けた。 みんな、こうして生きていくんだろうか。 自分を分かってくれる誰かを探して、目に見えない空気を手で掴むことを繰り返す。わけもなく焦燥感にかられながら一生を雑踏の砂漠で迷うのだろうか。 ときおり妥協しながら。 ときおり蜃気楼を本物だと自分で言いきかせながら、一人一人、その乾いた世界を見事に抜け出すまで。 砂漠はあの夜空に浮ぶ月にもある。月の砂漠にいることに気づいた瞬間、人は「さみしい」と言って泣くんだろう。現に寂しいと死ぬという動物が月には今も住んでいて、誰かに食べさせるための餅をついている。 実体さえあれば手繰り寄せることもできるだろうに、大半の人間はその虚像に向かって何度も手で引っかく。掻き消えるその愛しい人の姿が、そのうちに実体をともなうかのように、とてもあやふやな祈りを込めながら。 なのに幸か不幸か、オレは直江を見つけた。 この世で一人きりになってしまったオレは、 ここにまだオレを生かせてくれる人間を見つけてしまった。 明るくなった場内で、あちらこちらで席を立つ人の中、オレを待って直江もぼうっと白いだけの天井を見上げていた。そうするうちにほとんどの人間が場内を出ていって、やっとオレも自分の意識を現実に引き戻した。と、オレの顔を見た直江が、ふと驚いたように目を見開き、 「どうしたんですか」 「なに」 「泣いてるみたいだ」 咄嗟にうまい返答ができずにいると、ひどくばかばかしい言葉がふいに口をついてするりと出た。 「美弥が言ってた。人は死んだら星になるっていうけど、自分はそんな遠いところはいやだって」 「……」 「全然遠くないのにな」 「寂しくないですか」 固くなりそうな空気を風のように流して、すぐに緩んだ微笑で男は確認してくる。突き放すことも胸に引き寄せることもせずに、黙ってオレが傍にいることを黙認しているこの男は、こうしてよくオレに笑う。 「全然」 こんな甘たるくて吐きそうな言葉、死んでも言うかと思ってたけどオレの脳ときたら星の光が放つ数億年単位の歴史に感化されていて、そんな思いも干からびていたよう。 「おまえがいるからかな」 ひどくずるい言葉を言った。 千差万別の罵り声が脳の端っこでわめいた。卑怯だ、こんな柔らかいのに果てなく伸びのある糸みたいに誰かをがんじがらめにする魔法。 「よかった」 と微笑う返事は、きっとこいつの優しさの反射的な行動だと思う。 直江はオレを「あっちへ行け」と追い出さない。けれど、他人のオレが傍にいるだけでも随分迷惑をかけてると思う。 ――おまえと離れたら死んじまう 最初の頃冗談で言った言葉が、きっとまだ彼をからめとってるんだと思う。回転ドアを押して進む端正な横顔を盗み見て、オレは口の端を皮肉気に歪めた。さっき触れられなかった大きな手が外の光に馴染んでいく。別にいいのに、オレが一緒についてくるまで合わせて、ドアの棒を握ってゆっくり進む。いいや、あのときも冗談交じりの本気だった。自分の存在を認めてくれない周囲で一体誰が生きれるっていう?けれど今、オレの胸をしめるのはそんな論理的なことでなく、もっと深いところでの―― 「何を考えてるんですか?」 おまえが一回でもオレを無視したら、潮時だとオレは消えるのに。 ――おまえと離れたら 自己嫌悪に陥りそうだ。姿を消そうと思えばいつでもフラリとできるだろうに。 そしたら直江だって自由になるだろうに。 「おまえと初めて会った日のことを思いだしてた」 かわいそうに。優しくて同情的なおまえにかこつけるオレは、自分から別れを切り出さないまま、友人のような気楽な口調で笑うだけだ。過ぎた好意を見せるな。それだけが自分が持てる戒めだった。 直江には何も言わないでおこうと決めた。 隣に歩く男に、それを求めてはいけない。 オレ達は今日の晩は何を作ろうかなんて無駄話をしながら、家へと続く商店街を歩いた。都合のいいことに、直江の手はスーパーのてかてかした白い袋に半分隠れて見えなかった。それでも何度もそっちに目がいきそうになって、そのたびに直江の声で引き戻された。 「あ、ああ」 とハッとして答えると、何をぼんやりしてるのかと笑われる。意識し始めると体なんて理性と別物だ。オレも曖昧に笑ってみせる。 「手ぇ繋ぎたい」 ――そう言えたらどんなに楽だろう。 皮肉気に唇を歪めた。星は手づかみすると火傷じゃすまない。見ているだけなら火傷することもなく、プラネタリウムみたいな優しい穏やかな空気は横たわったままだ。たまに感じる罪悪感や焦燥感さえ我慢すれば、大丈夫。問題はない。 オレは星は嫌いじゃない。むしろ星座のほうが嫌いだ。一個が欠けても意味をなさないなんて、星にもなれないオレには、その大昔の遊びは遠い世界に向けたひどい傲慢さのような気がする。 「あ」 せいぜいこれ以上の執着は見せないでいてやろう。視線を咎めるように手を守る白すぎる袋から視線を逸らして、ふと聞こえた音楽の方へ顔を巡らした。意気地なし。振り返ると、雨や風に色褪せた原色の旗がパタパタと音を立てて風に踊らされていた。そのまま足を止める。 商店街から流れる曲はオレの記憶の海から砂まみれに打ち上げられた曲とは違ったけれど、直江は何を考えたか正しく感じてくれたようだ。 「もう歌えるようになりましたか」 誤解のない筒抜けさは、突かれるような驚きと共に胸を嬉しくさせるときもあれば、今みたいに嬉しさを通りすぎて戸惑いで苦しいときもある。直江の薄い唇がそっと歌詞を口ざすむのを目の端に捉えながら、あがりそうになる心拍数を抑える。ああ、意味ない行為。直江が歌う。あのときのオレと同じように小さく唇が動く。 「ああ、でももっかい聞きたい。帰ったらかけてくれよ」 「いいですよ」 咄嗟に漏れた表情で勘づかれたかもしれない。せめて甘えた声にだけはならないようにあっさりと笑う。 いまオレの頭は直江と会った暑い夏の午後に戻っている。 美弥が好きだった曲を見つけてくれたのが直江だった。 まだ駄目だ。消せない。 あのときオレはビルのワンフロアを占める大きなCDショップで、それらしいのを手当たり次第探していた。ここまで見つからないと思わなかった。本と違ってうろ覚えの旋律だけじゃどうにもならない。当たり前だけど、そのときはただ自分の努力が足りないのかと、たいして気にかけてなかった自分がひどく薄情な兄に思えた。 早く、早く見つけないといけない。 (消してたまるか) この記憶からあの曲が、いや、美弥の歌声が消える前にどうしても。せつないメロディと「お兄ちゃん!」と呼ぶ声が水面で振動するみたいに次第に共鳴し、美弥が微笑む。早く見つけてよ、というように。 焦りは脳を侵食し、掠りながら段々歌詞を少しずつ削りとっていく。早く――早く。 並ぶCDのタイトルを上から順に見ていったが、まったく分からない。しょうがないから、ずっとそこで店内に流れる音楽に耳を傾け、もしかして、その曲が流れないかと脇に置かれたイスに座って途方にくれた顔で頬杖えをついて待った。 ときおり忘れないように歌を口ざすみながら。 足もとに視線を落とし、目の前を素通りしていくいくつもの靴から老若男女どんな人物か推理するという遊びを繰り返した。少なくとも、その中に直江の革靴もあったはずだ。 そうこうしてるうちに閉館をつげる放送が入り、焦れたオレはとうとう店員に下手ながらも歌ってみせたが、反応はまったくなく、結局分からなかった。口元に自然と諦めきれない悔しさが浮ぶ。 そんなオレの落胆など綺麗に無視して、数時間いた店はシャッターを閉めはじめた。どうしようと、ぼぅっと太陽も沈んだ明るい夏の闇で突っ立ったまま悩んでいると、隣から声がかかった。 驚いた。 振り返ると一瞬怯むほど背の高い黒スーツの男が、オレに四角いビニール袋を差し出してみせた。 「これでしょう。あなたが探していた曲」 それが、直江がオレに一番最初にかけた言葉で、 「あんた……オレが見えるのか?」 それがオレが直江に、一番最初に返した言葉だった。 |