星物語 (後編) 目に見えて分かった「運命」が先だった。 いきなり外界と透明なガラスに仕切られた世界にあっさりと進入してきた直江は、それだけで特別だった。いばら姫の王子のようにすんなりと予定されたように。散歩の途中でたまたま城に立ち寄っただけかもしれないのに、勝手に様々な変な事態がそれを特別にさせた。 出会いが急激すぎて、後からついてきたのが気持ちだ。そんな強すぎる力に、太刀打ちできる答えは直江の中にはない。色をなくして冷たく沈黙を守る街で、ピカピカの一等星から手を差し伸べられたなんて事実は、好意のきっかけとしてはあまりにも単純だ。 記憶の空を飛んでいた意識を現在まで引き戻して、あれから何も変わらず優しくにこやかな男の顔を盗み見る。多分、オレは空気と同じ存在だ。無償の微笑みも、初夏の風に見せるものと同じ平等なものと考えると、ひどく納得する反面、どうしようもない腹正しさと苛立ちが襲った。 「星を捕まえに行きましょう」 そんな言葉も自然体で。 今夜は激しく流星群らしい。 「激しく、ですかねぇ」 と笑う男の隣を、感触のない足で歩く。服は着てるのに裸足なのは、きっと跳ねられたときに飛んだんだろうと、妹が誕生日プレゼントにと買ってくれたスニーカーを思って、少し黙った。 情緒不安定なのかもしれない。今夜はひどく浮かれている。口笛さえも吹けそうな夜。 「あなたには聞こえるんですね」と直江が少し眩しそうな顔をして微笑んだ大気のざわめきは、どうやら今日も機嫌がいいらしい。だからオレも羊水に包まれているように空気にその身をゆだねる。立ち止まってその声を聞いていると、直江は理解してて黙ってそばにいてくれた。 「プラネタリウムよりは見えないと思いますが」 「ああ。でもホンモノのほうがいい」 ぎくりと胸を薄く切った単語に、我ながら内心ひどく動揺した。 本物の方がいい。 あの空には手を伸ばしても届かないけど、もっと掴みたいものはオレのすぐ隣を今歩く。直江は横に生い茂る木の枝を払いながら進む。彼の手の動きに素直にどけられる葉っぱにさえ、羨望の眼差しを浴びせそうになって自分を恥じた。バカバカしい。直江は何にでもその体で関わりを持てる。唯一、オレを除いては。 秘密の場所だといたずらっぽく笑った直江が連れてきたトンネルは産道のようだ。抜けると小高い丘になっていた。埃にまみれていない、まるで柔らかいこの草から生まれたような新鮮な匂いをさせて吹き抜けの風が清涼感を持って撫でる。皮膚で感じてたことは、直江の柔らかい上質の髪がなびく様子を目にすることで取り替えた。 そうか、直江にも風が吹いているのか。 オレと同じ大気をその体で感じているのか。 「ほら」 直江の声に咄嗟に空を見上げた。 一瞬、言葉を忘れて立ち尽くす。少し前の暑すぎる夏の道路でのように。 すごい。 カッ、とないはずの体が火照って周りの空気の熱をあげた。直江も何も言わない。蹴倒されてゴミ箱ごとひっくり返ったような星屑が散らばる空は、特別な日にふさわしい。圧倒的なまでの数に、お互いに愉快な気持ちになっていることを感じながら、せめて自分が闇に消えないように喉に力をこめる。 「すご……。こんなに見えるとは思わなかった。なぁ、これいつ降るんだろう。ずっと見てたらひょいって落ちてきそうだよな」 「本当に。ほら、あれなんて眩しいくらいに光っている」 まっすぐ指さされた夜空を見て歓声をあげたオレは、ふと、直江の指先に息を飲んだ。 触れたい。 唐突に、急激にそう思った。 未来さえ指せるようにスゥと伸ばされた長くて節ばった指を、丘陵に吹く風に乱される髪を流れに逆らって戻そうとする指を、そのまま額が見えるくらいかきあげる指を、いつの間にか夜空でなくオレは視線を下げて見ていた。 一等の星みたいに直江の手が光ってて、オレはそこから目が離せない。悔しくて泣きそうだ。 あの手と、繋ぎたい。 冥界と繋ぐロープを手繰るように、確かな手を感じたい。恨みたいわけじゃないから、直江に気づかれない前に、せめて強く星空を見上げた。涙がこぼれないように、なんてオレにはまったく意味のない心配からじゃなく。……くそ。 直江が見ている。オレを。 「――何」 振り向いてはやらない。 多分直江は気づいてる。いや、やっぱり気づいてないのかも。声をかけたそのときから直江の態度は始終変わらなかったし、穏やかな笑みも、オレが自分の立場に傷つくことを恐れてか伸ばそうともしない手も、ソファにゆったり腰をすえて手ぶらでオレの目を見て今日一日何をしたか聞く態度も、オレをこの世界に一人にさせないように気遣ってくれてるみたいで、できすぎだ。まるでオレを好きなんじゃないかと思えるほど。 だとしたら……凶悪だ。 何も言葉を続けない男に焦れて、もう一度 「なんだよ」 と問うと、少し迷ったようにしてから、 「寒くないですか」 こんな体になんの冗談かと振り返ったら、聞いてきた目が真剣だった。だから投げるように真剣に返してやる。 「さむいよ」 熱を感じたくてしかたない。 「……嘘。冗談」 「本当に?」 「本当もなにも、当たり前だろ?」 握り返されることのない直江の手をそっとバレないように包みたい衝動にかられながら、悲しい抵抗を隠す。二重の言葉を飲み込んで笑顔を作ったオレの先を、 星が、 音楽のようにすべった。 「あ」 「……え?」 呟かれた直江の声。 え? 耳が。 張られていた薄い膜をさっと取り外されたように一瞬にしてクリア。 え? むずむずとくすぐったい。 この足元の感触は。 「……さん?」 「……ぇ?」 掠れ声を出した喉は、今確かに振動した。「感じ」た。 風に遊ばれる髪がオレの額をかする。 それを確かに見た直江の手が、何かに導かれるようにゆっくりと上がる。普段綺麗な鳶色を称える眼は、闇の中で大きく見開かれてオレだけを映した。 無意識に期待しながら、ずっとオレもその手がオレに近づくのを見てた。 待った。 ピタ、と目のすぐ下。吸い付くように。 何か温かいものが、触れた。指。皮膚。人の。 直江、の。 ビクン、と大仰に揺れた体を、強張りが解けたような勢いで何よりも早く直江が激しくかき抱いた。 すべてが一瞬。 さっきまで凝視していた直江の指先が頬に触れた瞬間、オレ達は同時に信じた。 「なんで……」 肩口で呆然と呟いたオレの背中は、しなるほどきつく直江の腕に捕らえられ、混乱する脳は直江の顔が目の前に迫ってても抵抗という行為を思いつかなかった。顎をとらえられ、 「待ってください」 何を?この状態をか?聞こうとした口は、声が出す機能をまっとうする前に直江のそれで塞がれた。くぐもった声は空気と混じって、いまだまともな言葉を紡がない。自分で確かめるより先に直江に味あわれてしまった。って、え、これ、ちょ、待―― 「待って」 そう、待って――って、え?オレの思考を読んだように直江の声。 自ら激しく口づけを迫ってきながら、離した唇同士の熱い吐息の中で、男は行動と真逆の言葉を口にする。「待ってください」 必死に何かを抑えるように、オレの舌を吸って、口内を舌で存分にまさぐって離し、「待って」と何度も繰り返す数以上にキスをしてくる。待って?それはこっちのセリフじゃないのか? もっともな疑問は、焦るような直江の激しさの前に姿を消した。捕まるものを求めて、直江のわきからまわした手は大きな背中へといきついた。 「……っぁ、ふっ……」 唇を狂ったように塞がれながらも、必死で薄目を開けると、そこには混乱したように揺れる直江の瞳があった。どうしていいのか分からないで、体を強く引き寄せひたすら密着させ、今まで味わえなかったオレの唇を、何度も思うさま確かめる。空気以外のものが初めてオレとくっついている。 「待ってください……そんな急に。歯止めが効かない」 「それはこっちのセリフ、だ……っ!」 一瞬間を置くようにようやくキスをやめ、オレの顔をまじまじと見て呆然と呟いた直江の体を、オレは抜けそうになっていた力を込めて、勢いよく引き剥がした。と、その反動のように 「好きです」 ……はい? 痛いです、と同じくらい自然なニュアンスでその言葉を聞いた。何より、言った本人が咄嗟にでた本音に驚いたようだ。互いに呆然とした。信じられないという意味は違えども。こちら、何の聞き間違いかと耳を疑ったオレに、しまったとあちら。直江が俯いて口を押さえる。その目線はおかしく地面をさまよっている。 「……ちょ……っ、こんな急に言うつもりじゃなかったのに。ああ、これじゃ強姦魔の言い訳だ。違う、そうじゃなくて……ああ、もっとはっきりと、いつか伝えるはずだったのに。ちゃんとあなたに。なのに。……全然予定外だ。なんで……まったく、くそ……っ」 早口にそれだけ吐き出す。何をいい年した大人が混乱してるのだと思う。 と同時にさっきの力強さに込められた真意を唐突に感じた。抱きしめられている間はひたすら驚いただけで、体がなかった間に人間の力加減を忘れてしまったのかと思うくらい。けれど反発させた自分の腕で、それが思いの強さと知った。そう、直江自身が込めた。それはつまり。 「あの、――好きなんです。いきなりですみませんけど」 ずるり。 とうとう腰が抜けた体を柔らかい地面に崩すと、支えようとした直江の横顔がすぐ近く。知らなかった。人間、こんな至近距離になると触れなくとも肌で互いを感じるのか。ビリビリと電気みたいに。 「いきなり……」 「ですよねぇ……」 どちらともなく視線を合わせ、くすりと笑った。なぜここで笑えるのか、オレは知らない。気がついたら微笑んでいた。きっと、人間の顔の筋肉が一番好きな表情なんだろう。素直に、体を解放させる。うきうきと変な高鳴りが心臓ポンプを動かす。だってオレを歓迎するみたいに風は懐かしい匂いをはらんで吹き寄せる。同時に、随分と久しぶりな液体がオレの目からするりと頬を伝って落ちた。 「どうしたんですか」 「え」 「泣いてる」 少し前にした会話とほとんど変わらない。今度は本物の夜空の下。それさえコップに溢れかけていた表面張力を破るのには最高の一滴だった。ぼろぼろと、どこか崩れたように涙が滴って地面につけた掌に落ちた。 雨粒のように。星屑のように。 「その涙は同意ととってもいいんですよね」 直江の声が、プラネタリウムで聞いた安らかに身をまかせれるような低音でもって心地よく耳に響いた。「そうでしょう」 イヤミに聞こえる隙もない。 自信過剰でなくバカげた勘違いでもなく。いとも自然に聞かれた。同じくらい自然に、当たり前だと思った。直江がそう思ってくれてよかった。流した涙は戻せないから、直江の言葉に安堵でため息が出る。泣くほどイヤだったのかなんて誤解、された瞬間に触れ合ったと思った手がそこから砂となって崩れそうだ。始まりが終わりになるのが怖い。少なくとも、星にもなれず夜空に漂っていたオレの心は、直江がストライクで捕まえた。 この瞬間に、まっすぐな本音同士が向き合っている。 オレはぐじゃぐじゃな顔で微笑むことで、砂漠の中からピカピカ光るそれをすくい取ってそのとおりだと直江に見せることに変えた。 見ろよ、これが真実だ。オレの願い星だ。 伝わる一秒さえも惜しくて、もどかしく直江の肩のシャツを握り締めた。すると、自由な手の可能性にまた涙が溢れてくる。泣いてばかりだ。生暖かい風が直江の背中とオレの両手に吹きつける。そんなはずないと知ってても、飛ばされぬよう、その手にしっかりと力を込める。 そうしたらもう、限界だった。 「ああ……ぅあぁあ……ぁ……!」 ほとばしりでてくる。 「ぅあああああ……ぁぁ……、あ、あぁぁぁぁぁ……!」 生まれたての赤ん坊のように、声が止まらない。 震えてやまない喉に指をつたわせられ、愛しそうに撫でられると限界で、広い胸をひたすら叩き続けた。それが終わると、すがるように肩に爪。引き寄せるように髪に絡む指。目の見えない人が確かめるように頬に両手。次へ、次へと、呻きながらまるで自分が自分でなくなるようにすべてで直江に触れた。 惨めで馬鹿げてる奇行を直江は止めなかった。逆に、伸ばされた手に自ら顔を寄せるようにしてオレを手伝った。頬と頬が触れ合う。望むとおり怖いくらいすべてがうまくいった。それはさっきまで直江が味わっていた混乱と一緒だったから。 心がぴったり重なってるのを直江の態度で知り、そして欲張りなオレは無我夢中で手を伸ばす。暗闇で助けに縋るように。ひたすら触れる。今までの分を取り戻すように。かき抱く。心が吼えていた。 悲鳴を上げすぎて、甘い痛みとともに口元に溢れた。そうして出てきた声が確かに肉声となって届く。世界に叫んでやりたかった。 いや、伝えたいのは一人だ。 たった一人だ。 オレは今――。 「大丈夫」 「ぁぁ……っ、ぅっく、あ……」 「大丈夫だから――」 「ぁぁぁ……」 直江の膝にのったまま可能な限り伸ばした両腕。しがみついたまま力尽き果てた獣のような呻き声を残して、やっとその腕が落ち着いたのを見計らって、ずっとオレがしたいようにさせていた直江が静かにオレの後ろ髪を撫でた。 「愛させて。あなたが歩いてきたこの大地で。噛み締めさせて」 オレは小さく頷いた。切なくなるのは、これが嘘じゃないから。 きらめく星が直江の後ろに広がって見えた。背中にまわされた手でゆっくり倒された体が、柔らかい草で受け止められる。髪がそよいで、頬にあたったと思ったら、それは直江の髪で、覆い被さった体ごと全身で抱きしめられる。トクン、と心臓の音が聞こえて ああ、神様感謝します。 妙な感動が熱い湯のように胸に一気に注がれたとき、そんな抽象的な対象でも、名を呼ばずにはいられないのだと、溢れてきた涙の熱さに知った。 今まで触れたかったのは、この熱さだと。体が先に反応して毛肌が一斉にぞわりと喜んだ。ゆっくりと――力をぬいた。 空っぽといえるほど知識のなさも、なんとかついていこうとする技巧も、 いざとなればすべて自由だった。 火照った素肌に風が吹くという感触を思い出した。 「……ナンパしたんですよ?私はあなたを」 すべてが消えたオレと、すべてを許したおまえ。直江は苦笑してオレの考えをそっと否定した。オレの土を払いながら、そっとシャツを羽織らせる。 「ナンパ」 その男らしくない単語に、呆然と呟き返す。そりゃそうなんだけど。言われてみればあの状況は普通一般的にそうなんだけど。でもそれって、 「オレを?」 「ええ。気になってどうしようもなかったから、何の違和感もなく、あなたが何者でもいいと受け入れた。生まれてはじめて感じたこれはきっと運命だと、強引に思わず呼び止めた。一目見てわけもなく見過ごせないと思った。気がついたら、CDを手に取って走っていた」 たまたま記憶していた歌に感謝しつつ、袋を抱えて急いで彼の後を追った。呼吸を整えていざ声をかけたときの彼の顔といったら。聞きたくともその体じゃCDもかけれないだろうから自分の家にこないかと告げたとき、声が震えていなかったか、実は自信がない。そう言って直江は、困ったように過去の自分を笑った。 分が悪いですね、という呟きをオレは聞き逃さなかった。 「え……、なんで」 「だって必然と努力ですよ?あなたは私しかいなかった。私個人であなたを振り向かせたわけじゃないのに、私は最初からあなたに囚われたんですから。あなたは必然で今までここにいたのに、私はあなたが離れないようにずっと努力してたんですよ。どう考えても分が悪いじゃないですか」 「……」 夜と昼の天体をグルリと入れ替えられたようだった。 何言ってんだこいつ。なんでそんな風に考えられるんだよ。 たまらない嬉しさが、じわじわと草を踏んでいる爪先から滲んできた。駄目だ。 「えっと、多分、なんか、オレじゃ……いろいろ叶えらんねーと思うんだけど」 「仕方ないですね。ざっくりやられんですから最初に。それにもう一つは叶った」 あなたに、もっと触れたい。 告げられた言葉に、同じことを考えたのかと、オレは思わず空を見上げた。そ知らぬように星は変わらず瞬いている。しかし確かに見た。 いや、そんなバカな。 と笑いかけて、まさしく「バカな」状況に現実なっているかと、口元をやっぱり笑わせた。 「オレも言った。どうしようもなくおまえに触れたいって、星が落ちる瞬間に言った」 思わず直江も真顔になって、疑わしき声なき犯人を見上げた。 「まさか」 「だよな」 短いやりとりですべて伝わる。そんなファンタジーあるわけない。あるわけないけど……信じないわけにはいかない。 オレたちだけは何があってもこの夜の奇跡を。幻になんてさせやしない。半信半疑ながらも、 「願いごとは三回唱えるっていうけど、オレが一回。おまえが一回。じゃあ残りは――」 「一回だった自信はないですね、私は」 「そ……」 それはオレもだ、なのか、それじゃ何回言ったんだ、なのか。 答えが出る前に唇は再び重なっていた。 オレの中あちこちに、ちかちかと光が宿っていく。 降り注ぐ奇跡の光なのかもしれないし、あらたに生まれる感情の誕生なのかもしれない。オレは空に手を伸ばしかけてやめる。天ではなく直江との距離を縮めるためにその手を使う。この空が明けてもオレの中にそれは残る。探るように入ってくる直江の指。 捕まえたのは何か。 直江がここに誘ったとおり、星だったのか。それとも。 オレは直江と完全に同じ体温になることで自分の体を確かめる。そんな中に入ることでオレを確かめる直江に答えは見つけて欲しい。二人とも弾けたら聞いてみようと思った。 答えが曖昧で分からなかったら、またここに来たらいい。 次第に激しくなる波に、すべてまかせるようにオレは流されながらも濁流を全身で感じて受け止める。何度も何度も組みなおされる五指と五指。やがて洪水は水でなく光となって出口へと向かう。オレの喉から産声があがった。きつく抱く腕の中、うっすら開けた目でオレは願った。 この満天の星のように、いつまでも数え切れぬ光と歩けるように 「なおえ」 はじめて、その名を呼んだ。 Fin. 2003.5.31 UP |