県庁の端


(1)北の端から








 雪に足をとられてちょっとバランスを崩した瞬間、背負った学生カバンがカタカタンと軽い音を立てた。冬に軽い鞄は似合わない。そう思う。
 かと言ってこの量を一年中変えることない高耶の耳に、同じ向かう先の大通りを走る車の音に紛れて、かすかに笑い声が聞こえる。見ると、路地の向こうに国道沿いを女子高生の団体がそれぞれに笑いさんざめきながら歩いていた。
「見て見て!あの標識、鹿じゃない?」
「うわー、本当だ。いきなり飛び出してくるのかなぁ。熊に注意とかないの?」
「ほら、雪がふかふかだよ」
「あっちじゃベタベタだもんね」
「パウダースノーっていうんでしょ。すごいねぇ」
 見慣れぬ制服が、すごいすごいと興奮気味に連呼しながら通りすぎていく。元気だ。すごくいきいきしている。寒さに紅潮した頬が、まるで美味しくなったことを示すリンゴだ。
「すぐ溶けるしね」
「汚いし、つまんないよね。いいなぁ、こんな雪!」
 そんなもんだろうか、と高耶は視界を閉ざすようにしんしんと降り注ぎ続ける白いものに、数度まばたきをくり返して思う。
 高耶は此処じゃない雪なんて、見たことないからわからない。家や木や道の色。そこにいる人もろとも本当の形を隠し、すべてを覆ってしまう、この雪しか知らない。月日のように、黙ってても静かに降り積もるものしか。
 修学旅行生だろうか。こんな田舎まで来て何を見るのかと思ったが、
――ああスキーかな……
 と思いなおす。
 山中だからスキー場だけは近場にもたくさんある。もちろん、それ目当てのペンションも。
 いずれも高耶たち地元人に言わせれば「ちゃちいもん」ではあったが、雪を滑るということ自体が初めてかもしれない彼女たちにとっては、大掛かりなスキー場でなくても十分だろう。
――もしくは、部活の試合とか
 斜めがけしたお揃いの赤い大きなスポーツバック。バスケかバレーか……
――まぁ、陸上はないな
 どこかの学校との練習試合だろうか。少なくともウチの高校じゃない、と高耶は、すぐに興味をなくした。
 喜びを噛みしめながら足で雪の大地を踏みしめていく彼女たちにつられるように、つい顔をあげて周りを見回したが、やっぱりそこにあるのは雪だけだ。雪景色と認識することもない。白い白い、天から終わりをしらぬように降る冷たいもの。その塊がひたすらあるだけだ。すぐに興味を失って、いつものようにうつむいて、紺のピーコートに両手をつっこみ、下の足下だけを見ながらひたすら学校までの道を歩き出した。寒い。でもいつものこと。
 雪が珍しいという感覚が、よく理解できない。
 寒くなれば、冬がくれば……雪は降る。今年も、二ヶ月前にはまたこの地にやってきた。それは、変わらなさにわずかな懐かしささえ伴う再会だった。
 シュコー、シュコーと、壊れたロボットみたいに白い息を視界いっぱいに吐き出しながら、その間にもどんどん雪の華が高耶を飾っていく。マフラーの上っ面はすでにうっすら白くなっていた。たとえば通学路と、同じように埋もれた道とを錯覚してこのまま歩き続けたら、天然の雪像がひとつ、道の真ん中にできるだろう。
 ちぎった棉か、細かく砕いた発泡スチロールみたいに次から次へとそれは降ってきて、とてもいつか溶けて消えるものとは信じられなかった。

 それでも、高耶は好きだった。この雪が。
 北の広大な大地の端の、ちいさな学校のある、この街が。











 校門を抜け、靴箱がびしょ濡れにならないように、昇降口のたたきに靴底を打ちつけて雪を落とした。
 まだ人気はないとはいえ、やはり建物の中と外じゃ風を遮るだけでも大違いだ。スニーカーから上履きに履き替えて、ほっと息をついて教室へ入った。
 いつも通り一番だ。別に高耶が特別早いわけじゃない。入学してきたときから、6人のクラスメイトのうち、たまたま高耶が一番早い時間に登校してきて、なんとなくそれが続いているだけだ。もう15分もすれば、ぞくぞくと……といっても、1年のときから変わらない数人だが……がやってくるだろう。少人数を寂しいとは思わなかったが、不便なことはある。つまり寒い。まぁ、人熱の多少に関わらず、いまだに木造というのが根本的にいただけないのではあるが。
 鞭打ちになった人のようにぐるぐるに首まで巻いていた白と青のマフラーを苦労して巻き取ると、机の横にぶら下げている手提げ袋に放り込む。手袋も一緒に。
 コートを脱ぐより先に、教室を暖めようと黒板のチョーク入れの横にあるマッチを手に取った。2個3列の机の真ん中にある古いストーブへ歩く。
 何が入ってるのか確かめるように、マッチ箱を小刻みに震わしたときの、シャカシャカした音が、高耶は好きだった。パコパコとエサを求める雛鳥の口ばしのように、手前に出ているコイルみたいな取っ手を持ち上げ、ストーブに火を差し入れる隙間を作るのも。固定するにはちょっとコツがいるが、高耶は自分がきっと一番うまくできると思っている。クラスの誰より。叶わないとすればただ一人の男だけだ。
 マッチを擦ると、燐の燃える匂いがふっと漂った。
 火を移すわずかな間の後、ぼっぼっ、とストーブは高耶への感謝のように無音の教室で鳴き、大きなろうそくのように炎をたちのぼらせた。灯油独特の匂いが鼻腔をくすぐる。しん調節つまみを少しずつ『弱』のほうへまわして、飛び出した火をストーブの中心におさめていく。そうしながら思い出す。男のことを。
 閉ざされた洞窟に燈った、焚き火のような暗い赤色。
 闇みたいに黒く沈黙していたストーブに、自分がおこした灯火が広がっていくのはちょっと嬉しかった。時間になったら次々とついていく夜の祭りぼんぼりみたいに、胸が鳴るから。
 視覚よりずっと遅れて、暖気がわずかに指先に触れた。手近なイスを引き寄せ、前に陣取る。暖が広がるのは、まだまだ先だろう。首をすくめて手をかざした。ハァ、と息が白い。
 ようよう火種が全部にまわり、ストーブに橙の円ができたのを合図としたかのように、けして乱暴にではなくガラリと音を立てて教室のドアが開いた。

「おはようございます。仰木さん」

 そう言う声は、人一人しかいない教室に、不釣合いなほど明るいことはなく。かといって震えていることもなく、高耶と同じ寒さの洗礼を受けてきたのを想像させないような、穏やかさに満ちていた。
 ちょうど暖のともった指先ぐらい、いつもどおり耳に心地よく馴染む、この男の声。
 コートを手に抱え、男は外気を遮断するようにすぐに戸を閉めて高耶のほうへやってきた。
「いつもそういう格好なわけ?」
「そういうとは?」
「黒のスーツにネクタイ」
「ああ」
 と、その体躯にしっくり馴染む仕立てのよさそうな服を見下ろし、苦笑した。
「教師だと……少し問題かも知れませんね。似合いませんか」
「似合うとか似合わないとかじゃなくて、ハマりすぎて見たときどっきりするんだよ」
「どっきり」
「どっきり」
 複雑そうな、でも意味がよくわからないというように曖昧な顔をする直江に、かさついた唇を舌で湿らせ、くり返す。
「洗練されたヤクザか教育委員会のお偉いさんの秘書みてーだよな」
「ああ、そっちの。そうですよね……そうそう揚げたてのコロッケを山盛りで目の前に出されたどっきりですよね」
「……?」
 今度はこっちがよくわからない顔をする番だったが、すぐに高耶は、ストーブにかざした手そのままにちょっと笑ってみせた。まだ、朝の挨拶をしていないことに気づいたので。
「おはよう、直江」
 なにも変わらない。いつもどおりの日常だ。
「今日も寒いですね」
「うん」
 ゆらめく蝋燭の火を見守る人のように、ほんのり色づくストーブの中心に目をやる高耶の頭に、直江は手を伸ばした。
「風邪、ひいちゃ駄目ですよ」
「……うん」
 水滴を指の腹で拭いとる感触。直江の手が、ちいさなちいさな潮騒のような音をたてて、髪を梳いていく。無条件にかわいがられる動物みたいに、高耶は少し顎をひいた。目を細めて、眠そうな不機嫌そうな顔になりながらも、その感触に身をまかせた。
「あー……二次試験の前に、予防接種とか受けておいたほうがいいか?この前みんなで話してたんだけど。今年のインフルエンザひどいらしいし」
「ああ、それもいいでしょうね。病院で受けますか?もう少ししたら役場でもあるかもしれませんよ。今度調べておいてあげますから。あ、家に帰ったら、ちゃんと手洗いとうがいはしてますか?」
 きっちりした敬語ではない。少しだけ甘やかされてるみたいなのがいい。
「してる」
 囁くように吐息だけで返した。直江の手は、声を同じように、大きな包容力と優しさで、冷たい高耶の髪に流線を描き続ける。しばらくして気がすんだのか、手は頭から離れた。服に擦りつけるんだろうか?高耶は横目でそっと盗み見していたが、直江は濡れてしまった自分の手を、膝の上で何度か拳を握ったり開いたりして吸収してしまった。それになぜか安堵を感じながら、高耶は、イスの足と足を繋ぐ棒に足を乗せ、膝を腹のほうに引き寄せて抱えた。

 と、ぐぅ、とちいさく腹が鳴った。

 びく、と身を震わせたほうが、
「……腹減った。直江がコロッケとか言うからだ。揚げたて食いたい。あー食いたい。ほくほく男爵のさっくり衣でソースもしくは醤油もしくはマヨネーズの……直江は?」
 と舌を出して言った。
「塩ですかね」
「塩かよ」
 あの白い粒は、油の上で溶けるものだったか。ちょっと雪に似た調味料が茶色の地面に降り注ぐ様を思い描いた高耶に、
「朝ご飯食べてきてないんですか?」
「寝坊してさ。食い損ねた。……カニだったのに」
「カニ?」
 と直江が驚いたように目を丸くした。綺麗な色だと思いながら、ん、と母親の胎内で漂う胎児のような姿勢のまま、高耶は目だけをあげて訂正する。
「アカイシガニ。甘辛く煮込んで乾燥させたやつ」
 ああ、と直江も、指二本分ぐらいの小ガニの姿を思い浮かべる。ときどき沢にいる、ちょこちょことした横歩きする小エビにも似た生物。
「ウチのうまいぜ。今度持ってきてやろうか。つまみになると思う」
「ええ、ぜひ」
 と、直江は言った。「でも、それなら食べてきたらよかったのに」
 と、教室の時計を見て微笑った。あ、鳶色。思い出した。何かの本で読んだ瞳の色。あれは外国人だったが、でもきっとこんな色だろうと思った。それは直江によく似合う。もう一度ぐるりと鳴いた腹に、高耶もなんでだろうと思い、同時に、本気で理由を考えていない自分に気づいてもいた。
――そうなんだけどな
「……そうだな」
 微妙に縮めて返事をし、それ以上何も言うことはないというように、炬燵で丸くなる猫のように目を薄く閉じた。だからもう、直江も詮索しない。
 特に話すことはない。それは身を縮ませる寒さのせいかもしれなかったが、もともと高耶はあまり話す生徒ではないし、直江は教師ですらもない。教師も含め、全体で30人もいないこの古い木造校舎の、学校事務員だ。
 まだコートを着て肩をいからせたままの高耶と違って、ゆったりした動作で高耶と同じようにイスを動かし、ストーブの近くに座った直江は特に寒そうな様子も見えなかったが、間近で見ると、耳がちょっと赤くなっている。と、直江がコートの下から缶コーヒーを2本取り出した。
「え、なに、いいの?」
「仰木さんに持ってきたんですよ」
 触れた手の冷たさに、少しだけおかしみと連帯感を感じた。
「なぜ笑ってるの?」
「やっぱり同じ修羅場をくぐり抜けたんだなって」

 高耶は好きだった。
 持ちやすい温度になった茶色の缶も。コートの色と同じブラック缶を持つ、大きく節ばった手も。
 そしてたぶん、その持ち主も。