県庁の端


(2)花とチョコレート








 ぐびり、と、見事な音をたてて落ちていく液体が、体の中と外の温度差を、じわりと少しだけ近づける。
「来月になったら、校庭に桜の苗木を植えることになったみたいですよ。この前の職員会議で」
「卒業記念?桜か……またベタだけど、まぁ妥当だよな。でっかい熊とか木彫りさせられるよりマシって思っておこう」
「他に植えたいのがある?」
「うん……」
 と少しだけ考えるための曖昧な返事をして、あーそうだな、と高耶は少しだけいたずらっぽく笑った。
「カカオとか、かな」
 じゃじゃん、と紺コートのポケットから、非常食のチョコ菓子を取り出す。四次元ポケットのように。駄菓子屋で売っているような、チョコレートとウエハースをくだいて固めたみたいな黒い菓子は、厚いコートに遮られて、まだ固さと冷たさを保ち続けていた。パリンと真ん中から二つに割る。
「ほい」
 差し出されたものに、直江はちょっと微妙な目をして、一瞬口をつぐんだ。
「今日が何の日か知ってるんですか……?」
「え?」
 と、高耶は黒板の横の日めくりカレンダーを見る。
「『――卒業まで後20日』……?」
 他になにかあったろうかと首をひねる高耶に、安堵とも残念ともつかぬ表情で直江は、
「いえ。なんでもありません。いただきます」
 と受け取った。
「どうぞ」
 肩をちょっとすくめて、高耶は唇を尖らしてみせる。直江の口に入れられようとしたチョコは、もらった遠慮なのか一口でなく、綺麗に並んだ前歯で半分だけ齧られおさめられた。ちょっと大事にされてるみたいで気分がよかった。
「あいかわらず、これ好きなんですね」
「オレの愛チョコ・ブラックサンダー」
 と自分は一口で咀嚼し、歯の隙間に入ったカスを舌で舐めとった。イスの上に体育座りをしたまま、ポケットに両手をつっこみニッと笑う。
「ハマるだろ?」
「ええ」
 と、直江も膝にこぼれた粉を軽く払い落としながら、
「……ハマります」
 そっと含むように呟いた。唇に笑みを刻みながら。
「カカオの木は、私の方から先生方に提案してみましょう」
 顔をあげ、決まった芝居のセリフみたいな冗談を優しく返して、直江は言った。
「高耶さんは」
「…………、ん?」
 少し遅れて、高耶が目線をあげる。まるで「寒いですね」と同じように、すごく自然にあたりまえみたいに呼ばれたから。一瞬、自分を呼んだんだと気づかなくて、反応が鈍く遅れたのだ。思わず夢や冗談じゃないことに拳を握ったが、四次元ポケットじゃないそこには、ただ裏地の冷たさと、肉に食い込んだ爪の固さだけがあった。
 直江は、その立派な体には小さめのイスに座って、個人面談の先生のように指を組み、こちらを見ていた。道ばたで、誰かが作った雪だるまを見た人のように優しく。少しだけ互いの距離を縮めたことなどまったく気負ってない様子で。呼び名が、雪から水へと溶けるように変化しても、やっぱり丁寧な口調で。
 それは違うと知っていても、だから高耶も、寄り添う月と波みたいに受けとめてやった。
「何?」
「東京の大学に行くんですよね」
「あぁ……まぁ、受かれば、だけど」
「大丈夫ですよ」
 直江の声は、寒さも緊張も解きほぐす。なんだか春に近くて心地よかった。同時に、高耶が好きな、灰のような雪が静かに降り積もるのにも似ていた。コーヒーはもうなくなったのに、なんだか体内にくすぐったさと温かさが込み上げる。
「あなたの思うように進みなさい。……振り返ったら私がいます」
 微力ですが、とさりげなくつけくわえて微笑う。その顔に、うわー、と思う。やられたやられた、と頭が鳴る。これを微力というのなら、自分は何十センチも積もり積もった雪の上に立っている。けして怪我しないように柔らかく厚く受け止める、直江という雪に。
 今に限って言うのなら、「思うよう」に進んだら、その場でターンを決めてまたこの男と向かいあってましたってことになりそうだ。理由?……わからない。引力みたいに好きな方向に自分の体をまわしていったらそうなっちゃいました、みたいな。
 なんだろう、これ……とぐるぐる考えていると、

「卒業まで、あと少しですね」
「……う?うん……」

 ハッと我に帰る。もしかして次は寂しいとか言われてしまうだろうかと若干緊張したが、直江は何も言わなかった。だから高耶も沈黙を守った。それは直江が守っているものだったから。この3年で、彼が纏う空気に触れて、触れ続けて、ようやく手探りで読み取ってきたこの男の心情だったから。
 言葉で確かめたことはないけれど、でもたぶん、自分の感じているほんの少しのせつなさを伴う感情と、大幅には違っていないだろうと、知っていた。
「直江はまだまだここか。お先に、だな」
「そうですね」
 と、ストーブを凝視しながら、努めて変わらぬように。
「でも高耶さんが大学を卒業する頃には、別のところにいるかもしれません」
「え……?ああ、そうか……。直江は別に、学校に住み着いてるわけじゃないもんな。なんかさ、古株の用務員さんみたいな気になってた」
 おかしなものですね、と直江は、温まってきた指の腹同士を擦り合わせた。
「私より後にここに来たあなたに出会って、ストーブの番をとられて。毎日同じ場所で見続けて、いつのまにか今度は先に送り出すというのは。学校はなんだか不思議な場所ですね。私は何も変わらないのに、あなたはこの3年間で見違えるように成長し、そして巣立っていく」
「大げさだな」
 ちょっと微笑ってみせる。
 確かに少しは成長したかもしれない。背だけでなく、自分では触れられない根っこの部分が。この学校で。3年のほとんどを毎日通って過ごした場所で、直江とこうして時間を重ねることで。
 と、目の前の男に感謝しながら、同時に少しだけ寂しく思う。いつかどこかへ行ってしまう直江に。

 直江は故郷じゃない。


 雪みたいに、戻ってきたらここで会えるわけじゃない。


「直江が別の学校に行く前に、この学校、廃校になるかもしんねーしな」
「大丈夫ですよ」
 冗談のつもりが、口にした瞬間ちょっとだけ痛んだ胸の内を見透かしたように、直江がまたそう言って微笑んだ。
「そんな話は出てません。高耶さんが帰ってくるまで、ずっとありますよ」
「うん」
 何度目かわからない短い返事をしながら、でも、と高耶は心の中で呟く。でも、おまえはそこにはいないんだろう?
「ああ、やっぱりストーブはあたたかいですね」
 手をかざし、ありがとうございますと直江は高耶に微笑む。ちいさく、高耶は首を横に振った。そして思い出す。
 冬休み明けにはここで餅を焼き、するめをあぶったのだ。
 千秋がアルミホイルの上で、家から持ってきたのか、貝柱とバターを焼き始めた頃、ようやく「やりすぎだ」と老眼鏡の奥、優しい眼をした教師に怒られた。
 木枯らしにカタカタ鳴る薄い一枚窓の向こう。校庭にある大きな柿の木は、担任がここの生徒だったときに、食べていた柿の種を飛ばしたのがいつの間にか育っていたんだと言う。
「つがいをしてないから、甘柿にはならなかったけどさね。そうしないと、柿はみんなしぶ柿になるもんだ 」
 だからみんなで放課後、干し柿を作った。直江もいた。器用に包丁を扱って、剥いた柿を高耶に渡し、高耶はそれを受け取って紐で窓辺に吊るした。木になった最後の一個はとっておいた。
「これが落ちたらまた八年後にしぶ柿が」
「そしたらこの木とつがいになる」
「しぶ柿は甘柿へと変化する」
「突然変異もいいとこだ」
「じゃあ子どもが甘くなるということで」
「何年後の話だろうな」
「そのときは、見に来ましょうね」
「…………うん」





「私は県に戻るかもしれません」
 静かな目をして直江が言った。
「県に戻る?」
「ええ。ここに5、6年いたら、たぶん本庁の教育委員会のほうに一度行くんじゃないかと思います。ここに来る前もそこでしたから」
「そうなんだ」
 素っ気ない灰色の建物。県庁。看板などによく出ているからなんとなく場所ぐらいは頭にあったけれど、あの十何階建ての中に直江が働いている姿は、「白い巨塔」をイメージしろと言われるのと同じぐらい曖昧で、灰色と白い世界しかなかった。そこでなら、この黒いスーツも当たり前のように馴染んでいるんだろうか。書類をせわしなく捲りながら、何百人という人たちと同じ建物の中で話す。人ごみを早送りしたようなざわめきが聞こえたような気がして、その中でただ一人突っ立っている子どものように高耶は黙る。
 しっくりくるといえばくるし、でもきっとこんなのんびりした顔はしていないだろう。あんなカッチリした規則正しい職場なら、直江も冷たい眼をするだろうか。どこまでも優しくて、高耶に甘い。そんな男がふと冷ややかに流し眼をしてきたら……と考え、ゾクリとした自分に、高耶はなんだか困ってしまった。
「県庁……か」
 ……そこでなら。
――そこでなら……何?
 雪の上に落ちた寒椿のように、それはちいさな振動を高耶の中に落としてすぐ消えた。自分の中の振動を知られないよう、高耶は直江から目を反らす。直江の後ろにある見慣れた窓には、一定の音色のように白いものが止むことなく落ち続けていた。

 あそこでなくとも、雪は降り積む。
 まだ遠い将来も。言葉や形にならない、この気持ちも。
 すこしずつ、すこしずつ、春まで安らかに冬眠させるように、高耶の心に、やわらかく。

 いつか芽を出すかもしれない一つの種を、高耶は地面にそっと埋め込む。願いをこめて。
 そのまま壊死はしない。
 北の大地を離れても、種は予言のように信号を送り続ける。

 咲いたものを持って、再び隣の男の前に立つ自分をうっすら想像して、高耶は口元に笑みを浮かべた。それを見た直江が、どうしたと、かしげた首で問うてくる。ちいさく首を振った。
「なんでもない。まだなんでもないから言わない」
 これは約束ではない。目標でもない。遠い遠い海の向こうにある、蜃気楼。誰にも奪われない、損なわれない、そんなものに近いと思った。
 廊下に人の気配がともる。二人でふっと首をまわした廊下側の窓の向こうから、数人の生徒の笑い声が聞こえる。軽くどつき合いながらのじゃれあい。昇降口から連れ立ってきたのだろう。その中に千秋や譲の声もあるのを聞き取って、高耶は立ち上がるとコートを脱いだ。
 さあ、今日も一日が始まる。
 掃除用具入れの横に何本かかかっているハンガーにコートをつるした。それを見て、直江も座っていたイスを元の机にジグシーパズルみたいに当てはめて、元の一対のものにする。
「ではまた。今日もがんばってください……仰木さん」
 先のことはわからない。
 でも今は、明日へと続ける一言を交わしつづけよう。
 長く静かな冬が明け、少しだけ大きくなった自分で、また会えるときまで。
「そっちも。じゃ」
「……高耶さん」
「……うん?」
「また明日」
「はは。うん、また明日。直江」
 近づく声とは逆の後ろのドアから教室を出る広い背中に、高耶も言った。肩越しにちょっと振り返って笑った直江の、優しい眼が、閉まったドアの向こうに消えた。

 桜が咲くか、カカオが生るか。

 ……どっちでもいい。
 どちらでも変わりはしない。

 桜の苗木を植えるとき、それが数年後立派な木になるのをきちんと想像できる卒業生が、日本全国でどれほどいるだろうか。きっと途中で涸れたり、うまく大きくならなかったりする、とどこかで奇妙に信じている。それは、期待したときの落胆から一歩逃げる保身なのか。それとも、期待と不安を抱いて卒業する自分たちから離れた場所で、勝手にすくすく成長するはずがないという悔しさからなのか。
 だから忘れようとする。
 意識から締め出して、これからの自分の生活を忙しく想像し、実行し続けることで、故里で待つ思い出のその後を見ないようにする。
 だから、さっき湧いたビジョンは、まだ今は雪の下に埋めておこう。何を埋めたか忘れるように。


 花が咲くか。実が生るか。

 どっちでもいい。どっちでも嬉しい。


 現実になるかは分からずとも、立派に変貌した木を見た直江が、驚きに眼を丸くし、そして。
 どうしようもなく嬉しそうに笑って、まっすぐ手を伸ばしてくれるのを想像するだけで、……自分はがんばれる。
(きっと、また会える)
 自然に、高耶の唇に笑みが浮んだ。


 ――いつかまた、オレの雪に会いに来る。


 一度大きく伸びをし、高耶は十分暖まった教室で自分の机へと大きく足を伸ばした。






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