県庁の端 (5)県庁の端 友人に溢したら働くなんてそんなもんだと笑われた。オレなんてもう早く辞めてーよ、と。そう、とりわけ高耶だって不満はないのだ。きっと10年後も20年後も同じだろう。結構なことじゃないか。自分が望んだことだし。高卒の自分にはそう機会もないだろうが、もともと出世欲なんてのもない。かといって、積極的に何かを改革するだけの技術も知識もない。あまりに組織は巨大すぎて、複雑だ。一つの部分が変われば、何十という課が変動にさらされ、深夜までの残業を背負うことになる。 まだこの組織内じゃ若い直江は、決断や改革も含めて、もう何度もそういう問題にたちあってきたはずだ。生半可な下調べと準備じゃすまない。自分の前じゃまったく普通にしているのに。 「悩むことも多くて、理想と現実の狭間で苦しむうちに最終的なビジョンが見えなくなる。大きすぎる組織のまどろこしさを呪い、忙しすぎて疲れを疲れと認識できなくて眠れない日も多くなった。そんなときに、眠る前にあなたのことを考えると、少しだけ力が抜けて安らかになれる。うまく言えないけれど……そういうことです」 直江が自分を好きだと言う理由はわからない。ただその気持ちだけは、乾いた砂に染み込む水のように少しだけ想像がつく。だから高耶は不安になる。わからない、と男を詰る。直江が。そして、突き放してしまえない自分が。 「だってだって…………男同士、なんだぞ。未来なんて見えないじゃないか」 最後の呟きはまるで消えそうなぐらい。 直江はそこに彼の優しさを見る。直江は、それでもいいと思っているから。それを高耶は、知っているから。 高耶は自分への想いは否定できても、個人そのものまでは否定できない。 「オレにだって、譲るないものぐらいあるんだ」 親友が聞いたら、地味に間違えないでよと言うところだ。 うつむき、何かに堪える高耶に、ふっと諦めたように直江は笑った。 「わかっています。あなたと家庭を作ろうとは思っていない。ただ私が、私の都合で、あなたを好きだと言っているだけです。精神安定剤のようなものです。返す義務なんてどこにもない。聞き流していてくれればいい」 高耶は頷くこともなく、直江の大人の理性のきいた声を黙って聞いている。恋とは、直江が持っているものとは、そんなに穏やかで理性のきいたものではないことを感じていても、気づかないふりをしている。 「あなたはいつか、普通に素敵なパートナーを見つけ、皆に祝福されながら結婚し、安心できる暖かな家庭をつくる。昼間は庁内でがんばっていきいきと働いて、家に帰れば美味しい食事と子どもが待つ、笑顔の家がある」 なだめるように、高耶の頭を子どもが寝かすリズムで叩く。そうして優しくくり返す。高耶の望みを。高耶が何かから逃げるようにくり返す、理想の家庭を。それが彼の望みならば――夢を見せるぐらいはできるだろう。 寝かしつけようとする手があまりにも気持ちよくて、高耶の眼に悔し涙が浮ぶ。強く、つぶった。 「……そうだ。きっと、そうなってみせるんだ」 ――たかや、すぐ迎えに来るから…… 妹の手を引いて去った母親。あの約束はまだ守られていない。いや、「約束」じゃなかったんだと気づきながら、高耶は中学生からもう社会人になった。 なんでもよかった。世間一般で言うところの「まっとう」な職につけるのなら。その肩書きを背負えるなら。直江が言うようにここですべてをゼロから始める。なのに。 ――どうしてその映像は、この男なんだろう。 クリーム色の綺麗な壁紙。見上げれば二人で選んだ時計。外気を示すような結露した窓。今寝ている直江の部屋より居心地よく見えるのは、そこに自分の手と嗜好が加わっているからだ。遠くそう理解して、高耶は瞼の裏の自分を再び見る。両手に持ったマグカップ。笑いあい。あたりまえのように重なる手。 滲むものに、ぐし、と目をこすった。そんなの、自分は望んでいないのに。なのに握りしめる手は飽きもせず高耶の髪で同じ動きを続けている直江の手の近くにあり続けている。 「奪わないから……」 直江の声。 「あなたが描くレールを。理想の未来を」 今はまだ、奪いはしないから。 高耶は泣いた。初めて寝た夜に。 失ったものと、それを簡単に手放せた自分に泣いたのだ、と直江は知っている。 「与えてください……空っぽのこの男に。あなたの一部を。……恵んで」 口唇が近づくのを、ぼんやりと高耶は見つめる。少しだけ上半身が起こされ、大きな手が後頭部を支えている。「逃げられない」と高耶は脳裏に字を描く。そうすることで、自分に伝える。言い聞かす。 距離を縮めてくる男をじっと待つ。目の前の相手は、どんな塊を抱いているのか。すべてが順調で、有能で、多くの人から羨まれ、慕われ、期待され、それに十分応えうる大人。働き初めた高耶にとって、一番最初に尊敬の対象となった理想の上司。けれど空っぽという男。 どうして、それだけじゃいけないのだろう……。 直江に聞きたい。尊敬できる人がいるというのは、とても幸福なことだ。それが身近であればあるほど。なぜなら自分を見下げないですむから。追いつくまでは無理かもしれない。あんなに人格すべてで物事をまるっとおさめてしまうような人間には、まだまだ遠い気がする。けれど、軽蔑されたくない。見限らないでほしい。そう、初めて年上の男にたいして思った。思えた自分が、誇らしかった。 自分で自分を見限るなんて簡単だ。一番荒れていた頃、自分は、その辺に捨てられるガラクタと同レベルに自分自身を扱っていたから、堕ちるのなんて簡単だと身を持って知っていた。 でも、直江が目の前にいると違う。あそこまでできないけれど、せめてここまではやってやろう。そういうストッパーに、直江の行動、成果、仕草のひとつひとつがなった。 無理して近づこうと努力するのではなく、ふっと気を抜いてしまいそうな一番つらいときに、「いや」と頭を振ってさっさと立ち直ることができる。沈もうとしたらカツンと、その人に見たいろいろなもので固めた床があるからだ。そこで体勢を立て直しながら、よしもう一度これぐらいまではやってやろうと、顔をあげさせてくれる。 同期は、高耶の言葉に少し言い澱んで、複雑そうな目をこちらに流して苦笑した。 ――あー……俺は違うな。そんなデキた人見続けたら、底辺まで落ちそう。ちょっと浮上できねーな。 影響は人それぞれらしい。高耶は幸い、それがいい形で現れただけだ。 なのに……。 感謝を感謝と認識できないうちに、直江は高耶からまっすぐな尊敬の眼差しを奪った。そのかわり、返してこなくていいのに、背中だけ見ていたかったのに。振り返ってから――熱い眼差しを向けた。 「高耶さん」 現実に戻される。男の顔をした直江が真剣にこちらを見ていて、5秒後の自分が、何に覆われるのか、わかる。もう何度もした。だからなんでか、今日はためらうように直江がいつもより遅いのがわかって。だから余分な思考が入り込んで。だから「与えて」そう言った男の声が意味もなく蘇って。「普通じゃない」変化に落ち着かない高耶だから―― だから、いつもと同じタイミングでキスができるように、高耶は数センチ前に動いた。 目を閉じる。同時に、弾力あるものに口唇が包まれる。 荒くはない。一度口を離したら高耶の心が戻ってしまうんじゃないかと恐れるように、直江は心臓の鼓動を早めないぐらいの最低限の息つぎで何度か口づけをくり返した後、堪えきれなくなって、重なった唇の隙間から舌を入れる。こうすることでしか触れられない温かな高耶の場所を、探ってから蹂躙していく。 「ふぅ……っ、ん……くぅ」 やがて、自らも舌を踊らせながら、湿った感触とからみあう動きに、高耶は陶然となる。 ――花が咲くか、カカオがなるか…… どっちもいいじゃないか、と痺れてぼぅっとし始めた脳で思う。直江の手で、自分の未来はどんなキラキラしたものと認識されているのだろうか。実際はこんなに現実でじりじりしているちっぽけな人間なのに。ちょっとだけ話の中の自分に嫉妬した。 かすかに湿った睫毛。くちゃり、と音をたてて高耶の舌を優しく包みながら、直江が親指で、また滲んだ高耶の目元を拭う。脅かしてすまない、と言うように。 子どもがわずかに見聞きしたような、薄っぺらな未来図でも、あなたは望む。1分足らずのCMを見るような憧れでも、自分が知らない「家庭」というものを。現実的な言葉で、一番無難で安全なところだけ抽出してつなげてみれば大丈夫なんじゃないかと、架空の積み木を積み重ねていく。 「……ん、ふ……、なおえ……っ」 どっちが夢見がちだろう。 空想の中で高耶を遊ばせる続ける自分と、 方法もわからないまま漠然と眩しい家庭像を描いて主張している彼と。 美しすぎる彼の積み木。あまりにも軽いそれを、いつまで自分は崩さずにいられるだろうか。重みのない積み木はけして壊れない。落ちた瞬間、塵のように消えてしまうだけだ。壊れたものなら形を変えてまたなおせるかもしれない。けれどなくなってしまったら、それしか知らない高耶は途方にくれて立ち尽くすだろう。だから今はまだしたくない。……でもそれもいつまで持つのか。今でさえ、次第に荒くなっていく口づけに歯止めが効かなくなりつつあるのに。 それでも。と直江は心の中で高耶に言う。 明日は一緒に出勤しましょう。家ではないけれど、現実で毎日生きている自分たちの場所には違いない。 ゆっくり高耶に覆いかぶさって、ソファーが二人分の重みに沈む。 「……ぁっ」 と高耶の焦ったようなか細い声が聞こえた瞬間、直江に火がついた。口に隙間がないように唇を合わせ、舌を絡ませ吸いあい、噛み合う。がむしゃらに、けれど動きだけは余裕を感じさせるぐらいの滑らかさで。 直江は服を脱がさないまま前戯に時間をかける。感じるらしい付け根を舐め、髪の毛をなぜながら、じわじわと耳を噛み、囁きながら再び唇を重ねる。鼻で息をしながら喘ぐ高耶の顔をもっと乱れさせようと深く深く絡ませる。 「高耶さん……ほら、もっと舌を出して」 「や……っ、ぁ……も、脱ぐ……ッ、脱がせて……」 「まだいいでしょう。ほら……」 「――っ!」 喉仏をべろりと舐め上げた。高耶が顔を赤くしながら身をよじる。もどかしさに負けた懇願も直江は無視して、シャツの上からしこった乳首を摘みはじめる。焦れったさに、せがむように高耶の足が直江の背に絡み、熱く固くなった股間が無意識に揺らめき出す。高耶の泣き声交じりの息遣いを耳元に受けながら、直江は噛み付くように何度もキスを再開した。 言えやしない。 好きになった本当の理由が、まさか一目惚れなんて。 同性相手に今どきマンガにもならない。しかもその眼に惹かれたなんて――あまりにも陳腐だ。恥ずかしすぎて、誰にも言っていない。高耶本人にすら。 どことなくモノ欲しそうで、 それでいて、他人の嘘を許さないような力強い目をしていた。 この仕事で滅多に見ることのない、珍しい眼だと思ったのだ。 守りたかったのか、汚したかったのか――あのとき沸き起こった感情は、もうどっちだったか覚えていないけれど。 「……んっ、ん……っ、」 ようやく一度離れたキスの間をぬって、高耶は顔を歪めて、どこか遠くへと呻く。 「これは……好きとかじゃなくて……」 未来の自分に許しを請うように、怯えた顔で。ああけれど泣かせたいわけじゃないんだ、と苦しげに直江はその瞼を片手で覆う。わずかに哀しみを帯びた眼で、すべてを堪え、高耶だけを救ってやる。 「そう、愛情じゃない。私達がこうしているのは、愛なんかじゃない。つきあいの延長――それだけですよ。だから大丈夫……お願いだから泣かないで――」 と、ふと奇妙な顔になって、直江は少しだけ身を起こした。 「……すみません」 「なに」 「今、すごいこと言いかけました。なぐさめようとして私」 離れた手の下、黒い瞳がまっすぐに直江を映す。 「あなたの結婚式にはスピーチをしますから、って」 「……」 「すごいな……」 「ええ」 「そしてひでえな」 「でしたね」 「想像したらシュールだった」 「すみません」 「うん。……でも許す。発言に関してのみだけど」 そして再び重なっていく。 耳に差し込まれた舌。ダイレクトに響く湿った音。枷を外され、少しだけ自由になった心で、高耶が快楽を追って腰を揺らす。直江が耳朶を噛む。まずは優しく。「淫乱、」とか戯れに言うことはあっても、ひとひらの雪片のように軽い。その場の一瞬の興奮より、後に高耶を襲うだろう後悔を思って、くり返し吹き込んでこないことを高耶はなんとなく察している。例えばこの男は、他の人間が高耶のことをそう口にしたら瞬間的に容赦なく殴ってしまうだろうし。 熱くなった吐息を重ね、平らな胸と胸をあわせるように背中に腕を伸ばす。きっともう胸の先は触れられずとも痛く尖っている。汗ばんだ背中に直接手をまわすこと。粘膜で隔たりながらつながること。しがみつくから、この行為は溺れるというのだろうか。 逃げるように、性急な動きで高耶は直江の首元に手を伸ばす。唯一の切り替え手段だと言うように、これだけは高耶が自らする動き。締め付けるものを互いにほどきあい、二本のネクタイが床に重なり落ちた。 「……高耶さん、高耶さん、高耶……さん」 このときだけ、直江は掠れた声で囁くように高耶を呼ぶ。自分の背中にまわされた手に許しを請うように。愛していると目で隠すことなく訴えながら。だから目を頑なに閉ざして、高耶は呻く。聞きたくないと、聞きたいと。襲う津波と救う木片が一緒にやってくる感じ。でもしがみついてるからオレは溺れない。――大丈夫だ。心の中でくり返し、矛盾を矛盾と気づかぬまま、固い背中に力をこめた。 けれどこの木片はどこか掴みどころがなくて、ともすればすぐに一緒に水底に沈もうとしやがるから油断ならない。くそったれ。きっとそうなったら、平気な顔して高耶の手を取り、じゃあ竜宮城でも探しに行きますかと笑みを向けるのだろう。いい年した、立派な男のくせに。んなところでファンタジー遂行してどうする。 「でん、き……」 「はい?」 「消して……ッ」 昼休みじゃないのに?と直江が笑った。学校事務員の微笑みではなく、上司の微笑ではなく、この男そのものの笑みで。 直江が上半身を起こしスーツを脱ぎ捨てると、胸ポケットからチョコレートが転がった。目の端で確認する。ブラックサンダー。と同時に照明が落ちる。 ああ、明日あれ見て平気な顔でいられるだろうか。甘く黒い雷に貫かれる予感を感じながら思ったが、目の前の食べ物を食べ、食べられるのに夢中になる自分を責めることで、高耶は考えるのをやめた。売店へは、直江を行かせればいい。だって明日はそういう日なのだし。自分たちは恋人じゃないんだし。 愛、LOVE、言う。 ふとそんな言葉が浮んだが、直江の小説以上にくだらないシャレだと思ったし、あがりくる吐息に思考は根こそぎ持っていかれてそしてなにもかも分からなくなる。 言わない。言わない。 チョコを溶かしながらこめる呪文のように、願いのように。切なげに眉をよせて湿った音で喘ぎながら高耶はつぶやく。 自分のルールはひとつだけ。だから最初から巻き込まないように。やさしい嘘はつかないように。 裏切らない。 直江だけはぜったいに裏切らない。 言わない。言わない。だから大丈夫。 やがて艶の交じりはじめた息づかいの満ちる部屋で、カチリと時計が新しい日付を静かに示した。外だけが、汚れなき冷たさに満ちている。 Fin. 2006.2-6 UP リーマンものを目指して始めたんですが、まず自分が働くのなんたるかをわかっていませんでした。 でもいろんな場所で働くひと、また働こうとしているひとの姿が好きです。 県庁は、私の通勤途中にあります。 どうせ見るなら想像しながらが楽しいかな、と。 |