県庁の端 (4)ハーフビター ワーク ん…、とちいさなうめき声をもらして、高耶は重い首をゆるゆると起こした。 「……な、んで……」 視界が高い。そして揺れている。灰色の街路樹が、オレンジの街灯に照らされている。かすかに深夜を走る車の音。ときおりまだ熱い頬に吹く、冬の風。 ようやく手の神経に指令を出すことを思い出した高耶が、掴んでいた肩から手を離したところで、全身におよんでいた一定の振動がやんだ。 「気づきましたか」 歩調をとめた直江が、高耶の首のところからふり返って穏やかに言った。 「なんで平気でこんなことできるんだよ、おまえは……」 成人男子をおぶってなお、さっきまでまったく足元にふらつきもなかった。どういう体力だ、この男は。 「そんな飲んでねぇのに……」 「日本酒に酔ったんでしょう。綾子たちがもつ鍋の中にどばどば入れてましたから」 どうりでなんか酒くさいと思った……。食べているうちにだんだん朦朧としてきて、あいかわらず好き勝手言っている直江や、便乗してからかってくる千秋たちにわめいているうちに、まるでテレビの早送りみたいに会話だけがぐるぐると頭を廻り始めて宇宙人みたいに顔の輪郭が歪んできてなんかもう誰が何を言ってるのか分からなくなったところで……店を出たあたりの記憶がない。 「背の割りに結構軽いですね、高耶さんは」 とまた、歩きだしたもんだから、高耶は慌てて肩あたりのスーツにしがみつく。 「もう歩けるからッ、おろせよ……ッ!」 落ちてしまわない程度に暴れても、直江の体が大きく揺らぐことはない。行き先がわかって、また高耶は焦りととまどいでどうしようもなくなる。離れようとすればできるのに、肩は直江の胸と触れ合っている。どうしたことか、もう自分の体は抵抗をやめてしまったから、男のほうから下ろしてほしい。地面に足が着いたら、すぐに自分の家のほうに走り去ってしまいたい。鳴かないセミのように直江の背中でじっとしながら、寒さをしのぐように、一番身近にある体温に頬を寄せた。携帯が胸元にあたる。カチッと開いて、着信があることに気づく。直江に背負われたまま、留守電メッセージを聞いた。 『もしもし、高耶?今日帰って――こないよね。うん、じゃ、新聞先に中澤のほうにまわしておくから。わかる?312号室。明日帰ってくるようだったら受け取ってね。あと、あの小説は一応俺が預かってるから、明日厳重に封してメールで送るね。じゃ、おつかれ――』 プツ。なんだかやるせなくなって、もうかけなおすこともなく、高耶は元のポケットに携帯を突っ込んだ。 ――いらねー…… 捨ててくれ。あんなクソ小説。いつものふざけた内容に勝手に名前が使われていたならまだ呆れるだけですむ。それがこんなにしてしまうのは、やましいところがあるからだ。中途半端に混ぜ込みやがって、と本気でいらついた。 「いたっ」 肩を殴られて、直江がわけが分からないという顔で振り向く。 「前見ろ」 「はぁ……」 「おまえさ……、なんでオレのこと好きなの」 酔っている。サイアクだ。人に聞くなって言っておいて。 心細い声を、高耶を抱えて歩きながら、そういうことかと直江は静かに受け入れる。 そして目を閉じた。探っても――そこにある魂のような体温より少しあたたかい塊に、触れるだけで幸福を感じることを、愛しさと呼ぶ以外、何があるのだろうと首をかしげながら。 「着きましたよ」 マンションのエントランスの前で、ようやく降ろされた。 エレベーターで、節ばった長い指が暗証番号を押しているのを見ながら、高耶はもう逃げなかった。 いつ来ても、一人暮らしにしては広すぎる部屋だ。官舎は強制ではないし、独立した職員への家賃もだいたい半分は出るが、それでも手当ての限度はある。この分じゃあほとんど手出しじゃないだろうかと思わせる立派なオートロック・カードキーの2LDK。これに駐車場まで借りていることを思えば、きっと高耶が直江と同じ年になっても、こんな生活はできない。それはすなわち、自分との経験と実績の差なのだ、と思い知る。 採用試験の成績は、概ねそのまま停年まで引き継がれる。 高耶が今年受かった初級の他、中級、上級と年齢によって試験は違うが、その中でも上級職の上位成績者は、将来多くの部下を伴う管理職候補として、早くから本人の希望とは別に効果的かつ効率的な配置を仕組まれ、数回の部署異動の後に早々の役付きとなる。 ただし、いくら成績がよくてもほとんど学校を出たての新人に、露骨な部落差別問題や暴力団、低所得住所不定者など、露悪な住民問題、いわゆる「底辺」を見せてから本部の指揮系統に入れることも多いので、その前に潰れてしまわなければ、の話だが。 40代、50代の係長がうじゃうじゃいる中で、小さな別枠とはいえ若干30歳で一室長をまかせられた直江は、大きく二位を引き離して(なぜかそういう噂は伝わるものだ)入庁したときから、それらすべての経験を、与えられた試練以上に己のものとして吸収してきたのだろう。 保守的な組織の中では冒険ともいえる人材配置だったが、高耶が見る限り、人事課の判断は正しかった。 直江に下手な気負いはない。 ケースケースで必要な十分な熱意と誠意をもって、ナチュラルに全体を見通して動き、また、動かせる。そのうえで、けして破綻は許されないこの仕事の将来を濁らず見ている。この組織の管理職としては、まったくもってぴったりの器だ。 男の部屋はいつも通り、物があるにも関わらず機能的に整頓されていた。家具にバラつきがなく、かといって例えば無印良品みたいにまんまセットで揃えているのでもない。 直江が自分できちんと一つ一つ選んだだろうもので構成された部屋には落ち着いた統一感があった。十分なゆとりを持って、置かれているそれらを見ながら、やっぱり安いからって直江は官舎には住まないだろうとわかった。 パソコンの横に散らばっている、一目で仕事と分かるあれこれの書類。 ブックエンドで固定された事例集と法令集にはたくさんの付箋がしてある。国からの通達文。今にも崩れそうになっているドッチファイルの山。認定照会と非該当分でわけられた通知。 「そういえば、あの新制度の一部改正案については3月議会でやっぱり可決されそうですよ」 「……マジかよ。めんどくせぇ……どれだけ大ごとになるんだか検討もつかねぇ」 「高耶さんたちも忙しくなりますよね。覚え直すことも多くて大変でしょうが、きっとやり遂げられると信じています」 「……てゆーかおまえのほうが大変だろ……」 基本的なマニュアルさえ、部屋に放り投げてほとんど見ないまま、毎日の仕事の中でなんとか覚えようとしてしまう自分と違い、あの仕事一色の机。家でまできちんとやっているのか、と高耶はやや卑屈な気持ちで反省する。それは、自分たちの上に立つものとして当然なんだろうけど。 なんだよ、あんなふざけたもの書きながらもちゃんとしてんじゃねえか、と胃じゃないところがもやもやする。追いていかれたような気分で。台所から手を洗う音が聞こえる。冷蔵庫の開閉の音も。高耶も指で手のひらを内側にこすった。なんとなく外から帰って手を洗わないのは気持ちの悪いものだ。けれど、身を起こす気力もなく、高耶はしかたなくだらりと寝ていた。 やってきた直江が、シンプルながらも高そうなインテリア家具のひとつ、丸いちいさなガラステーブルに自分の時計を外して冷えた新しいペットボトルの蓋をパキリと開けた。ミネラルウォーターだ。とくとくと高耶のためにコップに注いで、置く。 ピッ、と暖房をリモコンで調整しながら、高耶のスーツの上着とコートを吊るす。ネクタイも緩められ、ソファーに横たえられた高耶は、それを薄目で見るとはなしにぼんやり見ながら、心地よい弾力を頬で感じている。やがて直江がソファーに戻ってきて、傍に膝をついて、高耶の髪を梳き始めた。 「……眠る前に」 わずかに反応した瞼に、高耶が聞こえていることを知って、わかりやすいように言葉を補って直江は続けた。さっきの答え。 「たとえば、仕事が続いて。もちろんそれは給料をもらっている以上当然のことで。それでも、自分のしていることが、多くの人たちの毎日の生活に関わることになる。民間なら、どれだけでも選べるでしょう。いいところを、便利なところを好きなように、厳しい目で。けれど私たちは公務員だから。一番円滑で裕福な気持ちになることを全員にして当然だし、されて当然だとも思われる」 ああ、と高耶はうなずいた。まだここで本格的に働いて1年もたっちゃいないが、わかっている。自分たちが対峙する顔も見えない何十万、何百万という人々。向こうは選べない。住む場所を変えないかぎり、その県が決めた方針に従わなければならない。だからこそ失敗はけして許されず、厳しい目や意見は、日々何百というメールや手紙や電話となって次々と送られてくる。 「けれど選べないからこそ、全員が平等でなければならない。選ぶことすらできない人間でも、安心してまかせてもらえるような、救ってやれるような基礎を作ってやらなければならない。やれればいいことはわかっている。けれど同時に、その枷がある限り、ある程度の厳しさと冷酷さも兼ねていなければならない。――皮肉なものですね。地域住人すべてを、もっと自由に楽にしてやりたいのに、最低限の保障を得るために多くの意見を切り捨てることになる。客に媚びるな。俺たちが守るべき、従うべきは法だ。ときどき、虚しくなりますよ。NOと言わない帝国ホテル――という言葉を知っていますか?」 首を横に振って答えた。 「客のどんな要望にも応える。あるとき、夜中にマンゴーが食べたいとある会社の重役が言ったそうです。もちろんスーパーも閉まっている。でも今すぐ食べたいと言うので、ホテル従業員は、ただちに連絡と指示をまわし、隣の県の問屋から深夜にタクシーで最高級のマンゴーを持ってこさせ、綺麗に切って皿に盛り付けて出したそうです。もちろん、代価はホテル料金として請求して。タクシー代、その他サービス代もろもろで、マンゴー一つに十何万。それでも、客は笑顔で払ったそうですが。私は、それを聞いて正直ちょっと羨ましくなりましたよ。お客様のため、金のため――名目はどっちでもいい。利益なら利益と割り切って、この力すべてを、目の前の誰かのためだけに全力でふるえたら、どんなに幸せなことだろう――と」 それでも、と直江は言う。 「逆にこの仕事は幸福なのかもしれない。さっき言ったことと矛盾しているかもしれないけれど、少なくとも利益のために手を汚すことも、強制もされない。やることなすこと、すべて地域住人のためだけを考えて提案ができる。実際にできるできないは別として、私たちの最終的な目的は、結局そこにあるんでしょう?」 直江の言いたいことは高耶にもわかった。営業のように個人の成果を出せとせっつかれることのない、官庁の奇麗事かもしれない。けれど、こういう理想も持たずに仕事だけをする人間に、この年で今の直江ほどの立場はつけない。 大きな組織だからこそ、それに甘えて、隠れて、妥協や堕落するのも簡単だ。成果が出ないからといって辞めさせられることはない。評価が低く、どんなに周りから「使えない」とつららのような冷たい眼で見られようと、凪いだ柳のように心を閉ざして耳を閉ざして平気な顔をしていれば毎月給料は振り込まれる。 自分一人が動いたところで何も変わらないのならば、このまま組織の一つの歯車として、毎日目の前の仕事を消化していくことだけ考えているほうがどんなに楽だろう。 実際そういう人間も確かにいる中で、高耶は少し混乱した。入庁したばかりは、パソコン・通常業務・社会のマナーなど覚えることだらけでそれどころじゃなかったが、ようやく少し慣れて周りを落ち着いて見て、これから40年近く働く自分を考えたとき、何かはっきりとした目標みたいなものを見つけないと自分の立ち位置が分からなくなりそうだった。父親は会社がうまくいかなくなって荒れた。だから直江に勧められるままここの採用試験を受けたのだ。その考えは間違っていなかった。 ここなら自分の「目的」は遂行できる。けれど。 ――このままでも、いいんだろうか…… |