夢を見ながら、それが夢だと分かっていた。





 古びた机に手をかけながら、「オレ」はひとつの決心を固めていた。
 これが良心とか常識とか迷いとか、人間くさいものを感じる最後になる。あとは一つの大きな目的のために心を固く氷結させるだけ。
 握りしめたシルバーホワイトの細い腕輪。
 書かれている英文はここからは見えない。でも意味はわかる。もう一度噛み締めるようにその言葉を反芻してから心臓の真上にあてて握りしめた。固い金属が体温でぬくもっていくのを感じる。

 オレは、世界を滅ぼす。

 他にどうしようもないし、オレしかできないことだった。だから選んだ。祈るように固く眼を閉じる。
 目に浮ぶのは一人の男の姿。
 けして許される道じゃないことを知っていて、理解したうえでこの道を行く自分を、詰られるだろうか、泣かれるだろうか。それでも。
 許してほしい。
 手から力を抜いたとたん、ブレスはまたすぐ冷えていこうとする。哀しくなってそっと口づけた。
 呼び声。すぐ行くと答えて、うす暗い部屋を出た。
 たぶんずっと遠いところへオレはいく。
 すべてをこめて、それを手首にはめた。








acepe


―prologue―






 春の午後の街には、サラリーマンやら親子連れやらオレみたいな春休みの学生やら、あらゆる人が自分の目的地への流れにうまくのって歩いていた。
 車道に沿って植えられた木も、若葉をオフホワイトの日差しにつややかに光らせる。暖かく柔らかな新しい季節だ。陽だまりに目をふせる猫みたいに2、3度目をしばたかせて、オレも7階建てのショッピングストアへと足を向けた。

 中も日曜とあってそれなりの人出だった。老舗デパートの頑丈そうな袋をいくつもかかえたおばちゃんたちの横をすり抜けてエスカレーターに乗る。すぐわきの特設コーナーでは春らしいハンカチやスカーフが華やかに人々の手に渡っていた。
 どこのフロアで降りればいいんだろう。オレはぼんやり考えながら、とりあえず紳士服より先にあった3階の宝石店で、動かなくなった床に足を下ろした。
 歩いていくと、4月4日はしあわせの日ですと書かれたポスターが見える。下にはダイヤとおぼしき指輪の写真。特に女性が多いショーケースの間を行くうちに床は絨毯へと変わっていた。
 あった。
 目的のものを見つけてオレは足をとめる。何人かいた黒いスーツ姿の女性のうち、一人が「いらっしゃいませ」とにこやかに近づいてきて、

「何をお探しですか」
「えっと……タイピンを」
「ああ、入学式ですか」
「あ、いえまだ。じゃなくて、プレゼントなんですけど」

 ああなるほど、と笑みを深くする。
「お父さまへでしたら、こちらなど――」
 といくつか取り出してくるのをすばやく遮って、もう少し若いのを苦笑まじりに頼む。父親とはあんまりだ。予算を伝え、自分もショーケースの中をしげしげと眺めた。金や銀のネクタイピンが、シャンデリアの光を受けてちらちらと青白い輝きを放っていた。自分が身につけるにはまだ早いそれらを吟味していると、やがて店員が戻ってきて布をひいたガラス皿にピンをいくつか乗せてオレに見せた。ふと目を引かれた一つを、オレは手に取った。銀というより白銀に近い。石の粒も模様も刻まれていないシンプルさが、渡したい相手そのものを彷彿とさせる。過度の装飾は必要ない。これくらいさりげなく、彼の胸元にあるようなものがいいだろう。
 急にこれをあげたいという気持ちが溢れて、ちらっと顔をあげた。すかさず店員が綺麗にふちどられた赤い唇で、それなら若い方も喜ばれますよとにこやかに微笑む。そうかな、と思いオレは決めた。

「じゃあ、これを。プレゼント用に」
「かしこまりました」
 と、彼女はケースの横の紙を示した。
「ただいま、裏に文字入れをするキャンペーンをおこなっております。いかがですか?」
「文字入れ?」
「ええ。相手様のお名前でも。記念日でしたら日付でも」

 記念日。まるで婚約指輪みたいだな、とちょっと気恥ずかしくなる。赤い布の上に置かれたタイピンは、少し手をかけて完成品だというように、なめらかな表面でオレを待っていた。
 せっかくだから頼もうか。渡す相手の顔が浮んだ。柔らかな微笑を浮かべて語る、穏やかな口調。かと思えば、ふとした瞬間にちいさく覗く、意外な表情。すらりと伸びた背と優雅ともいえる動作。なにより、いまだいろんなことに迷ってとまどってばかりいるオレの視線を、不思議と吸いこんで深く抱きいれるような、不思議とどこか懐かしい綺麗な眼。
 ふと胸に温かいものが満ちる。無意識に微笑んでしまった自分に、まったくどうしようもないなと苦笑しながら、オレは夢の中の自分と同じような確かさで、今一番オレの心をしめてる人物の姿をあざやかに思い描く。

「じゃあ――」

 そろそろまた会いに行こうか。オレの姿を見とめて、ちょっと嬉しそうに目を細めてイスを勧める彼を想像する。会える、それだけで昂揚するこの気持ちはなんだろうか。うまく表現できないけど、一斉に咲いた桜を口を開けて見るような感覚。オレはまだその名を知らない。動物があったかい陽だまりへとそろそろ移動するように、一番呼吸がしやすい場所を求める。それだけで十分だろう?

 また楽しくて美しい日々が始まる。
 オレは湧きあがる感情に笑みを唇に刻んだ。
 止め具がとんだ腕輪の代わりに同じ色のホワイトシルバーのタイピンがひとつ。あの人に渡るのを期待するかのように、オレの手の中で光った。




 そんな、

 ちいさな春の話をしよう。









「――to Tと」







TACHIBANA clinic first and last spring
'acepe'
(橘医院・高3・5月3日春)


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