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春は白い。今日も天気は穏やかだった。
内部からほかほかと温められた生物たちが、見えないなにかを全身から放つ。街全体を霞みのように覆う、そんな淡くて透明な白さだと思った。
大通りを歩くオレの目に、もう見慣れたビルが映る。その横の影になっている部分から裏のほう。大通りに向かってほぼ垂直にぶつかるようにして、細めの坂道が伸びている。背後に太陽を背負うすべり台のようだ。
ほとんどの人間がなにがあるのかとちらりと見上げて、でもすぐ興味を失って素通りするその道のほうに、オレは曲がった。
一歩一歩上るたびに、空が近くなる。
オレは顎をちょっとあげてその青さに見とれる。なんてわかりやすい、絵に描いたような薄い青だろう。夏の暴力的なまでの熱気も、冬の身をすくような木枯らしも、秋のハッとする色づきもない。この穏やかな季節において空は、空調の整った美術館で天井に広がる美しい絵画だった。
「きれいだな……」
ようやく電柱が何本か先まで見えてくるようになって、道は平らになった。両隣に住宅が綺麗に並ぶ。坂のせいかここでは下界を走る車の音も聞こえない。空にスッと白い絵の具を筆を走らせた雲とは別の白いものが視界に入った気がして、おや、とオレは横の民家の塀を見た。
ひらり。
オレの視線に応えたかのごとく、小さな薄桜色は灰色のアスファルトの上に綿雪のように落ちた。
滑り込んできた花びらを足をずらしてとっさに避けて、細枝に咲いたふわふわの春の花にそっと目を細め、ひたすらまっすぐに目的の病院へと足を進める。
四月――。
高校最後の学年を迎えたオレは、暖かな陽だまりの中を橘医院に向けて歩いていった。
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―chapter 1―
1)
「5月3日……」
紙で貼られた来月の休業日。あれ、とオレは閉まったドアの前で立ち止まった。
橘医院の休業日は、日曜と今日みたいに土曜の午後だ。ここの唯一の医師である彼がなにか用があるときは、平日でも休みになる。ゴールデンウィークだからか? と思いきや、4日も5日もその紙には書かれていない。ちょっとドアの前で立ち止まって見ていると、
「あら」
と馴染みの声がした。振り返ると、裏の勝手口のほうから出てきたらしい小川さんがこちらに歩いてきた。妙にフリルのついた黒いひらひらした服に、手には猫のプリントをあしらった丸いポーチ。砂利道に綺麗なシルエットのロングスカートの影が、ちりぢりに落ちた。
「こんにちは」
「こんにちは。ああ、ごめんなさいね、今日はちょうど患者さんが綺麗に帰っちゃったもんだからもう鍵閉めちゃって。あら、制服のままで。風邪でもひいたの?」
「いえ、先生に用があるだけなんで。診療時間終わってからのほうがいいかと思って寄ったんです」
「あらそうなの。健康が一番だもんね」
最近私服が黒い服ばかりなのは、少しでも身をひきしめて見せるためらしい。目の錯覚だけでなく、最近ようやくダイエットを始めたという彼女の成果は、わずかだが見え始めているようで、やっぱり痩せると体が軽くなっていいわぁ、と小川さんは腰を大きくひねってみせた。
ときに待合室でおばさんたちと一緒に世間話に花を咲かせ、ときに怪我した子どもにさっさと消毒して絆創膏を貼ってやる。母親と一緒に赤ん坊をあやしながら熱を測ったり、診察室と受付のところをパタパタ行き来しながら、先生の指示のもとに次々と診察室をまわしていく看護士の彼女は、「急いで帰って子どもたちに昼ごはんを作ってやらないと」と、いつものようにほがらかに笑った。
「バタバタ帰ってきたら開口一番、『ごはんは!?』だもんね。もう食べる食べる。できた先からなくなっていくんだから」
その顔に見える皺は、疲れではなく確かに彼女の生活の証だ。もう口紅も薄くなった口が、大きく開閉して子どもの成長ぶりを嘆く。その様子があざやかに想像でき、くすりとオレも笑った。
「制服ってことは、高校も今日から?」
「はい。今日が始業式でした。あの、来月は3日だけ別に休みなんですか」
「え?」
と、彼女はオレの視線の先にあるものを見て、丸い顎に手をあててすこし首をかしげた。
「ああ、そうなの。毎年この日は休みにしてるらしくて」
「毎年? なにかあるんですか」
「ええと確か――なんだっけ……前に一度聞いたことがあったような」
おぼろげな記憶をなんとか引っ張りだすように、顔をしかめて視線をななめ上にめぐらせた。
「恋人に会いに行くって行ってたかしら」
「え」
ふいに、体がこわばった。
「あら? でも誰かとつきあってるようにも見えないし――あらあら? なんか間違ったかしらねぇ。大事な人? あ、でも出かけるところは毎年ばらばらみたいだし――ええと、なんって言ってたかしらねぇ。ま、とにかく大事な日らしくて」
と、総括した彼女に、
「そう、ですか」
苦さが滲んでいることを自覚しながら、作り笑いを浮かべた。胸が痛む。警告のように強く鼓動する心臓を感じて、知らず拳を固くにぎった。なんだろう、この胸騒ぎは。理由の見当はつくけども、まだオレはそれを言葉にしたくない。どっかに逃げ道を作っている自分に気づきながらも、苛立つなと思考を凍結させる。これ以上問いただすな。
あの人には、誰か一番大事な人が。
喉元まで出かかった言葉をギリギリで押さえ込む。鎖骨あたりでくすぶりながら消えていくのは、発せられなかった黒いもやもやだ。
あの微笑を、どこかの女に見せるのだろうか。
顔も知らない人間に嫉妬している自分に気づいてわずかに動揺した。
知るというのはその人との距離を縮めることだ。オレは怖い。縮めた瞬間、どうにも手の届かないところに彼がいってしまうのが怖い。そして同時に、そのとき深くショックを受ける自分をまざまざと知るのが怖い。首元に刃の背をそえられたように、こころもとなくなった足元を黙って睨んだ。ちがう、本当に怖いのは自分自身だ。
オレは、あの人をいったい何と見ているのだろう。
そこまで考えて、苦い嫌悪感が広がった。疑問と確かに自分の中にあるだろう答えから目を背けたまま、凍結させるように固く目を閉じた。
(あの人は、オレの、医者だ)
(オレは患者で、でも患者と呼んで終わるにはオレたちはやや友人に近い位置にいて)
あの人に恋人がいるかもしれないという仮定にこんなに胸がざわつくのは、診察室で話して笑いあうようなオレたちの安らかな時間を邪魔されたくないからだ。
居心地のいい寝床を、ある日一人で放りだされた動物が恨みがましく振り返りつつ去っていくのに似ている。ああ、そうだ。そういうことにしておくべきだ。
と、そのとき小川さんの声がした。
「あら、橘先生」
「おや」
心の中そのままが実体化したのかと息をつめた。声のほうへバッと顔をあげる。袖を通しただけの白衣の裾をなびかせながら、病院の裏手から花壇のレンガの上を歩いてきた人物が、オレと彼女を見て歩調をゆるめた。タン、とコンクリートへと降り立つ。
「こんにちは」
「こんにちは」
同じ言葉をくり返すだけで成り立つ会話でよかった。反射的にちいさく頭を下げて挨拶すると、
「どうしたんですか?」
「あ、これおすそわけです。先生に持っていけって妹が――」
と、オレは鞄からビニール袋に入ったタッパーを差し出した。彼は受け取って中をのぞきこみ、
「美味しそうな苺ですね」
と顔をほころばせた。同時に小川さんが「ああ!」と悲鳴をあげる。
「帰らないと!」
食べ物というキーワードが、はっと昼になすべきことを思い出しさせたらしい。
「じゃあ私はこれで。ごめんなさいね、あとは先生に聞いて」
「え?」
「いえ、たいしたことじゃないんです」
と橘医師をかわし、オレも「じゃあまた」と挨拶を返した。
小川さんは太った体のわりには軽やかな動きで、飛び石をぴょんぴょん飛び跳ねながら道路へつづく砂利道を歩いていった。
「なんていうか、バイタリティ溢れる人ですよね」
「ええ、よく働いてくれます。気もきくし、覚えも早い。私もときどき不注意で、子どもみたいに怒られるんですよ。根っから誰かの世話をするのが好きなんでしょうね」
なんとなくオレたちはいっしょに、デザインに凝った黒い服がひらりひらりと遠くなっていくの見ていたけれど、彼女の姿が塀に隠れて見えなくなると、橘先生はオレへと向き直った。袋を持ち上げてみせる。
「せっかくだし、食べていきませんか?」
もちろん家にはまだまだある。たくさんあるからおすそわけというのだ。もう何十粒口にしたのかわからない果実の甘酸っぱい味を思い返しながら、それでもオレは笑顔で「えぇ」と答えた。
手まねきして、来たほうの道。つまり裏手の玄関へと進む彼の後につづいて、オレはその場を辞した。彼女を恨むのはおかど違いだ、とため息とともに思いながら。
prologue / (2)
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