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「進級おめでとうございます」
「ありがとうございます」
自分じゃ、ただ四月が来たら一つ上の学年になるという当たり前のことでも、あらためてそう言われるとなんだかくすぐったい気になる。
自然にオレたちは、人気のない待合室を経て診察室へと向かった。
途中先生は、オレに先に入って待ってるように言って、二階にあがっていった。失礼してオレはいつものようにイスに腰かける。
差し込む陽光が診察室全体を暖かく空気を膨張させて、ときどき白い光が大気中のちいさな塵をさらに発光粒子のように見せている。橘医院はもう何度もおとずれたが、この部屋が一番好きだ。
オレの右側の壁にはパイプベット。いつも向かいあうあの人を越えて見る正面には大きな窓がある。診察の椅子に座ると、この窓から木に淡い花がついたり、秋の終わりの鮮やかな色彩が週ごとにしだいにあせていくのも眺めることができる。そうだ、小さな裏庭に雪がふるのも目にした。いつしか日差しと風の温度が近づき、すでに雪はまた一年おあずけという新しい季節になっている。
再び橘先生が診察室に戻ってきたとき、手には苺を盛った二つの白い皿があった。
「あ、すみません」
「いいえ、美味しそうですね」
両手の皿をひとまず机に置くと、先生は白衣を脱いで壁のハンガーにかけた。白衣の胸元にはやはり「橘」というネームプレートがある。この個人病院に医者はひとりしかいないのに。そういうところは律儀なのか分からないな、とオレは内心おかしく思う。
ここに来るまでずっと見ていた空と同じ色の線が入ったストライプのシャツとカーキのパンツという姿になった彼は、医師という重々しい肩書きを示す服を脱ぐと、年相応に見えた。身のこなしは流麗そのものだ。外に出したシャツから足元へつづくシルエットはすらりとしなやかで、姿勢のよい彼の体の線がうっすらと想像できた。
「いただきます」
「どうぞ」
とオレは片手を広げてすすめて彼のほうへ少し回転イスを寄せた。先生が赤い実を口に取り入れて舌上で潰すと、閉じた口をもごもご動かしながらこちらに大きく一度うなずいた。満足そうに細められた目で美味しいと伝えてきた彼を見て、オレも自分の分を食べ始めた。
甘いとか美味しいとか水気があるとか、軒並みそんな感想を言い合ってしばしオレたちは向かいあったまま自分の皿を空けるのに専念した。
そっと顔をあげると、フォークに刺した苺の赤さにしげしげと注目している彼の後ろの窓に薄い茶色の幹が見える。道路のように桜はないかわりに、秋に紅葉していたあの木に日差しが降り注ぎ、つやつやとした葉っぱをきらきらと光らせていた。白くてまぶしい。
「どうもごちそうさまでした。とても美味しかったですよ。私は一人でしょう。こんなパックを買うこともなくて。苺なんて本当に一年ぶりです」
オレは嬉しくなって、家にあるものを素早く脳で反芻した。
「新ジャガもありますよ。今度持ってきます。あ、もう少ししたら山形の叔父の家からさくらんぼが届きますからそれも」
「もしかして私は餌付けされてるんですか?」
複雑そうに眉をひそめる。彼の真っ黒な瞳に映ったオレが微笑んだ。
先生は立ち上がり、ほぼ同時に食べ終わった皿を二つ重ねた。
大きな窓の横で、流し台の水道管もくすんだ銀色を光らせている。金属のちいさな輝きは宝石のようだ。先生はもう二階にはあがらずに、乾かしてあったプラスチックケースを取ってそこに水をためると、皿を落とした。カタン、と水の中でゆっくり淵が当たった音がした。
と、オレも遅ればせながらもうひとつの用件を思い出した。
イスを立って、簡易ベットの上に置いていた鞄を手にとった。振り向いた先生は、立ったまま鞄をあさっていたオレの姿にちょっと驚いたようで
「もしかしてもう帰る――」
「これを渡しに来たんです」
と、オレは遮って一冊の大学ノートを差し出した。
「今まで見た、あの夢の内容を書いています」
「ちゃんととってたんですか」
ふたたび回転イスに座りなおす。水に濡れた手を拭いて座った彼が、キィ、とイスをまわしてノートを受け取った。パラパラとめくる紙で風をおこしていく。微かに揺れる前髪から覗く彼の瞳は奥深く、いつでもオレの話を真剣に聞こうとする誠意が秘められていることにオレは気付いていた。もうそれにひるむこともなく、
「よかったらもらってください」
「え」
と顔をあげた彼に、
「でもこれはあなたの記録じゃないですか」
「もちろんそれで何か判断してくれってわけじゃありません」
落ち着いた気持ちでオレは答える。
「先生に言われて、これをつけはじめてから一年たちました」
見たものはすべてオレの中にある。
「だからこれは、先生に読んでほしいんです。ただの、オレのワガママで」
「あなたの我がままなんて、いつでもかわいいものだ」
先生はちいさくつぶやいた。
「そうですか。……そうでしたね」
感慨にふけりながらノートのふちをなでている手も、細やかな愛情を伝えることができそうだ。今度はゆっくりと中に目を通していく彼に、
「あ、でもすごく読みにくいかも。すみません、詳しく書こうとすると尻尾をつかみそこねるみたいにするっと逃げていくもんだから。だいたい話したことばっかりだし、イメージだけの走り書きみたいなものになってると思うんですけど」
「大丈夫。読み取れますよ」
ぱらぱらと確かめるようにめくる。今までオレが話した中に出てきたいろんな人物の名前を見とめるたびに、卒業アルバムを見るように懐かしそうに目を細くした。
「でもあなただって、後から読み返したり……もしかしたら、あなたがやっぱり他の病院とか行きたくなったときに使うかもしれないでしょう。あ、いえ、私はまだその必要はまったくないと思うんですが」
と、心配そうな顔をしてやはり返そうとするのを制止した。他に?行くはずもない。
「今のところ、そう焦って思いだしたいとも思いませんから。書いた内容は全部覚えています。忘れることはないでしょう。だから、よかったら先生にも読んでほしいんです」
しばし先生は迷うように手元のノートを取り扱っていたが、じゃあと静かにうなずいた。
「あずかります」
「後になって返してとか言いませんから、邪魔になったら捨ててくださいね」
「とんでもない。言ったでしょう。あなたの話は興味深いと。後でゆっくり読ませてもらいますよ。あなたと――彼の話を」
そうして大切そうに抱えた彼が微笑んで、オレはそれに魅入られたようになる。一年前のあの春の日と同じように。
いつからかは覚えていないけれど。
オレの中にはずっと、ひとつの物語がある。
ひとつ、とまとめていいのかわからないが、ちいさくもおおきくも、確かにそれははるか無限に広がる終わりない物語だった。
ときにオレたちはふたりで宇宙船に乗り、ときに同じマンションでゴミ出しについて喧嘩をした。ナイフを持った野良猫のようなあの人と夜の路地裏で向かいあったこともあれば、同じ学校の生徒と教師だったこともあった。口を開けばぞっとするほど酷い言葉で罵りあったこともあれば、一秒に満たない瞬きさえ本気で惜しみ、シーツに包まってひたすら互いの姿を網膜に焼きつけたこともあった。
手の平が互いの熱でぬくもっていく。吐息がゆっくりと重なって、どちらのものかわからない涙が重ねた頬をつたった。
時代や場所や姿形を変えても、これは「オレ」だと認知できる夢を見るのに大概疲れたころ、オレは初めて橘医院をおとずれた。
診察室に入った瞬間、今まで見たどんな部屋より素敵だと感じた。
その中で際立って印象的だったのが、イスに座ったままオレを迎えた彼がこちらをとらえた眼の力強さだった。
その印象があまりにも強かったせいだろう。そのときの彼の表情をおぼえていない。その眼にオレは少し怯えた。
何から話せばいいんだろう。ただの夢物語なのに大げさだろうか。考えすぎ……いや、もうそれ自体がノイローゼとか勝手な判断をされたらどうしようか。冗談じゃない。こんな強い感情の残り香、そんなもので片付けられるはずがない。
すすめられるまま診察室のイスに座り、けれど何を話していいかわからない。オレは彼の黒目の勝った目をなかなか見れずに、しばらく視線をさまよわせながら無言だった。とそのとき、安心させるように彼がふっと優しく微笑みの混じる声で言った。ああ、まだ覚えている。
「大丈夫。――怖くない」
きっと今まで何人もの患者の緊張を溶かしてきただろう滑らかな口調だった。それくらい、耳によく馴染んだ。
肩についたものをそっと払われたように、ようやく力が抜けたオレはぽつぽつと話し始めた。今日はじめて出会った懐かしい人に、自分のことを話したくなった。
オレはしゃべった。驚くほどしゃべった。はるばる砂漠を越えてきた使者が、ようやく辿りついた国で語る果てなき旅路の物語のように。脳の襞に刻みこまれた唄をやっと思い出し、喜びとともに楽器をかき鳴らす古代の琴楽師のように。自分でも目が輝き、表情がいきいきとしていくのがわかった。
話せ、語れ、となにかがせきたてる。背を押す風のように煽っていく。
遠い過去のこと、はるかな未来のこと、今となんら変わりない風景のこと。こんな話おかしいですか、と聞くと、いいえ、と微笑された。止まると、続けてと促された。
オレは今まで人に話せなかったことを吐き出す開放感に酔いしれ、しまいには息もつかせぬほどあのふたりの話を語りつづけた。
ああ、そうだ。この診察室が好きなのは、オレが初めてこの人に会った部屋だからかもしれない。
止まらない口がカラカラに乾く頃になって、ようやくその間に過ぎた時間にハッと気づいた。「すみません」と謝りながら、彼がもう随分と無言だったことにも同時に気づいた。ちょっと不安になって、「あの」と口を開くと、そのときはじめて、彼がオレに問うた。
「こわい夢でしたか」
「わかりません。けど……悲しい夢じゃありませんでした」
そうですか、と先生はふっと目をすがめてみせた。
困ったような、泣きそうなような、それでいてひどく温かな表情をしていた。
「それならばよかった」
その瞬間天啓のように悟った。
オレは多分このときを待っていたんだ。このためにここに来たんだ。
この話をするために、出会う人。
そんな誰かをずっと探していたんだ…。
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