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3)
そのときから一年。何も変わりはしていない。
オレはここで変わらず、少しだけ広がった話――学校のこと、友達のこと、進路のこと、最近あった出来事――そして、やはりずっと見ている不思議な夢を、彼にひとつひとつ語りつづけていた。
橘医師は、夢の内容について自ら深く問うことはしない。これがたぶん普通のカウンセラーとの違いだ。といっても他にかかったことなどないので比べようもないのだが、たぶんそうだろう。
内容から分析するのではなく、ただ黙って、それとなく聞く用意が自分にあることを示すだけだ。それは、あの話をうまく説明できないオレにとって、非常に助かり、また心地いい態度だった。
いつしか、オレが彼にいろいろ話すのは、ただ単純に聞いてほしいという子どもみたいな関心の引き方に変わっていた。
知ってほしい。
聞いてください。
今のオレを形成しているものを。
けして怖くも悲しくもない、ただ胸に染みて熱とともにじわりと広がるあの不思議な物語を。沸き立つ底知れぬ未知の感情を。
理解しなくていいから。ただそこにいて聞いて、静かにうなずき微笑んでほしい。
それだけでオレは救われる。
無意識にそう願い、遅ればせながらそんな浅ましい自分の中の意図に気づいた。他人にとってけしておもしろくない夢物語ばかり話してていいのだろうかとふと口をつぐむと、彼は見透かしたように絶妙のタイミングでふわりと微笑んで、長い指をゆるゆると組みなおして、オレに催促するのだ。
「あなたの話を聞かせてください」
それはオレが語る遠くはるかな物語を、という意味にも、夢に出てくる「オレ」の個人的な話を、という意味にもとれた。
どんな奇天烈な話でも、先生は受け入れる。
オレがうまく伝えられない部分をすくいあげて広げて見せる。ああそうなんです、と嬉しさをおさえきれず叫びたくなるオレのすべてを知っているかのように。どれほど多くの人と出会っても、ここまで根の部分に触れてくる人間はいない。ずけずけと暴くのではない。もどかしくて困って助けてほしいと願うときだけ、彼はオレを第一に考えてから、そっと必要最小限に、心持ち温かさを加えて手を伸ばしてくれた。
その広さと人間の大きさ。
うまれつきなのだろうか、そうとも思えたし、それだけじゃないような気もした。同時に、差し伸べられた手を一気にこちらに引き込んでやったらどんな反応をするだろうかという興味が沸き起こる。
掴む手に不必要な熱がこもりそうで、けしてできるはずなどないのだけれど。
それでも、うまく言えないけれど、心だけはいっぱいだった。
「そういえば先生もうすぐ誕生日でしょう」
回想の途中でふと触れた記憶を口にすると、ノートを見ていた彼が顔をあげた。閉じてから、首をかしげてみせる。
「おや、よく知ってますね。誰に聞いたんですか」
「ほら最初に会ったとき、別れ際に先生が言ったんですよ。ほら、そのへんに紙に包んであった桜があって」
と当時包装紙に包まれた黒い枝があった場所、つまりは彼の座っているイスの下あたりを示す。
「飾るんですかって聞いたら患者さんからもらったって。珍しいなって思ったから覚えてるんです。えっと……なにか欲しいものとかないですか」
すでに先日買ってはいたものの、とりあえず聞いてみるだけ聞いてみようと思ったのだ。しかし彼は笑って首をふった。子どもの、しかも患者からもらうなんてとんでもないというように。
「あなたが健康で、毎日元気に過ごしてくれたらそれでいいですよ。あと今年は受験でしょうし、それに向けてがんばってくれれば」
予想通りの反応に、すかされたような、これでよかったと安堵するような、ため息が出た。ここでアレが欲しいコレが欲しいと言われても困るけれど。
――それでも……
オレのため息を彼は誤解したらしい。
「疲れてるんですか?妹さんも心配してましたよ。勉強疲れじゃないかって。その……」
と、無神経に第三者が進路に口を出すのもまずいと思ったのか、ふと口調を弱める。「がんばるのはいいけれど、躰だけは気をつけて」
「違います。大丈夫ですよ。無茶はしてません。これはなんていうか、先生の交わし方があんまりさらっとしてるもんだから」
少しは悩んでくれてもよかったのに。と不満をもらすと、彼は困ったように笑って、それからそっと目を伏せた。
「あなたからは、もう一年前にもらいましたから」
なにか渡しただろうか。
彼には、見えるものも見えないものも含め、ずっともらってばかりな気がするけれど。そうだ、このノートだってそのとき彼にもらったものだ。
一年前。
一朝一夕で解決するものじゃないとふんだのか、オレにせめてもの気休めを与えようと思いたったのか、彼は夢の記録をつけるように言って、机のブックエンドに挟まった本の中から長い指で一冊の背表紙をこちらに傾けて引き出すと、まっさらな大学ノートをくれた。
まだ床の桜を見ていたオレに気づいて、
――今日は私の誕生日だったんです。
言うか言わまいか、ためらうようにうつむいてから、そんな囁きを落とした。
――そうなんですか。じゃあ、誕生日おめでとうございます。
何気なく普通にそう言ったオレの目に、そのとき、すっともちあげられた瞳が映った。その黒さに一瞬魅入ると、生きた眼は微笑みで細められた。
――ありがとう……。
窓からさしこんだ柔らかな光が、眼球を濡れさせるように表面を撫でた。吸いこまれるように思考が制止した。
もしかしたらそのときからかもしれない。
彼のまっすぐな眼がなぜだかひどく好きになったのは。
「学校から直接来たんですか?」
埋まったノートを机に戻した橘先生の声に、ハッと思考が戻される。
「あ、はい」
「おなかすきませんか」
「? ええ、まぁ、それは」
「気持ちよさそうですね」
と、橘先生は窓の外を見ながら言った。「一緒にお昼ごはんでも食べに行きますか?」
予想しなかった誘いにわずかに胸が踊った。腹はさほど減っていなかったが、それに気づく前にオレは反射的にうなずき、二つ返事で了解を返した。
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