白いごはんをレンジであつあつにして、
サバ味噌煮缶とトマト缶をあわせて、フライパンで汁気を飛ばしただけだが、
まあおいしい作りおきのおかずをちょっとうえに乗せる。
水分が足りないと思い、鍋に水と酒少しを入れ、
だし昆布と干し椎茸のスライスを放り込んで弱火で煮、塩と醤油で味を付ける。
炬燵の電源を足で入れ、薄味の透き通った汁をすすったとき気づいた。
そういえばまる一日なにも食べていなかった。
開けっぱなしだったカーテンから曇った外を見やる。
みそ汁は嫌いだ。
あの匂いがすると、走って逃げたくなる。










 振り返ると、終わりを知らない流れに強引に割り込み、ようやくパスを通したところだった。
 すでに改札を通りすぎている直江に追いついたところで、高耶はまたすぐ別の渦潮にまきこまれ苦戦している。誘導してやりたいが、この体で逆らっては迷惑だ。大丈夫かと振り返りつつ進んでいくうちに、今度はちょうどいい人の波にむぎゅむぎゅとのまれたらしい。ともに押し流されるように階段を登れば、プラットホーム。
「大丈夫ですか?」
「べつに。なにも変わらない」
「ってあなた、徒歩通勤でしょう」
「こうしてると、オレら東京のサラリーマンみてえ」
 高耶はそらっとぼける。
 同じ敷地にある国立博物館とどっちがいいかと聞くと、少し間があって、動物園。と返ってくる。少し言葉に迷って高耶を見ると、それに気づいたように明確な理由を示した。
「パンダが見たい」
 山の手線は待たされることがない。数分おきの電車で上野に着くと、九時半の開園時間より少し前だ。公園の花壇のところに座って待つことにする。
 首を縮め、コートのポケットに両手をつっこんだ高耶に、
「やっぱり、博物館か美術館に行きませんか」
 という直江の提案は頑なに首を振られる。
 ため息をついた直江から三十センチぐらいのところに、スズメが二匹ちょんちょんと寄ってきた。ふっくらしているのは小スズメだというから、ひょろっこい二匹は成鳥か。こんな近くで見るのは初めてだ。高耶は目を見開き、大きな犬に相対した子どものように身を固くし、直江は石の隙間にねじ込まれた煙草をつつこうとするスズメを、さりげなく指で遠ざけた。
 二月の空は、煙がうっすら立ち込めたみたいに灰色がかっている。
 淀んだ雲がぼんやりと空との境界線も曖昧なままにある。でも雨は降らない。たぶんこのまま降らないだろうけれど、今夜はどうだろうか。遠いこの先の空で、炎上した飛行機の煙がくすぶり、届いたんだと言われても納得しそうな空模様だった。
 修学旅行生なのか、紺色の制服の団体が入り口付近に並び始めた。たぶん今日はひとが少ないほうなんだろう。平日ということもあって、わざわざ冬の朝から来る親子連れもあまり見えない。もこもこのファーコートやブルゾンに身を包んだ女の子たちのグループが、ブーツの足をたかたか上げ下げし、ちいさな肩をすくめてにぎやかに笑い声をあげた。
 開園の、放送。
「大人二枚」
「あっ、出す」
「いいですよ。これくらい」
 白くて黒いここのアイドルは、ずっと奥まで行かないと見られない主賓かと思いきや、あっさりと入り口の右手にいた。
 もういた、と高耶が思わず拍子抜けしたように冷たい息を吸った。
「初めてですか」
「ああ。おまえは?」
「出向のときに一度」
「そっか、東京事務所って都庁の中にあんの?」
「いいえ、別のところですが私の場合は議事堂のなかで働いていました。例えば議員の法案をまとめたり、それがどこか憲法に違反していないか細かく調べたり。簡単にいうと、条例をつくるスキルを学びにいってたんです。高耶さんも入庁したら行くことがあるかもしれませんね」
「んなとこ行かねーって。頭いいやつが行くんだろ。オレだと、すぐにパンクするか東京で遊びほーけちまうよ。だいたい、やっと終わって気楽になったっつーのに」
 もう勉強はとうぶんしなくていい。高耶は笑った。
「なな、それよりこれ、動物っつうか怪獣に似てる。もっちりして」
 だから直江も笑い返してやる。
「月曜、職員さんたちに土産買ってっかな。二日もバイト休んぢまったし。えーと、係員と嘱託と臨職で、えっと、十、十一……」
 見たら満足したのか、高耶は寒さにも負けずやってきた親子連れに柵の前を譲った。
 パンダのぬいぐるみがこんもりとある売店で、直江も一箱手に取った。
「私も、パンダサブレにしましょうかねぇ」
「いっしょに買ってってどーすんだよ」
 オレが買うから、おまえは買うな、とクギを刺してくる。
 会計をしている高耶の背中を直江は見つめる。スーツを着た大人が二人で動物園。自分たちはいったいどんな間柄に見えるだろうか。




 水の中のペンギンは、泳がずに飛ぶ。
 目を見張る速さで。
 はるか先の海まで、目指すみたいに。
 「縮地みたいだな」と思ったが、高耶がその技を知っているか分からなかったので黙っておいた。
 ぐん、とプールの中でまた動きが突き抜けるように速くなった。
 次は縮地の二歩手前で行きます。自分の脳の一部を、一歩離れたところで残りの脳が冷静に分析している。頭が無理矢理日常モードに戻ろうとしているらしい。
「あのカバ、係長にちょっと似てる」
「隣の係の臨職の佐藤さんに似てる」
「ほっきょくぐま、ほっきょくぐま!」
 高耶は次々と指さし、空の紙袋のように笑い、説明文を目で追っていく。
 冬に見るなら、南の島の鳥がいい。赤や黄色のハイビスカスみたいに華やかな小鳥が。多くの群れで寄り添って、それでも一個一個がべつべつなんだと思わせる、自分の仕事場にも似たちいさな生き物たちが。この寒さと全然違う、南国の。南国……
 ――南国少年パプワくん。南国アイスホッケー部。南国動物楽園綺談……
「最後にもっかいパンダ見てっていいか?」
「もちろん」
 ゆっくり見たらいい。直江は微笑む。
 博物館も美術館も嫌がって、この寒さで本当に彼が見たかったのは、きっと別のあたたかさ。それでもいい。ここのパンダには家族がいないはずだから。
 どうか彼に、最低限の救いを。
 高耶のコートが凍えそうな風にはためき、首もとの黒いネクタイをわずかに揺らす。彼はまっすぐ、一匹で笹をはんでいるぼってりした獣を見ている。
「大丈夫ですか」
 直江の問いに、振り返ることない背中が静かに言った。
「べつに、なにも変わらない」
 それから、ゆっくり振り返った。
 眠れぬ夜を旅するように、その眼が遠くなにかをはらんでわずかに潤む。直江の鎖骨に、急激にせつないものがせりあがった。
 笑顔の残骸を唇の端に残し、表情を変えることなく高耶は言った。
「今日はつれてきてくれてありがとな」
「すみません。これぐらいしかできなくて。知ってれば昨日行ったんですが」
「いいや、もう本当に簡単なものだったし。……だめだな、オレは一人じゃなんもできねぇんだなって」
「しかたないですよ」
 と囁き、高耶の頭に手をのせる。わずかでもぬくもりが伝わるよう。昨日はどうやって過ごしたのだろう。たった一人で、あの団地で。
「でも、甘えていいんなら、もうひとつだけお願いがある」
「なんでも」
 変わらない。
 別に、なにも変わらない。
 やさしい嘘をつかないあなたがそう言うからには、彼を愛している自分は信じるしかなく。
「今夜、おまえんとこに泊めてくんねえか?」
 だからどんなに欲した言葉を聞いたとしても、
「――おまえが、頭で考えてたみたいに、オレを使っていいから」
 彼の家のたった一人の肉親が、彼に振りあげていた乱暴な手や足をただの骨と灰に変えたとしても。


 あなたと私の世界は、きっと、なにも変わらない。





―― beautiful world ――





 清らかな水しぶきのような線画、根底に流れる独特の諦念。美しく精巧な背景と人物のコントラスト。
 夢の語らいに静かに身を浸していた直江は、机に置いた携帯にふっと光が灯ったのに気づいた。一瞬遅れて、マナーモードにしていた携帯がブーッと振動し、「千秋修平」と表示される。
 どうしたものかと逡巡し、漫画を置く。赤ん坊のように手の中で震え続ける携帯を持って通話ブースに入ってから、ようやく通話ボタンを押した。
「どうした」
『今から来れるか?』
 焦りと苛立ちの交じる声に直江は眉をひそめる。
「どこに」
 西通りのスタバの横の居酒屋。と言って、千秋は「の、外」とつけくわえた。この場所から歩いて十分ぐらいだ。
 飲みの誘いなら断ろうと口を開いたとき、「仰木が」という単語を聞いてピタリと止まる。
『仰木が。喧嘩して。とりあえず止めたんだが、なんだかよく分かんねぇから』
 ――ケンカ? 高耶が?
 あの瞳が浮んだ。なにかに傷つきながら、いつも微かに苛立っているような、それでいて発散するすべも知らずに、世界すべてに噛み付きそうな苛々を神経質に抑え込んだ。うずまく感情を凝縮してなお、薄まることなく真っすぐに曇らない強い瞳が。
 なにがあったと咄嗟に聞きかけたが、行ったほうが早い。すぐ行くと答えて、パソコンのあるブースに戻る。
 鞄をひっつかんで慌しく清算して外に出ると、とたんにひとの話し声や車のエンジン音が、むっとした熱と同時に押し寄せてきた。うだるような暑さだ。
 行き交うひとびと。汗をぬぐうしぐさ。排気ガス。背広。キャミソール。ビニールバッグ。
 すべての輪郭が曖昧にぼやけている。
 さっきまで見ていた漫画のシーンや台詞、あの眩しいひとつひとつが、蜃気楼の花のようによみがえっては喧噪にまぎれ消えていく。
 こんな景色にも、あの世界はあるんだろうか。
 日常の中でどうにもやりきれないと思うとき、直江はページをめくるたびに目の前に差し出されるひとつひとつに、心の中の泥が洗われ、剥がれていくのを感じた。大きな社会の渦の中で、どうしようもないほどちいさな自分たちが、それでも足掻きながら作ったもの。「人」が、間違いなく作ったもの。どんなかたちでも微かな希望や未来をこめながら。高耶はけして、認めないだろうけれど。やさしい漫画も、小説も。
 たとえば、よっぽど。自分の登場とかじゃないかぎり。
 じわじわとしみだしていく汗にスーツの上着を脱ぐ。焦りと不安が重なってわずかに苛立つ。信号が変わり、渡ろうとしたタイミングで目の前を右折してきた車に舌打ちする。ナンバープレートを睨むように見送りながらじりじり待つ。無意識に喉元のボタンをまさぐる手の甲にネクタイがうっとおしくからみつく。
 視界が開けた瞬間、早足で歩き出した。もどかしく、すぐに駆け足に。
 八月の土曜日を、直江は走る。




 居酒屋の裏に千秋はいた。
 ひとけのないところに放り出されたのか。奥の暗い路地裏、ポリバケツのあたりに高耶が尻をついている。
「……仕事だったのか」
 直江のスーツを見て、千秋が若干すまなそうな顔をした。間違ってはいないが、実際は午前中で片付け、漫画喫茶にいたのだ。しかし状況的にその単語を言うのがはばかられ、曖昧に「ああ」と直江は答えた。
「なにがあったんだ。大丈夫なのか、彼は」
「知らねぇ。おい、仰木」
 伏せていた顔をのろのろあげた瞬間、高耶の顔がさっと強張った。まっすぐ直江の姿を射抜きながら、
「……なんで、こいつを呼ぶんだ」
 多少乱れた感はあるが、そこまでひどい怪我がないことに直江は安堵する。
「保護者だろ、てめえの」
「……高校生のケンカじゃねえんだ」
「大人だからよけいタチが悪いんだろうが。県庁職員が暴力沙汰で捕まってみろ。また不祥事うんぬんで公務員狩りされるぞ」
 他のやつらにメーワクかけんな。高耶の憎らしげな目をしっかり受けて平気な顔で、
「部下の不始末は隠さず上司に報告、だろ」
「……課が違う」
「じゃ、恋人か」
 高耶がキッと激しく苛立った目線をあげた。
「ちがう」
 目は千秋を見ていたが、そこには十分直江の視線を意識した強張りとつっぱねがあった。
「こいつとは遊びだ。つきあってねぇ」
 千秋は呆れたように、
「……とか、随分男前なこと言ってるけど?」
 と直江を振り返った。答えない直江に重ねる。
「とりあえずこいつ連れ帰ってくんねえ? 女の子たちのフォローとかしなきゃなんねぇし」
「二人だけじゃなかったのか」
「三・三で合コン。相手は大学出たての新米教師。けっこう盛り上がって次行こうかってときに仰木に電話かかってきて、こいつが外出たままあんまり遅いから見に来てみりゃ、そのへんの大学生っぽいグループとケンカしてんだよ。聞いてみりゃぶつかっただのなんだの、まんまくだんねーことでさ」
 学生らは嘘を言っているわけじゃなさそうだ。面倒くさかったので千秋はとりあえず仰木のほうを殴った。ほとんど手加減なくふっとばし、あっけにとられた学生らに「これで勘弁してやって。悪酔いしてっから」と一応謝って(?)、いいか悪いか知らないが、面倒になるまえにおさめた。いまは譲がさくさく会計をすませて、男二人の不在をごまかしつつ、彼女たちを次の店に連れていったところらしい。
「なにがあったか言わねえ。相手に聞いても最初からこいつがケンカ腰だったという。そんなに飲んでもいねえ。意味がわかんねえのはこっちだよ、ったく。せっかくコンパしてやったのに、男二人で大変だぞ」
 おい、分かってんのか。と高耶に乱暴に言い放ち、言いたいことはすんだとばかりに直江の横を抜けて、道へと出る。振り返り、
「なあ、怒ったか」
「なにを」
「こいつ、合コンに誘ったこと」
 いいや、と直江は言った。本心だった。
 それは自分が封印した感情で、口に出したら終わるものだと思っているから、自分はなにも言わないことにした。ただ実際に目のあたりにすると、胸の奥から不穏な感情がじくじくと疼く。知りたくない、と思った。知って嫉妬するぐらいなら、知らないまま見えないところで千秋にまかせたほうがいい。痛みを封じて。
「……そういや、俺に仰木紹介したのもおまえだったな」
 県庁の二十代を中心に、大小さまざまな飲み会の幹事を引き受けている千秋だ。
 自身は売店の兄ちゃんだが、県庁の若い人間に妙に顔が効く。交流会とはいうものの、ほとんどが独身の男女ともなれば、わりと高確率でカップルができたりする。なんせ同期だけで百数十人。仲間の話、サッカーやスノボのサークル勧誘。仕事の情報交換や噂話など会話のネタには困らない。
身元もしっかりバレているから合意のうえでの遊びはさておき、そうそう危ないことにも変なことにもならない。実際、気張らないわりには「そういう意味」でも効率のいい集まりだった。

――なんだ、こないだまで直江んとこに臨職で来てたやつじゃねぇか。
 だから入庁してすぐ、直江は高耶を千秋にひきあわせたのだ。「よろしく頼む」と一言付きで。
 知ってるのか、と驚いた目を向けてくる、まだスーツに着られてる感のある高耶に、千秋は眼鏡の奥の目を細めた。
――顔はなかなかイケてっからな。飲みに来ねーかと思ってたんだ。ああ、待てよ、おまえ年は?
――……もうすぐ二十。
――よし、じゃあ問題ねぇな。
 若者の会へようこそ、と千秋は売店のカロリーメイトを手渡してニッと笑った。

 聞いてみたかったんだけどな、と少し固い声で言った。
「あのときには、もうおまえら、デキてたんだろ」
「……」
 千秋の後ろでやっと街が暗くなっていく。ビル群がシルエットとなり夕方の街に浮んでいく。セミの声が最後の一鳴きというようにこだまする。今年は猛暑ときいていた。
「よく分かんねえよ、おまえも。仰木も」
 疲れたように千秋が言って額の汗をぬぐうように前髪をざっとかきあげた。ポケットから出したゴムで後ろをくくる。高耶に聞こえない程度の声で、
「仰木に女ができたとして、おまえはどうするつもりだ」
 どうもしない。
 直江は静かに言った。
「好きでいる」
 待っているとも振り向かせるとも言わなかった。自分の行動が高耶の内部に影響することは、おそらく決してないだろう。
「おまえのこと、遊びだって言ってたけど?」
「あのひとらしい生真面目さだ」
 うつむくようにして口の端をあげる。
「俺を好きだって一言言えばいいのに。他の連中には秘密のまま、俺だけにそっと囁いてみればいいのに。そうしたら信じたがっている俺は簡単に信じる。欲しいだけの愛情をそそいでやる。俺がどんな嘘を望んでいるか手に取るようにわかっていて、手玉にとれる立場にあるくせに、あえてそれを与えたり言わないひとだから」
 いつだって騙される準備はできているのに。
 そうかよ、と千秋は呆れたように息を漏らす。
「あいつ分かりづらくねえ?」
「彼の秩序が好きだよ。わかりやすすぎるぐらいだ」
 と笑う直江の横顔に寂しさを見つけて千秋は黙る。
「あのひとはけして心地いい嘘をつかない」
「ついてほしいのか」
「……どっちだろうな」
 やさしく言って、目を伏せた。
 いくらでもつけばいい。美しい嘘も、言葉巧みなごまかしも、騙しも。どんなものだって自分はかまわない。
 けれど高耶はしない。それだけは絶対の不文律のように、高耶のなかに宿っていて、直江はそれを、滑稽ともかわいそうとも感じるのだ。同時に、泥まみれになってもなお立ち上がり、届かない夢を追いかける姿をいとおしく、美しいとも。
「おまえさんたちは、ずっと冥くて変なところにいこうとしてるように思うよ」
 それも別々の方向に。
 千秋が言い去ったあと、直江はもう一度笑った。障害のなくなった路地、ひと一人がかろうじて通れるゴミ捨て場の前で、高耶はジーンズの膝に額をつけてぐったりとうなだれている。私服の高耶は久しぶりだな、と直江は思った。直江と同じ部署でアルバイトをしていたときは毎日私服だったけれど、こうして同じ職員になればスーツばかりだ。
 たまに庁内ですれ違うときも。
 直江の家に泊まりに来るときも。
 なんだか新鮮な気持ちが湧き起こり、すぐにそんな場合じゃなかったと、ゆっくり近づく。高耶がピクリとちいさく顔をあげる。
 高耶さん。
 呼んでみた。
 外でだけ許される呼び名で。
 反応がない。そのくせ、黒い瞳でこっちを見つめている。捨てられたばかりの怯えた子猫のように。
「立てますか」
 高耶はちいさくうなずいた。足取りは少しふらついてはいたが、酔ってはいない。それから、はっと我にかえって目を逸らす。気まずそうな横顔。さっきのセリフに罪悪感を感じているのか。高耶はいつもそうだ。傷つけるのを承知でちいさなナイフを振りかざす。切りつけてから、しでかしたことに落ち込む。正当防衛だと必死に言い訳しながら。
 ひとの痛みがわからない人間じゃないのだ。ただ言わずにはいられない。
ようするに、試すように傷つけて傷つけて、相手を遠ざけるしか安心できない。徹底的に裏切られるのが怖くて、近づかなければ裏切られずにすむと思っている。けれど鎧ばかり纏えば、欲しいもののぬくもりもかたちも、温度として高耶が感じられるわけもなくて、そうしてから傷つけた相手にまだ、心の奥で手を伸ばしてしまう自分を恥じているのだ。
「……仕事だったのかおまえ」
「大丈夫ですか?」
 触れることなく、高耶の体を目だけで点検しながら訊いた。
「……ああ」
「歩けますか?」
 うなずく。
「なにがあったか聞きたいところですが、とりあえずうちに来ますか」
 伏せた顔、前髪の下の眉がぎゅっと寄せられた。重く、首を振る。
「なにもしませんよ」
 それでも高耶は頑なに拒む。じゃあ……、と直江は手元の時計を見た。そろそろ八時になろうとしている。
「動物園にでも行きますか」
 は? というように高耶が顔をあげた。驚いた目が初めて直江をちゃんと捉え、それから切なそうに歪んだ。
「どうぶつえん?」
 ちいさな子どもみたいな声で。
「そう。いまから行きませんか」
 いつのまにかセミの声がやんでいた。
 通りには今から冷たいビールでも、と飲みにくりだそうとする若者たちで溢れている。
 高耶の後ろ、塀の向こうでビルに近いあたりがピンク色に染まっていく。上のほうには蒼い雲が夜を連れ始め、上から下にむけて水色からサーモンピンクに。そしてだんだん淡い橙色に変わっていく瞬間、白い筋雲がたなびく。境目がだんだらに薄い秋色になる、その奥で太陽がゆっくり、ゆっくり、沈んでいく。
 直江は眩しげに目を細めた。

 あなたがいる、それだけで。
 こんなにも。
 こんなにも、奇麗だったか、夏の夕方。



[秘密―Top Secret―]
(mirage book 23)