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10)
指定された古典準備室は、旧館のほうにある。
放課後を待って靴箱の前の渡り廊下を行くと、横の中庭でつむじ風にのって緑の落ち葉が、踊る鰹節のようにくるくる舞っていた。
まるで自分のしっぽをおいかけてぐるぐるまわる子犬のようだ。カサカサ音をたてながらそのまま庭の木のもとへと連れだって飛び出していくさまは、爪先でまわりながらバレエを踊る少女の動きだ。この前橘先生と見た突風を思い出す。あれのミニ版みたいな、ちいさな竜巻。生き物のようでおもしろい。
けれどこれでは桜も散ってしまうかもな、と風で乱れる髪をざっとかきあげた。やはり先週までだったか。春を代表する花なのに、その色をつけるのは思いのほか短い。一年のうち数日しかない美しい景色を彼と見れたことに、ことさら幸せを感じた。
四月も半ばになると、もう景色には隙間をぬって初夏が交じろうとする。排水溝にたまった水の上に浮いている桜の花びらに短さを感じ、7日ほどしか地上で生を受けない夏の虫を思いださせた。
ただ違うのは、あの薄紅の後にはすぐに終わりでなく、青々しい葉がすっきりあらわれることか。花びらを落としてしまうと、同じ木かとちょっと目を見張るほどに生命力に溢れた姿になる。咲かせる花はあんなに儚げなのに。春の後に変わらず夏がくる限り、なかなか思いこみを裏切って、瑞々しくしなやかな木らしい。
二階にあがって滅多に立ち入ることのない古典準備室を、
「失礼します」
と開けると、二人は仲良く談笑しているところだった。ところどころ色の剥げた木製の机に、マグカップが二つ乗っている。4つの目が同時にオレを見た。
「お、ちょっと待っとれなぁ」
と、鍵を取りに牧原が席を立つ。橘先生はコーヒーを一口飲んで喉を湿らせると、「すみません」とオレに小さく頭を下げた。あわてて、暇だからと答える。
「探すの、今からですよね」
と確認したところで、牧原が戻ってきた。
「一番大きな鍵じゃ。ま、差し込んでみりゃすぐ分かる」
と、血管の浮き出た老人の手で、鍵束をチャリチャリと鳴らした。
「終わったらここの机に戻しておいてくれ。たぶんキャビネかダンボールの中に、前保健の先生に貸した全集とかごっそりそのまま入ってるはずじゃから。黒くて箱入りの、確かこれくらいの大きさの……いや、いろいろあるし、見たら分かるじゃろう」
「お借りしたものは、タイトルを書いて置いておけばいいですか」
「いい、いい。わしが持ってても仕方ないものじゃ。橘さんが使ってくれ」
「でも」
専門書なりに高いだろう本に先生が躊躇していると、牧原はひらひらと手を振って年季の入った皮鞄を開けた。
「読まれるべきところにあってこその本じゃ。多少古いものだからあまり役には立たんかもしれんが、暇なときの時間つぶしにはなるじゃろ。虫干しもしてないから紙虫(しみ)がむしばんどるかもしれんが」
と、一日が書いたものと同じプリントの束をごそりと取り出す。
「今から補講でな。ところで橘さん、今年の水天宮さんには行くのかね?」
「そうですね。ちょっと頼まれごとをしてるものですから。私も初めて行くんですよ」
「頼まれごと?」
「ええ、たいしたことじゃないんです。この前病院に“衆”の人が来て、社務所の番を夜頼まれたんです。最近は祭りもなかなか人手が足りないらしく、私も以前開業の際にお世話になったことがあるので断りきれず。本音を言えば、あまり……そういう時期にはそういう場所には行かないようにしてるんですが」
なぜかと問おうとして、ああ、と牧原は日当たりのよい部屋でちょっと目を細めてみせた。
「そういえばあんたは『見える』人じゃったな」
そしてそれ以上は追求せずに頷く。橘先生が困ったように薄く笑うと、牧原はそうじゃったそうじゃったと合点したようにくり返した。教材を抱えて、
「無理だけはせんようにな。普通よりちょっといろんなもんが見えると、しなくていい苦労まで負う。つらいこともあるじゃろが……それもあんたを形作ってるもんじゃ。背負いすぎんようにつきあいなさい」
横を通りざまにポンと彼の肩を叩いていく。年を感じさせない様子で部屋を出ていくひょうひょうとした背中に丁寧に一礼すると、橘先生はオレのほうへと向き直った。
「すみません。じゃあやりましょうか」
「あ、いえ、はい」
書庫の鍵を開けると、こころなしカビの匂いが漂う。薄暗い部屋の壁を手探りでなぞりながら電気のスイッチをつけた。
ジジ、とわずかな瞬きの後、パッと書庫が明るくなる。白い蛍光灯のもとに、引越しのように乱雑に積み重ねられたダンボールや本棚から溢れかけているプリントの束が曝された。
ちょっと……これは予想以上だ。
途方にくれながら、まずどこにあるんだろうそれは、と検討をつけるべくオレは足を奥へと分け入った。先生も後から続く。
「足元気をつけてください。スーツ汚れませんか」
「大丈夫ですよ、これくらい。あぁ、キャビネってこれのことですか」
4段で天上近くまでみっちり資料集や大学入試問題集で埋まったキャビネットは、下にローラーがついていて横にスライドするようになっている。それ自体が分厚くて大きな全集のように、4つほど並んで重厚なぬり壁を作っていた。橘先生がぐるりと見渡して感嘆する。
「これは……ちょっと探してなかったら諦めましょう」
「探すのは医学書でいいんですよね」
「ええ。治療薬マニュアルとか、そのあたりがあると聞いています」
よっと両手をかけてキャビネをスライドさせようとしたオレを、横から先生が一緒に力をかけて引く。重い鉄格子が開くような軋んだ音をたてて、わずかに隙間ができた。
がんばって、キャビネとキャビネの間を人ひとりが通れるくらい開けると、そこも変わらず整然と本が並ぶ光景が広がっていた。先に足を踏み入れた先生に手を貸してもらって、身を滑り込ませた。先生がざっと背表紙のタイトルを目でなぞる。ややあって横に振られた首に、そこから探すのをやめた。うっすらと埃のつもった床にうわばきの跡をつけながら、息苦しい棚の間から脱出する。今度はオレが先生に手を貸した。
「一休みしますか」
大概体を動かしたところで影すら見つけきれない。まいった。さすがに疲れたのか、先生が伸びをしながら、折りたたみのパイプ椅子を見つけてオレにすすめた。椅子は一つしかなかったから断ると、先生は椅子から手を離し、一歩後じさってオレから距離をおいた。
椅子を間に、中途半端な間が空く。シン、とした室内に、校舎のリノリウムの廊下をにぎやかに通る女子生徒の声が遠く響いた。椅子を挟んでオレたちは並んで立つ。
あふ、とあくびをすると、ばっちり見られていたらしい。ごまかすように口をぬぐった。
「寝不足ですか」
問われ、肩をすくめて答える。
「寝てるんですけどね。この時期、寝ても寝ても寝足りないっていうか」
「朝、布団でまどろむのとか最高ですよね」
「先生もやっぱりあと五分とか思います?」
「ええ」
と先生はあっさりと頷いてみせた。
「春眠暁を覚えず」
まったくだ。オレも後に続く。
「夜、河を渡る」
「暁に見る――」
と続けかけて、橘先生はふと、怪訝そうな顔をした。遅れて、あれ、とオレも気づいた。なぜ夜に河を渡るんだっけ?何か違った気がする。でもすぐにはどこが違うのか判断できないほど素直に口にしていた。後に続けた先生も、まったく違和感のないまま口ずさんだようだった。首をひねっていた先生も正解にたどりつけなかったらしい。オレに視線を戻すと
「どこでずれました?」
「さぁ……。でもふたりとも見事に間違ってましたよね」
妙なところで気があったもんだ。オレたちは笑い、それをきっかけにして、再び書物を探し始めかけたとき。
ふと、腰に手をあてて背中をのけぞらせたオレの視界に、「医療」という文字が飛びこんできた。あわてて向き直り、バッと一番奥の影になったガラスケースの本を見る。
「小児プライマリ・ケア」
「内科レジデントマニュアル」
「EBM入門」
「救急初期診療問題」
「内分泌代謝疾患 第2版」
……間違いない。これだ。
「あった!」
と叫んで、ちょうどあったちいさな踏み台に乗った。背はけして低いほうではないのに、手を伸ばして本の一番下に指がひっかかるくらいとは、どうなってんだ。いったい誰がこんなところにしまったのか。不満に顔をしかめながら、ううーんと背伸びして手を伸ばす。大丈夫ですか、と下から聞いてくる声に大丈夫とくり返して、なんとかそれだけ指でひっかけた一冊とともに、その両隣、ぎっちりつまった数冊をもういっぺんに引き出そうとしたとき。
「あ!」
前に重心を寄せすぎたせいで踏み台が傾いだ。
取ろうとした本が、泡だてた食器のように手からすべる。
固く重そうな書籍が何冊も一緒にオレの横へ落ちていく。驚いたような先生の顔が見えた瞬間、とっさにオレもそっちへ向かって爪先を蹴っていた。
「あ……ぶなっ!」
乾いた音をたてて何冊もの本が落下したのが背後で聞こえた。倒れこんだオレたちは、互いの無事を感じとり、ふぅ、と同時に息をついた。
「大丈夫ですか?」
「ええ。あなたこそ当たりませんでしたか?」
「オレは大丈夫です。すみません、払いのけようとしたら案外重そうだったんで、つい」
思いきり突き飛ばしてしまったがどっか打ってないだろうかと彼の腰や足の様子を確認していると、奇妙な目にぶつかった。
変な沈黙が妙に長い時間落ちる。なんだ?
つられて固まったオレにようやく、触診を受ける患者のように居心地悪そうな視線を飛ばしてから、橘先生は弱く笑ってみせた。
「とりあえず、ちょっとどいてもらえますか」
「え」
そこに至って、オレはようやく自分が、彼を押し倒した姿勢で覆いかぶさったままだということに気づいた。
「どうも妙な気になるので」
カッと耳に熱がともると同時に、オレはあわてて飛びのいた。先生はうつむき気味に苦笑しながら身をおこした。悠々たる落ち着きぶりで軽くスーツの埃をはたくと、ゆっくりした動作で本を拾いあげて、
「……すみません」
そう言った。なぜ彼に謝られるのかわからないまま、オレは、顔が赤らむのを感じながら細かく首をふった。
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