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9)



 穏やかな表情を裏切って、まっすぐな視線と真剣な口調にどきりとした。急に彼の求めているものが肌に触れるくらい身近に感じられて、オレは温水に心臓を優しく浸らせられたような安堵に、細く息をついた。
 人間がふと寂しくなるとき、「誰か」と他人を願うのはなぜだろう。
 自分一人で勝手に生きているんじゃないと知らせてほしい。
 誰かに呼ばれて鼓膜が震えたら、声帯を鳴らして応えたい。自分の身体はそのためにある。誰かの肌に手を重ねて皮膚の感触と筋肉の弾力を感じ、それが自分とは違う体温であることを実感することで、生きている限りけして消えることない不安を肌の下にそっと封じたい。
 オレたちは同じように誰かを必要とし、必要とされている。
 単純ながら、その言葉で、先生もオレと同目線・同世界に立っているのだとするりと悟った。確かに一瞬触れ合った気がした。周囲の環境や人間関係との間に否応なく感じてしまう個人的な「違和感」が埋まっていく気がする。いや、飛び越えてつながる気がする。ひどく懐かしいような、エネルギーに満ちた姿へと変貌する。
 オレは運がいい。同じ気持ちを感じることができる人がいる。
 そして、それがこの人だということに幸福を感じていた。
「ありがとうございます」
 いろいろこめて囁いた。
 なんだってこの人は、さりげなくも一番望む言葉をたやすく紡いでくれるのだろう。
 不安をあっさり抱きしめてしまい、なお滲んでくる彼という存在にだんだんオレはとらわれつづけていく。ぽつりと葉の先に溜まった一滴が、ゆっくり獅子嚇しみたいに間を置いて落ちる。それを両手で受け止めたオレの手に、じわじわと熱をもって浸透していく雫。先生と話していると、ときどき自分が砂漠になったような感覚になる。
 どこまでも彼の言葉や笑みを吸収してやまない、地平線まで広がる砂の平野に自分は変化していく。
 降り注ぐ雨を急速に全身で受け入れながらも、ときどき、飢えて叫びたくなるような。
「先生もそうでしょう」
 オレの声が、わずかに桜の香りを含んだ風に静かに乗る。何の気負いもなく、素直にオレは告白した。
「いてほしいんです」
「……」
 ピクリと肩を震わせた先生がとっさに口を開き、しかし言葉は声にならずに、視線をまた自分の膝元に落として口をぴったりつぐんだ。
 なにかを見透かしたのか、と無言で聞かれた気がした。オレは訂正も無難な逃げ道も作らずに、そっと目を閉じて判断を彼にゆだねた。
「首が疲れた」
 と、ごまかすように先生はちいさく肩を動かし、首をふる。
 オレはときどき、彼もオレとの距離をつかみあぐねているのかもしれない、と考える。
 誰とも変わりなくバランスと心地よい距離を器用にもって、自然に温かく人と接し、周りに優しい笑みが絶えない人なのに、なぜかオレといるときはふと無言になったときにわずかな緊張を感じているように思う。
 その理由を、オレは医師と患者をすこしはみ出してしまった関係に、彼がどう取り扱っていいのか困っているんだとおぼろげに推測するしかない。世慣れたように見えて、実は人との接触を苦手としている人じゃないか。けして人嫌いなのではなく、触れたところから自分の醜いところが溶けて相手に晒されるのに怯える人なんだと、そう彼の内部を探るのは、ずいぶん大胆な行為にも思えた。
 それなら踏み込みすぎだと突き放してくれてもかまわないのに。
 けれど義務か使命か、もしかしたらそれ以外のなにかなのか、むしろ接触する機会をいくつか持とうとしてくれる彼に甘えて、気づかぬふりをしてこうしてふたりでよく過ごす。このままどこへ向かうのかわからないベクトルのまま。
 ――おまえみたいに、他人と触れ合うのを最初から放棄してどうする。
 友人の声が耳に蘇る。ああ、オレと先生は、その点においてよく似ていた。
 けれど他人との接触をひかえめに拒むオレたちの態度を、同列にくくるのは乱暴すぎる。
 本当は彼は、誰かから求められるより、自ら誰かを求めたい人だ。
 戦うのは相手ではなく、疑心だらけの自分の内とだ。求め方を知らないから、欲しがることに人の何倍もの努力を要する人。彼が戦ってきたのは、いつだって自分だった。己が強ければ強いほど、終わりのみえぬままどこまでも汚い泥の中で醜く足掻き続けなければならない。
 オレは、それとはまた別だ。他人と関わるのは、いつだって理由があった。
 ただつるんでいるのはどうもしょうに合わなかったし、必要じゃなかったら誰を切り捨ててもかまわなかった。それで困るほど、自分は力のない者でいるつもりはさらさらなかった。
 だから名のつかない感情で、積極的に誰かとともにいたいと思うのはこれが初めてで。
 とまどいながら、すべてを見極めようと敏感になっていたからこそ、オレは今、彼の細かなアンバランスさにも気づくことができた。
 そういう意味では、オレたちはけして重ならない位置で一緒で。
 それは同時に、不器用なものどうしがおずおずと手をつなぐのにも似ていた。
 少しでも相手が反応したら、すぐに手を振り払って一歩後ずさるようなもどかしさと曖昧さに満ちていた。それでも背を向けて逃げ去ってしまわず、わずかに距離を置いて見つめあう。相手の眼の中にある宇宙を覗きこめる位置をたもったまま、そこに自分を否定するものがないかを怯えながら探る。
 みんな、何かを生みだすために生まれてきたのだとしたら。
 自分は誰から生まれ、誰を生んでいくのだろう。
 ふと、彼らだったらと思った。
 もう幾度となく見た夢の中の二人は、寄り添ったまま身を横たえる。眼を細めて、匂いを嗅ぎあう。つがいの動物のように。
(あの人も)
(そんな葛藤を抱えた人だった)
 眉をよせたオレの隣で、橘先生は何かを噛み締めるように黙ったまま眼を閉じた。彼の気持ちが読みとれる気がするのは、きっとあの夢のせいでもあるんだ。
 やわらかな花の欠片が、ベンチの上に置いたオレの手の甲に流れついた。
 たとえば「彼ら」なら、今オレたちが座ってる場所にわずかに存在する距離を、手を伸ばすことで埋めてしまえる。座ったまま自然と隣の人物と手をつなぐ。ゆっくり同じ温度にぬくもっていく二人の指先が容易に想像できた。
 しかしオレは同時に知っている。
 その美しい光景は、ただ甘い当然の余裕からではなく、まだそこにお互いがいることを確かめるような切実さとともにあることを。
 オレたちは言葉よりも足跡よりも自分自身よりも、相手の中に信じた。変わっていくものの中に、自分たちが確かに存在していることを。
「悔しい、か。なんだかあなたからそんな言葉を聞くと、おかしな気がしますね。ストレートすぎて」
 静寂を打ち消すように「うーん」と声をあげて空を仰いだ先生は、そう言って目を細めた。
「そんなひねくれてみえます?」
「ああ、いえ。そういうわけじゃないんですが……なんとなく、意外な気がして」
「他になにか言い方ありますか? 欲しくて遠くて届かなくて、こんなに求められてるそれ自体が、いっそもう小憎らしいくらい」
 花びらの乗った右手を持ち上げて、薄い欠片をもう片方の手でつまみながらオレは答える。「悔しいとしか言いようがないでしょう」
 地面に返してやる。
「うん。……わかりやすい。それくらいがいいですよ」
 本当に、と先生は満足そうに言った。なにがいいのかいまいちよくわからなかったが、そうやってうっすら微笑む彼が隣にいる事実に、つい自然とオレの口元にも笑みが浮かんだ。小さくも幾度も螺旋を描く薄紅色の落下を見送りながら、どっちが幸福だろうかと考えた。
 わずかでも近づきたくて手を伸ばしているオレと。
 手に入れた後、ひたすら抱きしめて動けなかったあの男と。
 と、そのとき。考えに反応したように、春一番のような突風がまいおこった。
 地面に散らばっていた花びらがいっせいに風にすくわれ浮き上がり、ぶわっと大きく舞い上がる。渦を巻く花びらに眼を見張った。視線が奪われる。花びらを大量に巻き込んだ竜巻が圧倒的な美しさで唸りをあげて舞い起こる。薄紅の桜が、晴れた空にあざやかに溶けていく。信じられない。オレは空が桜色に染まる瞬間を初めて見た。衣を思いきり振り払った花の天蓋を仰ぎ見て、オレたちはしばらく動けなかった。
「宝物ですね」
 わずかにあつくなった声でオレは言う。
「ほんとうに」
 呆然と、先生もはらはらと舞い落ちてくる残片を見て答えた。
 たった一瞬のできごとだった。けれど一生忘れることのない奇跡だった。旋風が見せた夢のような光景はすぐに元の落ちつきを取り戻し、ときおり吹く風にかさかさと花が重なる音だけが耳に届いた。
「このうえない……宝物ですね」
 先生のつぶやきが、ぬるまった風に乗る。ふいに鼻腔になにかの匂いが蘇った気がした。大気の匂いだろうか、それとも何かの植物か土か、さてまたアスファルトに落ちた雨の匂いだろうか。あれはいつの季節だったか思い出そうとして、実体のない記憶はひらりらりとオレの追跡をかわして去っていく。
 追いかけて伸ばした指先が、このうえない、とつぶやいたさっきの先生の声に触れて甘く痺れた。
 心の底が疼いて、オレは一人歓喜している自分に気づいた。どうした? とオレはオレに問いかける。どうしてそんなにはしゃいでいるんだ? まるでささやかな願いごとが叶ったように。問いかけは、まだ教えない、という誰かの含み笑いでかわされた。
 奥を探っていた手を止め、オレは口端に笑みを刻んだ。
 じゃあとりあえず――。オレはこの空にいろんな美しいものを見よう。
 夏にはパァンと咲く大輪の花を。秋には白くつらなる鱗雲を。そして冬には地面に冷たく溶ける羽を。宝物だと先生が言うなら、オレはそれをひとつずつ増やしていこう。

 できたらそう、彼と一緒に。

 遠くで子どもたちの声が聞こえる。かすかに甘い香りを含んで風と花がすれ違いつづける。透明で深い風。青空。
 それからしばらくオレたちは、その音を聞くともなしに、ぼんやりしていた。
 散り終わることがないように思えるほど、桜はあたたかな日差しの中で後から後から降ってくる。
 オレはとても安らかで幸せな気分だった。
 流れ雲の下で、両腕を額の上で組んで仰のいて、気持ちよさそうに口元を緩ませていた先生もそうだったと思う。そうだったらいい、とオレは思う。
「センセーに怒られるかなぁ」
 前を、さっきの親子連れが帰っていく。父親に肩車された女の子は、空いた両手でちょっと寒く頭をぺたぺた触って確かめながら言うのが聞こえた。
「お母さんの名前を書いてただろう。誰かが拾って届けてくれるかもしれないな」
「ほんとう? だってうんととおくに飛んでいっちゃったんだよ」
「だからひょっとしたらうんと遠くの人がはるばる帽子を持って会いに来てくれるかもしれないぞ」
「いつ? ねー、おとーさん、いつぅ?」
「さぁ、いつだろうね。さ、帰ろう」
 うん。だからひょっとしたら。心の中で高い子どもの背中に言ってやる。
 風に吹かれて見えなくなった帽子が、キミが大きくなってぶらりと訪れた旅先で、パタパタと紺のリボンをなびかせながら迎えてくれたら。きっと遠い昔になくしたささやかなものなど忘れてしまってるキミだけど、なぜだかいっぺんでその土地が好きになって、どういうわけだか懐かしい気持ちになって。どんなに薄汚れたり変形してたとしても帽子にまっすぐ手を伸ばし、感謝をこめてもう離さないよと抱きしめるかもしれない。それはなんて素敵なことだろう。
 オレにとって、あの窓のあるちいさな部屋みたいに。
 永遠の手前みたいな静かな時間は、その日も変わらず、オレたちのまわりをゆっくりと流れていた。







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