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8)



 そんなことを思い出しながら、オレはハルおばあさんに言った。
「元気ですよ。今日も始業式そうそうゲーセン行ってるんじゃないでしょうか。あいつ、ハマるととことん通いつめて攻略するタイプだから」
「まぁ、せっかくのいい天気なのに」
「そうですよね」
 藤棚はまだツタを這わせていない。吹き抜けの格子から見上げる空は、驚くくらい遠く澄んでいて、なるほど空というのは一歩内側から外に踏み出せばすぐ宇宙なんだなぁ、と納得しそうなくらい快晴だった。
「先生はどの季節が好きですか」
 とオレは言った。この国だから聞けること。
「そうですね」
 と橘先生は、ハルおばあさんのベンチと向かいあう、満開の大きな樹の下のベンチへと腰掛けて答えた。
「どれもいいところがありますから、迷いますね。ただ……そうですね、春はちょっと苦手ですね」
 え、と驚いて聞き返す。夏や冬ならともかく、春が苦手とは。めったに聞かない答えだ。一番暖かく気持ちのいい、光と風景が一体となってほのかに匂いたつ季節をどうして苦手などと言うのだろう。オレは首をひねる。
「もしかして花粉症とかですか?」
「いいえ」
 隣に座ったオレに曖昧に首をふる。
「なんだかすべてが霞がかってみえて、夢と現実の世界が近づくような。一番境目があやふやな季節だからでしょうか。浮き立つと同時に不安にもなる。桜がいっせいに舞う瞬間、不思議な気持ちになりませんか?奪われた視界が戻ってきたとき、そこが時空や場所をとびこえた別世界でもなんら不思議ないような。逆にそんな場所から風に吹かれて今自分はここに立っているような。思わず足元が浮き立つ感じがする」
 そこに感動じゃなくて不安を感じる人なのか。
 ふと先生の内部をほんの少しだけ垣間見た気がした。オレなら喜びを感じるが。
「あら私は春が好きですよ」
 正面からハルおばあさんが反論した。「もう手袋をしなくてすむもの。好きな人とちゃんと手をつないでいられるでしょ」
 オレたちは思わず顔を見合わせ、これだけ年をとっても堂々と、一緒に住む伴侶を話す彼女に、かなわないと笑った。
 勝ち誇ったような顔をして、ハルおばあさんはゆっくりと腰をあげた。刺繍セットを巾着にしまい、砂場の先の広場のほうへと歩いていく。
 慣れたもので、ちいさいその背中がかがむと、隠れるようにして日なたぼっこをしていた猫たちが寄ってきた。たぶんまた出汁をとった後のにぼしをやっているんだろう。ある程度やり終えると、今度は手を振りあげてあちこちにパン屑をばらまく。年寄りとは思えぬ大きな動作なので、猫が戻っていったのを見計らってやってきたハトたちは、なんだか滑稽なくらいに右へ左へ翻弄されまくっている。
 犬にフリスビーを投げる飼い主のような計算にもとづいてるのか、単になにかに挑戦してるのか。ここからでは表情まで見えないが、ハルおばあさんも日課となった猫と鳥との触れ合いを満喫しているようだった。
 ひたすらにのどかな情景全部を優しく包みこむように桜は大きく枝を広げ、誇らしげに咲いていた。
 その花を仰いで、オレたちは随分とそのままだった。
「あなたはどの季節が好きですか」
「そうですね…。そう聞かれるとオレも迷います」
 ――ああ、でも確かに。オレはなんとなく思ったことを口にした。
「先生に桜は似合いませんね」
 本当はそう言い切るにはもったいないくらいの桜だったけれど。
 それでも、桜が似合う人は空に溶ける人だ。
「紅葉のほうがいいですよ。桜は夜でも存在を微かに知らせるけど、手探りでいたずらに惑わすだけだ。匂いもないのに視界だけ奪う。選べと言われれば、オレは秋がいいです。土も一番肥えてやわらかく、実りも多い。葉っぱとか周りの景色が、せつないほど色あざやかになるじゃないですか。紅葉とか、あの紅さが怖いくらい生命力にあふれてみえる」
 この人は、それがいい。
 淡く儚げな幻想で見る者を惚けさせるよりも、その激しさで己の知らなかった胸のうちを無意識に駆り立てるような、他者を導く不思議な魔力と強さが。
「そんな中にいると、なんだか一番足下がしっかり踏みしめられる気がする」
「生きている気がする?」
「そう。大地に立って、ちゃんと生きてる気がする」
 ふっと笑う気配がした。オレの答えになんだか満足したように先生はうなずいて、ふと、おまけのように一人ごちた。
「恋をしてる人は秋が好きになるといいますが」
「……」
「たしかに、誰かと歩くのにちょうどいい寒さだ」
 動揺を肌の下に沈めながら先生を振り返ると、彼はからかいをおさめて、穏やかな笑みで眠るように瞳を閉じていた。
 オレは、またいつかこうやって散歩に来ましょうという言葉を浅く飲みこむ。
 春は約束にふさわしくない。なるほど、あやふやで曖昧な日差しの暖かさは、都合いい希望だけを手の中に残して香りとともに消えていく。
 約束でなく、希望ならどれだけでも紡げるのに。
 優しい時間を手放しで喜べる自信をオレはまだ持っていない。よくわかるさ、一日。たまにこの人が自分より年上ということに悔しくなる。オレより長い時間を過ごした人間にはどうしたって最後にはカード不足なんだ。
 何も言わずにため息を一つだけ。長いベンチに横になって、はみ出た足を、彼とは逆のほうに投げ出した。
 ごろんと空を見上げながら、片膝を両腕で引き寄せて抱えこんだ。
 踵がベンチの上に乗る。
 この時間が一分でも長く続きますように。
 オレは目線を上にやる。
 今静かにまぶたを閉じているこの人の顔を、隣でできるだけ長く見ていられますように。
「春は一瞬すぎますね」
 寂しさをこめて、聞こえないようにオレはつぶやいた。
 意識せぬまま、いつしか汗ばむ背中は夏を感じ始めるだろう。冷たく吹き抜ける風と、照り返す日差しの中間点。恐ろしく短いくせに、春はあっさり人を惑わす季節だ。
ときおり吹く暑いとも寒いとも感じない、涼風にふと気持ちよさを感じる。つまりそれまでは違和感も湧かないほどに肌と空気が一体だったのだ。楽だな、と思うとともに、こんな自然な季節があっていいんだろうかと疑念も湧く。芝生でも砂でもコンクリートでもこのベンチでも、この場で寝ろと言われたら、特段拒否もせずに素直に横になってしまいそうだ。
 熱帯夜も凍夜もこないと信じて。
 恐ろしいくらい無防備に寝ついた瞬間、春の嵐が幻を消しさるかもしれないのに、一夜の夢を永遠の現実のように見せるのだから。
 この瞬間だけはなんの不安もないのだと信じたくなる。
「あ」
 その穏やかさを、しかし底からはけして受け止めきれない人の頭に花びらを見つけた。
 取ってやろうと足に反動をつけて静かにオレは身を起こした。
 様子をうかがうようにそっと手を伸ばすと、ひそやかに眠っているかと思った彼は、近づいた他人の気配を敏感に感じとって眠気の欠片も残さない瞳だけをスッと眉の下で開いた。
「……っ」
 どきりとした。
 覚醒みたいな目覚め方にややたじろいでいると、彼は魔法をかけられたように止まってしまった他人の手に気づき、そこからゆっくり腕を経由して、ようやくオレの顔までたどりついた。
「あ…」
 彼の眸にとまどったオレが映る。
 彼はただ微笑んだ。何をしているのかと問うこともせずに。
 気の正体を認識してするりとほどけた空気は、逆に、今まであたりまえのように彼が自分の周りに張り巡らせていた敏感な膜の存在を、オレに再認識させるには十分だった。
 理由もなく触れようとしたのではない、と内心せわしなく言い訳しながら、オレは一言一言を用心深く口にした。
「花びら。ついてたから。取ろうと思って」
「ああ」
 先生はうなずき、再び目を閉じた。あたりまえに飼い主を信用した猫のように自然な動作だった。
 待たれてる。
 オレの中に誇らしさととまどいと嬉しさがふくれあがり、あわてて指の神経に命令をくだす。
 うつむいた彼のつむじを眺め、それでも髪と頭皮が持つ意外なほど敏感な神経を思い出して、そのまま結構長い間躊躇していると、
「まだ?」
 と急かすとも不思議がるとも遠く離れた声で、瞼を伏せたまま彼が優しく言った。ああ、と、なるべく髪の一本にも触れないように、爆弾処理班のような真剣さでオレはようやく花びらを爪でつまみあげることに成功した。やっぱり終わったことはわかるのか、月下で花が開くように彼が瞳を開ける。その眼に一度、「ほら」と証拠を見せてから、おおもとの犯人を見上げた。
 薄い薄い絵の具のような空に、同じくらいの薄さで満開の桜がこんもり控えている光景は、やけに春めいててため息がでた。
「空色ですよね」
 なんだかバカなことを言ってるな、と思ったけれど、橘先生はうん?とこっちを見ただけだった。オレの視線の先をすぅ、と追って、まぶしそうに目を細める。
「ああ、本当に。水色じゃなくて空色ですね」
 落ち着いた声でそう言って、感心したようにしばらくそのまま空を見ていた。
会話を探すことは互いにしなかった。同じ温度の空気を共有している。それだけでこの季節なら十分だと思った。
 なにもないところでずっと一緒に過ごせるのは、きっと心が深い所でもつながっている証拠だ。
 オレはなんだか嬉しくなって、同時に、遅まきながら「ああそうだな」と彼の言葉に同感した。なんとなくわかるような気がした。深ければ深いほど色にも深み増す海とは逆に、空は遠く晴れていればいるほど、はてなく透明に近づいていく。同じように色分けされても、似てるようでまったく違う。
 白く霞んだ雲が細く細くのびて、やがてどこかに消えていく。
 先生はどっちだろう、と思った。
 彼にとって世界はどんなささやかなものでも愛しむものばかりで、あふれるものらを次々発見し、取り入れようと実践している。それが基本なんだと生命すべてを慈しんでいる態度をオレはよく知っていた。そして同時に、言葉はしゃべれなくとも、風や緑や鳥や、自然すべてから彼が歓迎され祝福を受けていることも。
 いとも自然に木や土に同化して戯れるかと思えば、次の瞬間にはなにもかもを従わせて、一人凛と浮き立つ。底の見えない深さは深海かなと想像して、光がいっさい届かない世界はひどく暗い、という事実とかちあって、ぎくりとひるんで空へと置きかえた。
 いや……。
 それでも、結局遠いことには変わりないのか。
「くやしい」
 気づけば口に出していた。
「何がです?」
「どれだけ見てても自分のものにならない」
 つられて空を見た先生は、どうして夕焼けは赤いのとたわいない質問をくり返す子どもを見守る父親のような目で微笑んだ。
「欲張りなんですね」
「そう。意外とそうらしいって最近気づいて。大きなものに対して感心するばかりで、自分は無力なんだとよく思うんです。触れることも、なにかをやってのけることも、それを救うこともできない」
「手に入らないものなんてないんですよ」
 その言葉の甘さに、一瞬何の話をしてたのか錯覚しそうになって、ハッと我に返った。柔らかくオレの言葉を否定した彼はのんびりと、しかし自分の体温を保ったままで、
「全部あなたは手に入れられる。これから成長していくうちで、なにもかも望むとおりに動ける。欲しがるだけ欲しがればいい。誰もそれを咎めないし、本当は、どんなものだって求められなければ存在できないのだから。すべて、誰かが求めてるからそこにある」
 唄うようにそらんじた。
 急に膝元の自分の手がどんな奇跡でもおこせるように思えて、とまどったオレは少しだけ振り向いた。こっそりとうかがい見た先生の横顔には、ただ陽光に潤んだ温かな表情だけが浮んでいた。と、視線に気づいて、その眼がしっかりオレを捉えた。
「あなたがすることに終わりはないから、思う存分すべて広げながら生きなさい。生きている限りこの世界に関わっていける。ただそこにいてくれるだけでもいい。それだけで、なんらかに影響を与えてゆける。あなたは、けして無力なんかじゃない。だから不安にならないで。誰だって、誰かに必要とされているからここにいるのだから」





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