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7)
ハルおばあさんは、オレと一日の共通の知り合いだ。
バイキングで、空っぽだった胃に食べ物をいっぱいにつめこんで心も体も満たされたオレと橘先生は、団子の次は花だと言って、ビルの外に出た。
「よく食べましたね」
「言ったとおりだったでしょう。オレの勝ちですね」
道路と歩道をわけるブロックの上を、なんなくまっすぐ歩きながらオレは言う。彼はこちらを見上げ、日差しが目に入ったのか一度まぶしそうに瞬きをして笑う。
先生はオレが盛り付けた皿を見て、バランスがよいと誉めてくれた。オレはやや照れくさくなりながら説明した。きっと妹のせいだろうと。
妹は一回の食事で、ある程度品数がないとどうもダメらしく、朝からちょこまかといろいろ出してくる。オレがご飯と目玉焼きと葉っぱ(野菜か)があればそれで十分と思うのに対して、いつのまにか横で味噌汁とウインナーとオレンジを切ってテーブルに並べる。おかげさまでいつも色とりどりの一品料理にあずかれるのだが、何度か、夜に汁物がないと言ってインスタントラーメンを半分だけ入れた粉末スープを出してくるのはどうかと思う。「塩分高いんだから一杯だけね」と注意してくるくらいなら出さなければいいのに。先生はその話にひどくうけながら、綺麗な箸使いで、できたてのつややかな酢豚を口に運んだ。
「好き嫌いがない人はいいらしいですよ。心にゆとりがあるそうです。一理ありますよね」
「先生は違うんですか」
「私は結構偏食なんです」
「単に舌が肥えてるだけじゃないんですか、それ」
と言うと、先生は冗談めかして答える。
「長く生きるとどうしても、ね」
「……ジジくさい」
わざと顔をしかめて笑ったオレに、
「美味しいものは日々創作されていくけれど、やっぱり慣れるんですよね、大概の食べ物に舌が。食べ物にうるさくなる人に気持ちが最近やっとわかりました。あれは味覚じゃなくて、記憶の問題ですね。何も知らない子どもだったら美味しいものはなんでも同じように美味しく感じるでしょう」
と言いながら、「でもここはなかなか……」と意外そうに唸って、先生は枝豆のちぎり天ぷらを口に運んだ。
まぁともかく、すばらしく天気のいい日だった。
暖かな恩恵を受けながら歩く先に、やがて灰色のマンションやビルに埋もれるように、道の先にピンクの雲がだんだん連なっているのが見えてきた。
風が吹いて、その片鱗がひらひらと舞って地面に落ちる。横の道路を行く歩行者も自転車も、みな、おかしいくらい同じようにその木々を一度見上げて惚けていく。
幼稚園の入学式だったのだろうか。雲を支える幹の下で、紺の制服を着て父親に肩車された子どもが、一生懸命花弁に手を伸ばしていた。降り注ぐ花びらが紺色のベレー帽にとまるのがうれしいのかきゃっきゃと歓声をあげている。
豊臣秀吉の「醍醐の花見」に代表されるように、桜は平和を謳歌する花の代名詞だ。やさしくて繊細な日本人の心の故郷。
微笑ましい光景にオレたちは同時に顔をみあわせ、同じことを考えたのを瞬時に悟ると、迷うことなく春咲きほこる公園へと足を向けた。
「あれ」
と、そこでオレは声をあげた。先生も気づく。
「ハルさんですね。行ってみましょう」
入り口から見えるベンチには先客がいて、顔見知りだった、というわけだ。
下品じゃないくらいに薄く紫に白髪をそめて、網のような髪飾りで後ろにまとめて、ハルおばあさんはよく公園で刺繍をしている。
よくエサをくれる人を覚えているのか、おばあさんの足袋の近くには数羽のハトがいた。今日は鷺色の和服だ。いつも華道かお茶の先生のようないでたちで、老眼鏡を通して、ちくちくと楽しそうに木綿生地に糸を通している。
曾孫がオレと同じくらいと言っていたから、80前後10歳くらいか。
刺繍といっても、そこに描かれるのはかわいらしい花なんかじゃなくて、極彩色のあでやかな図柄だ。はじめ見たとき、ペルシャ絨毯を彷彿とさせた。よく見ると、青や赤や黄色の円の中には何本もの手を伸ばす仏の姿がある。
曼荼羅、というのだと教えてもらった。
小柄で背中のまるまった上品なおばあさんが、藤棚の下で綺麗な二重瞼を細めながら、真っ白な布に鮮やかな幾何学模様を縫いつけていくのは、なんというか、とても派手だと思った。
バイキングのせいで多少重くなった足を動かし、オレたちはベンチに座ってる彼女に近づいた。ゆっくりながらも危なげのない手つきをのぞきこんだオレは、がっくりと言った。
「……ハルおばあさん、仏さまの髪を蛍光ピンクというのは」
「あら、だってこっちのほうがかわいくない?」
と、顔をあげたおばあさんはオレの横を見て、
「あら。今日は橘先生と一緒なのね」
「おひさしぶりです。ハルさんも、お元気そうで」
「便りがないのは元気な証拠というけれど、先生のところは顔を見せないのが元気な証拠かしら?」
「ここに来たらハルさんには会えますから」
ああエキゾチックですね、と彼女の色彩センスを褒めると、少し頬を赤く染めながら、くっきり浮き上がる笑い皺を浮き立たせた。物は言いようだ。うふふ、とハルおばあさんは先生に聞いた。
「もう少し薄いピンクに染めてあげたほうがよいかしらね。季節にあわせて」
って、美容師みたいだな。そんなことで決めてバチでも当たらないだろうかと余計な気をまわすオレの隣で、先生は借りた布のでこぼこ具合をゆっくり指の腹でなぞりながら、
「このままでいいと思いますよ。こんなに力強い色をこめてもらったら、きっと神仏も喜ぶでしょう」
「そうよね」
とハルおばあさんは首をめぐらせ、皺に囲まれた優しげな瞳に、満開の桜たちを映した。
「この色ははかないもの。美人薄命っていうけど本当だわ」
頬に手をやってわざとらしいため息をつく彼女に、それだけ軽口がたたけるなら大丈夫だとオレと先生は無言で口端をあげて目配せしあった。眼鏡をケースにしまいながら、まだまだ当分死にそうにない老女はオレに聞いた。
「ちーちゃんは元気?」
ちーちゃん。ハルおばあさんは一日をこう呼ぶ。おばあさんは、一年ほど前にここで会って以来オレとアイツの知り合いだからだ。
一日はハルおばあさんが苦手らしい。
はじめオレはその理由を、しょっちゅう大学生と間違えられる風貌のオレたちを見てもまったくひるむことなく、「子どもがいきがらないの」と注意してきた彼女の、ぴしっとした性格を友人が敬遠してるのかと思ったけれど違った。どうやら物心ついたころから50歳以上の身内とつきあいのない彼にとっては、たぶん、「お年寄り」というものとの接し方がわからないだけなんだ。
「長く生きてる人間なんて、何考えてるかわかんねーよ」
その点では、オレも一日と同感だった。
時代は変わる。世間は走る。世の中流れにのったもん勝ち。
そう言ったところで、ふつうに生活するそのほとんどを先に経験してしまってる人たちから見たら、やっぱり自分たちなんててんで子どもで、一歩高みから見下ろされているんだろう。
そんな風にオレは案外冷静に受けとめられるが、あいつは違う。
大概の人間を瞬時に見極め、適度な温度に自分を変えてから一番楽な自分のフィールドで応対をしている「格好つけ」の友人は、RPGで未知の敵と会ったときみたいに、どうも距離を測りそこねてるようだった。
なんとなく、長く生きてるものに対して、尊敬と畏怖と得体の知れないもの、という気持ちがあるのか。
見透かされてるような居心地の悪さと、手の平で遊ばされてるようなおもしろくなさ。
最初にハルおばあさんと会ったときもそうだった。
「あー、俺これ嫌な思い出あるわ」
木々の濃い影がジーパンに落ちた。公園の高台の手すりにだらしなくよりかかりながら、器用に片手だけで演劇台本をめくっていた一日は、手すりで煙草を弾いて灰を落としながら苦い顔でそのセリフを指した。
「『一日千秋の思いで待ってます?』」
くゆらせていた煙草を外して読んでやると、
「そう。小学校の国語んときにさぁ、これを『いちにちちあき』って読んで。わかるだろう?このかわいい間違い。以来、一日どころか卒業するまで、同じクラスだった結構な奴らに千秋ちゃんって呼ばれたんだよなぁ。あんときは、ンな女みてーな名前で呼ぶんじゃねぇってえらく反発したもんだぜ。って、にやつくなよてめぇ」
「にやついてなんかないさ。一日署長みたいだなぁと思って」
「似てるけどぜんぜん違う。この前現国でやった話あったじゃん。あそこにも出てきてちょっとどっきりしちまった」
「かわいいじゃないの、千秋ちゃん」
と言ったのはオレじゃない。今の今まで、オレたちのすぐ傍で静かに鳩に餌をやっていたお年寄りが、しっかりこっちを見て不敵に、そう、老人とは思えない不敵さで笑って命令したのだ。
「煙草消しなさい。高校生」
あそこでひるんだのがいけなかった、と今でも一日は、人生最大の失敗みたいに呻く。ほぼ反射的に火を揉み消したオレたちは、そこでようやく、年の割にはまだ若くてしっかりした声を出したのが、オレたちの肩あたりまでしかない老女であることに気づいて、落とすこともできなくなった吸い殻を手に、しばし顔を見合わせ途方にくれたのだった。
しかしながら、
「俺、あのばーさんこえぇよ」
そう冗談っぽく肩をすくめながらも、ときどき会うと、いつも持ち歩いてる台本を大げさな身振り手振りで読んでやるから、根はいいやつだ。かなわないと認めたとき、人はちょっとだけ不必要な力を抜いて、素直になれるのかもしれない。
もしかしたら、その深い年月をともした目で自分の知らない部分をすくいあげて目の前に見せてほしいというほんのわずかな期待もあるのかもしれない。本人はぜったい否定するだろうが。
だとしたら、あの男にしては随分とかわいいものだ。
たとえばいつものように一人芝居を終え、ハルおばあさんとオレの拍手を受けてわざとらしくカーテンコールのふりをした一日が、大きく伸びをしながら言う。
「あーあ、なんかジュース系飲みてぇな」
「じゃあ、わたしオレンジで」
すかさず当然のようにかけられた注文に、
「……。いいけど」
「あら、おごってくれるの」
「いいっスよ?言うだけなら。オレンジでも2リットル緑茶でも」
「つぶつぶが入ってるのがいいわねぇ」
互いが互いをわざと無視してしゃべる。こう来るかこう来るかと相手を試しながらも、どちらも自分のペースを譲らない。笑いを口内に隠しながら、しれっと嘘ぶくような会話はつづく。
「でも残念ながらそこの自動販売機にはないみたいなのよねぇ。下のお店にならあるんだけど」
「へええー、そうー。よかったねー。で?」
先に堪えきれず笑ってしまったのはオレのほうだった。と、同時にふたりは目を見合わせて同時に同じの考えに達したらしかった。
「俺、コーヒー無糖」
「わたしは温かい烏龍茶で。ありがとう」
すがすがしいほどに微笑みつき。……いいコンビだ、まったく。
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