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6)



 5限目の音楽のぺらぺらしたテキストだけを持って、オレと一日は教室を出た。
 教室移動にはまだ早いが、音楽室の席は決まっていない。先生ももう投げたもので、ただ有名な作曲家の経歴や代表作をざっと話したあとは、クラシックレコード。かけて30分ほどたったところでチャイムが鳴るのがお決まりのパターン。週に一回のこの選択科目を快適に過ごすべく、早めに寝るに適した後ろの席をとってしまおうという算段で旧館へと続く渡り廊下を歩く。
 と、日当たりのいい入り口のところで大人が二人、立ち話をしているのが見えた。渡り廊下から二段のぼって、少し高くなった旧館入り口の戸を横に引く。背後の音に人の気配を感じ取って振り向いた顔に、オレはぎょっと声をあげた。
「橘先生!?」
 よく見慣れたスーツ姿の彼が、目を細めてオレの名を呼んだ。
「なんでここに?」
「大学の集まりの帰りなんです。こちらの先生は、私の先輩のお祖父さんで」
「孫は今東京の大学病院に勤めてるがな」
 と、引退の年を過ぎてなお顧問という名目で学校に居座っている古典教師は隣で笑ってみせた。
「実家が古本屋を営んでるもんでな、こちらの先生に医学書やらなんやらを押し売りしとる」
「安価で譲ってもらってるんです」
 そっと訂正する。見ると紙袋の中には、オレたちが使ってるジーニアス英和辞典並みかそれ以上の厚さの本が、ぎゅうぎゅうにつめられていた。
「まだ若輩者なので。勉強するところが多くて」
「誰かさん達に聞かせてやりたい」
 わざとらしくこちらを横目で見てくる年老いた教師を、オレと一日は顔を背けてそ知らぬふりをした。橘先生が笑う。
「あと一年ですか。早いものですね」
「はい」
 いつもと変わらない穏やかな声に、自然と笑みが浮ぶ。
「あ、妹がありがとうございますって言ってました。前から欲しかったみたいで。本当によかったのに、すみません。わざわざ」
「いえ。ささやかなものですが、喜んでもらえたなら私も嬉しいですよ」
「なんかはりきってました。今度はなにを作ろうかって」
「それはそれは。ああ、でもいつかあなたの作ったものも食べてみたいですね。洗ってないキムチで」
「……ッ! あいつめ、いらんことを!」
 口の軽さに呻くオレを、めずらしそうに一日が見ている。知り合いかと聞くチャンスをうかがっているようだったので、
「ウチの近くの病院の先生。橘医院って……知らないだろうな、おまえんち遠いから」
「こんにちは。こいつから噂はかねがね――ってイテッ」
「誤解をまねく言い方はよせ。いつオレがそんな噂をした」
「何度か話しただろうが。小突くなよ」
「そうか?」
 一日はオレよりまだちょっと背の高い彼の姿をまじまじと見た。へぇ、と不敵に笑う。
「なるほどね」
「なにが」
 眉をよせて訊いたのはオレのほうだ。変なことは言ってないといいが、と咄嗟に記憶を探る。どうも落ち着かない。次、なにを言われるだろうかと表情がこわばっていることに気づき、ぶしつけな視線を先生に向け続ける一日を「おい」と小声でたしなめた。
 幸い友人は、オレが何かの折に前からたびたび話していたことまで語るようなことはしなかったが、ゆうゆうと観察し終わると、
「芝居とかやってませんでした?」
「いえ……?」
「惜しいな。ぜったい舞台映えするのに」
 とまどってる様子の先生に補足してやる。
「すみません、一日はちいさな劇団にも所属してて」
「なんでわざわざ『ちいさな』ってつけるかな」
「違ったか」
「ま、ちいさいおかげで演出助手なんてもんやらせてもらってるわけだけど。だから人見る眼はけっこうありますよ」
 と、先生に
「いつか俺の劇団に――」
「勧誘もいいが、この前の宿題、提出しとらんのはおまえだけじゃが」
「あ! 忘れてた……。牧センセ、今あのプリント持ってます? 一枚くれません? もーちょっとでできそうなんすよ」
「もうちょっとでできるもんが、なんでいるんじゃ?」
 シシシと一日は決まり悪そうに笑って、しょうがないやつだと手元のファイルを探る牧原に口だけで「すみませーん」と謝った。たぶん、次の時間にやるつもりなんだろう。プリントを両手で拝み、適当な感謝を示してから受け取った。
「それよりおまえたち、そろそろチャイムが鳴るぞ」
 と牧原がオレを呼んだ。
「おまえさん放課後は空いてるか?」
「え? はい」
「橘さんと知り合いならちょうどいい。あと2、3冊貸したい本があるんじゃ。書庫を開けるから、探すのを手伝ってやってくれ。わしはどうも腰が痛くて、あそこまでは手が届かんもんでな」
「牧原先生、私一人でも探せますが」
「結構な重さになるぞ。家が近いんなら半分持たせて帰りなさい。若いもんがいるときは若いもんに手伝わせりゃええ」
 と先生に言って、牧原はふと気づいたように言葉を切った。「一緒に年寄り扱いも失礼かの」
「まだまだ現役でしょう、先生は」
 おどけて額を手で叩いた牧原に、橘先生が笑みを深くする。と、それを見ていたオレのほうに向き直ると、
「なにか用があるなら遠慮せず言ってください」
「いや、大丈夫です。帰るだけだから手伝います」
「ええー、オレの宿題を手伝う約束は」
「いつしたそんなの。一人で家でやれ」
「やっぱり冷たいやつだよ、おまえは」
 わざとらしく額を覆って嘆く一日に、先生が
「冷たいんですか?」
「去年一年で4人ふって平気な顔してる冷血漢です」
「ツイタチ!」
 おや、と彼がわずかに目を見開くのを見て、オレは頬に熱を持つのを感じた。たまらずおしゃべりな男を咎めるように遮ると、手元の時計に目を走らせた。もう少しで長針が線にかかろうとしている。
「急ごう。もう始まるぞ」
「げっ、マジで」
 さっと現実に戻ってさっさと一人だけ廊下を走り出した友人の背に呆れながら、俺はすばやく
「じゃ、先生。放課後来ますから。さっき一日が言ったのは気にしないでください」
「古典準備室で茶ァしとるからな」
 牧原のほうにちいさくうなずき、了解を示す。この分じゃ本当にギリギリだ。あわてて人気のうせた廊下を階段に向かって走り出した。気にしないでください、は余計だったかな、などと思いながら。






「なんつうの?動作が綺麗だな」
 めずらしく寝らずに音楽の授業を終えた一日が、たぶん今ごろ古典準備室で茶をしてるだろう牧原の机のうえに、さっきまで格闘していた課題を乗せる。インドの神様の像みたいな金色のペーパーウェイトで押さえて、「よし」と満足気にうなずいた。
「橘先生のことか?」
「そう。あれは主役をはれる人間だ。輝きが違う」
 へぇ、とオレはちょっと友人を見直した。
「ああ、あの人は人を惹きつける力があるな。なんとなくわかる」
「声も通るし、ぜったいいい線いくと思うんだけどなぁ。ま、おおむねおまえが言ってたとおりだな」
「そんなこと言ってたか?」
「ああ。めずらしく他人のことあんなに熱く語るから、どんな人かと思ってた」
 知らず自慢していたらしい。その事実に今さらながら気づき、オレは苦笑交じりに笑った。一日が歩きながら背伸びをした。
「眼がいいんだって言ってたよおまえ。確かにいい眼だったな。瞳に力のある、ってのは努力やなんかじゃないからな。そいつが持つ意思とか経験が芯になって現れる」
「そうなんだ。あの人を見ていると、ついそこで眼がとまる。吸い込まれそうな深い色をしてる。そんな眼で見られたら、ついべらべらいろいろしゃべってしまって、あとで我ながら驚いたりしてしまう。でも主役とは、また随分しょってるじゃないか演出助手」
「おまえは違うって?」
「いや、同じだから驚いただけさ。なんだろうな、派手ってわけじゃないし、うまく言えないけど……確かにおまえは人を見抜く力があると思うよ」
「舞台映えする役者ってのは、絶対いるもんだ。ほっといたって観客の注目を集めちまう人間がな。ある程度演技をマスターしちまったら、スターになれるかどうかはそこにある。テレビと違って舞台は全員が同じ大きさで同時に視界に入るからな。わかりやすくて残酷なんだ。どうしたって一番惹きつけられる人間を目が追っちまう。セリフはなくても一挙一動で人目をさらっちまう人種だよ、あれは」
「けして目立つ人じゃないのにな。でもときどき誰よりも目立って見えるんだ」
「そりゃああれだ。カリスマ性ってやつじゃないの? 本人まったく自覚してねぇだろうけど」
「むしろ抑えてるようにみえる」
 とオレはふと気づいた見解を誰にともなくつぶやいた。それは自分でも正体の見えないもので、え? と聞き返した一日に、なんでもないと首をふった。
 階段を上りきり、教室に入る。
 一時間まるきり人がいなくなっていた教室は、廊下とあまり変わらない温度になっていた。後ろの黒板で今日最後の授業が数学であることを確認していると、自分の机で教科書を入れ替えてこっちに一日がぼやいた。
「俺がなー。劇団持って、さぁ芝居するぞ! ってときにあの人に会ってたらなぁ。なにがなんでもスカウトして主役はらせるのに」
「残念そうだな」
「熱くなってくんだよ、ああいうの見ると。芝居人のくせっつうか、普段だって、おっと思うとじーっと観察しちまう。それでやっと、ああ、こいつはここがいいのかって理由を発見して嬉しくなるんだよな。この仕草を盗もうとか、こういうときはこんな表情をするのか、よし今度の芝居で使おう――とかな。で、ああいうスター級は、見てると新しい舞台や世界そのものが勝手に溢れてくんだよ。グワーッと構想がわいてきて、あれもやらせてみたい、これもやらせてみたいって、その人の中からいくつもいくつも、とほうもない夢を掘り出してきちゃうわけ。そいつを中心に世界ができていくんだ。カーッ! あん人、俺の演出で動かしてみてー!」
 今まで出会ったことない人間におおいに意欲が刺激され、どう料理してやろうか意欲満々、といったところか。おかしな奴。
「駄目だ」
 とオレはやんわりと制した。「おまえスパルタっぽいから」
「おまえあの医者の保護者かよ。あーでも、びしっとしごいて内に秘めてるものを暴いてやるってのは快感だろうな」
「その言い方やばいぞ」
「あれ。そんな気にはならないか?」
 ならない。と即答しようとしてためらった。
 果たしてそうだろうか。
 考えもしなかっただけで、本当にそう言い切れるだろうか。
 そんなオレの葛藤にふと気づいたのか、
「まぁ、役者ってのは言うなりゃ全員マゾだからな。演出家に何度も何度もだめ出しされて、しまいにゃ役どころか自分自身誰だかわからなくなってもまだ、罵詈雑言受けて耐えながらその役を掴みとろうとするんだからな」
 と本来の話に戻すみたいに軽く流し、一日は視線だけをこちらにやって、シイッとするみたいに指を二本口元に立てた。
「行くか?」
 放課後の学校でそんなリスクを負うほど、けして彼は頭は悪くない。それでもわざわざそう言ったのは、こいつなりの気遣いなんだろうと気づいて、オレは心の中で頭を下げながら、心配無用とふっと笑ってみせた。
「禁煙中なんだ」
「なんで」
 腕を伸ばしながら、驚いて一日が目を見開く。冗談めかして、それでも正直に答えた。
「背が伸びない」
「はっ、今さら」
「今さらってどっちの意味だ」
「どっちもだよ。一年近く吸ってたのも、もう終わってんだろう成長期も、不愉快ながら俺よりでかい身長にも、だ」
「そういえばこの前公園で会ったんだけど、ハルおばあさんから伝言があったな。子どもがいきがって吸うんじゃないから、試したならもうやめなさいって。あ、あとたまにはおまえの顔も見たいって」
 用は済んだとばかりに席に戻ろうとしていた一日が、振り返って思いきり嫌そうに顔をしかめてみせた。それがあまりにも露骨でオレは思わずにやにやしてしまった。
 内に秘めた欲望を暴く、か。
 そうして春の気配を運ぶ突風が窓に映る大木の梢をはげしく揺らす様を、頬杖をつきながらぼんやり見る。
 暴かれるのを待っている。そう仮定づけたとき、禁欲的な服に身を包んだしなやかな背中にふと深みが増したような錯覚を覚えた。あの漆黒の瞳の奥に急になまめかしささえ感じて、ふいに胸がざわめいた。
 まどろむような教室の温度より少しだけ高い熱がどこから来たものか。オレは正体を見きわめようとして目を閉じる。一日と同じように、興味深い役者を見つけた観客としてか――それとも。
 答えは出せないまま、オレは六限目の始まりを告げるチャイムとともにかけられた号令に、習性のように集団の中の一人として立ち上がり、また座る。そして頬杖をつきながら橘先生のいつもの笑みをぼんやりと思い返していた。意識の遠くで男性教諭の今日最後の授業が行われている。

 ……夢の中に相手が出てくるとき、昔の人は自分が想っているのではなく相手が自分を想っているからその人の夢を見るのだと捉えました。ここは現代の一般的な解釈と違うので注意すること。王道的にひっかけ問題として出てきます。出てくる人は、きっとその人のことを心から愛しく思っていたんでしょう……

 教師の思惑からだいぶ遠いところで、ふとオレは夢の中の二人に問いかける。


 あんたたちも、オレに覚えててほしいのか?


 答えは返ってこず、必要以上にくっついた「オレたち」が、子どもの立ち上がりを見守る両親みたいに、互いの頬を寄せたまま薄く微笑んでこっちを見ている。





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