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発掘した本は、積み重ねると腕が抜けそうなほどに重く、これは一回ではムリだろうと、オレたちは片手に一個ずつ本を入れた紙袋を持って、学校を出た。残りはいつか取りに来る、と言って。
とはいえ、今日のようにそうちょくちょく診療所を閉めるわけにもいかない。日曜はさすがに無理だ。診療時間が終わってから来るという手もあるが、夜の七時八時ともなれば、もう先生も生徒も少なくなっているだろう。
オレもたぶん、いない。
だから、「持ってきますよ」とオレは言った。少しずつ牧原から預かって、橘医院に来るついでに持ってくる。それは、「ありがとうございます。すみません」とやや申し訳なさそうな態度で彼に素直に受け入れられたが、内心オレは、自分でも驚くほど瞬時にいい理由が見つかったと提案していた自分の計算高さにちょっと嫌気がさした。
消防署が鳴らす、6時のサイレンが聞こえた。今日もそこかしこで、遊んでいた子どもたちが我に帰って、急に恋しくなった家路につくために手を振り合っていることだろう。
空から薄く剥がれた雲が漂っている。まだ建物や木や車の影がはっきり見える。人工灯の白い光がしらじらしいほどだ。冬はもう真っ暗で、歩道横の事務所や車のライトばかりがこうこうと目を射した街なのに。たしかに季節は夏に向けて動いているんだな、と思った。校門を出て、街がやや見下ろせる坂道を並んでゆっくり歩いていく。
「バイクは? ああ、禁止でしたか」
「はい。どっかに隠しててもいいんですけど」
言ってもオレがしないことはわかってるのか、先生は黙って微笑った。
鞄を背中に持ちあげると、カタンと教科書が肩口で鳴った。ああ、でもバイクがあったら彼の荷物を入れれるのに、と少し残念に思いながらネクタイをゆるめる。坂を下りきったところでバスに乗る。先生は意外とバイクのほうにも詳しく、立ったオレたちの視界をよぎっていく他人のバイクを批評しあった。ふと、車は買わないのだろうかと思った。家をかねた診療所は、見たところ車のある気配はない。彼は何の車が好きだろうか。聞いてみたかったが、男に対して車の所有を尋ねるのは気がひけた。いつか機会があったら聞いてみよう。
数個のバス停を経てオレたちを降ろしたバスは、噴煙をまきあげて再び大通りを発進した。
道路の上で定期をしまい、紙袋を抱えなおす。オレたちは自然と、遠回りだが人通りが少なくて静かで緑がきれいな道を選んで歩きだした。
しばらく行くと、ワォン!と聞き覚えのある鳴き声が聞こえた。振り向くと同時に、真っ白な中型犬が思いっきりオレの足元に飛びこんできたから驚いた。
「シロじゃないか!」
座りこんでわしわしと首の毛をかきまぜてやると、気持ちよさそうに仰のく。
「どうしたんだおまえ、こんなとこで。迷子か?」
ワフッ、ワフッ、と返事みたいにシロは鼻息で答えた。
「よく慣れてますね。知ってる犬ですか?」
「えぇ、町内会長のとこの犬なんです。あー、さてはおまえ、また勝手に抜け出してきたな。門に鍵かかってなかったのか?」
「送っていったあげたらどうです?」
「そうですね。よかったな、おまえ。知ってるヤツ見つけて。あんまりふらふらしてると車にひかれるぞ」
立ち上がってためしに数歩行くと、シロはちゃんとついてくる。帰りたい気持ちはあるのか。よし、ちゃんとついてこいよ、とオレたちはときどき後ろを振り返りながら、ふたたび歩きだした。
道の横は緑が並ぶ大きな電力会社の敷地だ。芝生の上をひらひらと舞っていた蝶が、フェンスを越えてオレたちのほうへやってくる。ウォン! ウォン! と宙にシロが吼える。
「おい、シロ。置いてくぞ」
蝶を追いかけながらも、オレたちが行くのを見るとあわててかけてきてぴったり寄り添う。
「かしこい犬ですね」
感心したように先生が言った。
「そういえば、水天宮で番って言ってたけど、なにかあるんですか」
「特に何も。本宮からだいぶ離れたところに神社があるのは知ってますか?」
「ああ……川の下のほうでしょう。ほとんど行かないからよく知らないけれど」
「私もそちらは見たことはないんですが、本宮で儀式があってる間の火の番を頼まれているんです。毎年神主さんがあそこで一人過ごすらしいんですが、この前倒れられて。まだ体調がおもわしくないので誰か代わりに、と思ってもそういうのは毎年毎年若手がいないだけ減っていってますからね。時代ですね。でもまぁ、一応あそこも敷地内ですから壇を作るらしく、私に相談に来られたんです」
「先生はなにかするんですか」
「いいえ。ただ装束を着て、起きているだけですよ。火も焚くし、誰かいないとなんかあったとき困るでしょう? 朝になったら交代の人が来ますからそれまでただそこにいるだけなんですけどね。まぁそれだけだったらなにもないでしょうし……」
と、口を濁した先生に、「へぇ」とオレは相槌を打ち、ふと思いたった。
「オレも行っちゃいけませんか」
先生が驚いたように見た。
「社務所。ひとりじゃ退屈じゃないですか。土曜なら次の日休みだし」
口にした途端、ふと期待に胸が高鳴った。そうだ、一日ゆっくりと彼と話をしてみたい。
語るべきことは尽きない。幻を超えてやっと再会した身体にうち震える喜びも、緑を一瞬にして砂漠へ焼き焦がす恋情も、体温より少し高いお湯にひたるようなまどろみも、浮んでは消え浮んでは消え、あの夢はオレの心に泡がはじけたような飛沫だけ残してまったく静まることはない。
それをわずかにざわめきから遠のいた場所で、薄がりの中でふたり、むかしばなしのように語ってみたい。
いまだ一緒に過ごしたこともない夜の静かな時間を。
先生はとまどったような顔をしたあと、うつむき加減で、アスファルトだけを見てゆっくり歩いた。その横顔は、考えこんでいるようにも、若干焦りを気取られぬようにしているようも見えた。
「だめですよ」
視線を落としたまま、つぶやくように言って、それからようやく彼はオレのほうを見た。
「一応清めなんですから、一人が原則です。それに――神事の際は私の近くにいないほうがいい」
なぜ、と問おうとして思い出す。牧原が言ってたじゃないか。――「おまえさんは見える」
それでもたいしたこととは思わなかった。というより、ほとんど0としか思えない危険性より、彼と過ごす誘惑が勝った。お払いじゃあるまいし、ただの火の番でなにかおきるわけがない。「見える」ものだって、オレに見えなきゃ恐怖も危険もあったもんじゃない。むしろ近くにいて見えるもんなら見せてほしい、と内心開き直った。そうしたら、その場だけでも彼の気持ちがわかるってもんだ。
大丈夫だと言いはったが、まったく彼は意見を翻さなかった。けれどオレもすぐには引かない。あいかわらずあちこちに興味をしめしているシロのほうを見ながら、しれっと言ってやった。
「じゃあたまたまオレが祭りに行って、たまたまふらふらと歩いてたら前に先生がいて、たまたまそっちの神社に着いたところで足が疲れて動けなくなって休むことにしても仕方ないですよね」
「なお……ッ!」
と言いかけ、彼はくっ、と口をつぐむ。けれど言われかけた名はしっかりと耳に届いた。
直江、と。
彼が呼ぶのは、考えごとをしながら無意識にオレを呼びとめるときが多かった。一度指摘したらものすごく動揺してすぐに謝り、サッと朱の走った頬を、片手の甲で冷やすように押さえながら目を閉じたことがある。深く己を律してその名前を意識下に沈めるように。
彼が気にするほどにオレはその名を消し去りたくないのに。むしろ彼に呼ばれるたびに、それが確かに自分の名だと掴める気がした。ひとつずつちいさなことを取り込みながら等しくなっていく。だからかまいませんよ、と言うのに、カウンセリングの妨げになるのか、橘先生は頑なに拒んだ。
「あなたに、押しつける」
……怯える必要などないのに。
だからわざと聞かなかったふりをする。直江、と彼の唇が、忘れた頃にごく自然に呼ぶのをひそかに楽しみ、そのたびにそしらぬ顔で「はい」と言ってるのを彼は気づいていない。彼には秘密と同じだけ己に禁じてるものが多い気がする。でもオレは彼が秘密にしていることを知っていくつか秘密にしているから、これであいこだ。
「だめです」
もう普段の落ち着いた表情を取り戻し、にべもない返事で先生は、
「まったく……。いったい何を期待しているんですか。何もおこらないし、見ておもしろいものなどありませんよ。あなたは高校生なんですから、普通にお祭りを楽しみなさい。辺鄙なところにわざわざ来る必要はない。ついてきてどうしようっていうんです」
強引に話は終わったとばかりに足早に自ら先を行く。少し怒らせたな、というのが脳裏をよぎった予感だ。
さて。立ち止まって、後ろから追いついたシロと目配せしあう。このまま引き下がるか? どうする、シロ。
「ワン!」
だよな、と屈んでシロの頭を撫でた。濡れた鼻先をつついて褒めてやると、オレは顔をあげた。シロの完璧な返事を、先行く背中に言ってやる。
「あなたの犬です」
ぎょっと先生が振り向く。
「なに……」
またちょうどいいタイミングでシロが吼える。
なぁ、と言葉を持たないシロと一度うなずきあって見上げる。
「番犬ですよ」
「……いろいろ間違ってますよそれ」
指で額を押さえて呻いた彼に、こらえきれなくなったオレは、とうとう声をあげて笑った。
ああ、本当に。
勝手に想っててすみません。
2丁目の歩道橋から見る夕焼けが、やけに鮮やかで綺麗だったのを、覚えている。
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