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12)



「にぎやかですねぇ」
「先生、本当にはじめてだったんですか」
 駅から旧街道のけやき並木。古本市が行われている灰色の図書館の前を過ぎたところで、先払いの太鼓がドォンと場の空気を震わせた。
 神社に向かってずらっと立ち並ぶ出店と、それに群がる人々の雑踏が心地いい。イカ焼きやタコ焼きと書かれた赤い出店を、パックを持ったひとびとが寄ったり去ったりして飽かず同じ流れをくり返している。
「……あれ」
 おぼろ月夜が彩るそこはかとない風情の中、祭りに集ったひとたちに揉まれながら後ろを振り返ると、あらぬ方向に押しやられてとまどっている顔が見えた。
「先生!」
 慌てて手を伸ばすと、どうにか指先が仕立てのよいスーツの感触を探りあてた。「困った」というようにこちらに笑っているひとをぐいと引き寄せ、しっかりと見据えた。
「はぐれないでください」
「すみません。ひとごみはどうも苦手で」
 先生がそのままの笑みで謝り、オレは手を離す。背の割にウェイトの軽い体。やや庇うようにオレは半歩先を進みながら、彼がちゃんとそこにいることをときおり確認する。
 のぼり旗の上にぽっかりと浮いている白い月の下で、たぶんどっかの子どもが鳴らした水笛が高く響き、雑踏の中にすぅっとまぎれこんだ。幟旗がはためき太鼓の音が遠く聞こえる中で、彼ははじめて見る光景にうっすらと微笑んでいた。
「結構大きなものだったんですね。ひとは多いけれど街の雑踏とはまた全然違ってて。ぬるい水の中で壁にぶつかってはゆるりと進路を変えて、まるで大きな水槽をまわってる金魚みたいですね」
「この時期は春と夏の行き合いの時期で、厄病が流行る季節だったらしいんです。そこで厄病を抑えるために行われたのが祭りの始まりで――」
 と案内人のようにオレは言った。
 桜の花の散る頃、水天宮にて「鎮花祭(はなしずめまつり)」はある。
 日本の神は、同じ神さまでも別のものと思えるほど極端な二面性を持つ。それが和魂(にぎみたま)と荒魂(あらみたま)。
「和魂は万物をはぐくみ恵みを与える、神さまの優しく平和な側面。荒魂は天変地異を引き起こし病を流行らせるなど、たたり神的な側面。まるでジキルとハイドですよね」
 怒りを静めるためのむせかえる夏の儀式とは違い、今宵(こよい)四月の祭りは明るさと若々しさにあふれる。
 川べりにはかがり火が焚かれ、こうこうと光っている。炎をうつした川は赤く、同時に目を刺す裸電球で黄色くもあるため元の色はオレにはわからなかった。ただ幻ではないことを示すようにコポコポと遠くで排水溝から水が落ちる音が聞こえる。
 すべてを見守る、満月にはまだ一週間ほど足りない月。
 氏子をはじめ油業界や崇拝者から献上された油と灯明による千数百の燈明は、夕刻から深夜にいたるまでともされ境内や参拝者を照らす。その中心にあるのは池ではない。ちいさな橋がかかって運動場のトラックのようになっているが、夜店から遠ざかってただ静かに海へと注ぐために流れる川だ。
 それをぐるりと取り囲むようにして植えられた柳。
 東参道と西参道の敷地は正月の築地市場のようにぎっしりの露店で賑わい、大きな楕円からはずれてまっすぐ奥に伸びた道の先が本殿になる。
 人々の喧騒で聞こえないが、青々とした柳がわずかに揺れていることでゆるやかな風の存在を確認できた。ここは祭りのために桜を植えていない。花の散ることと疫病の活動が関係あると考えられているからだ。
「昔から桜の花は、稲や麦の花の象徴だと考えられていましたからね」
 と先生がやわらかい目の色で言った。
「桜の花が散る姿に、穀物の花が散って不毛になる前兆を見たんでしょう」
「ああ、そうか。確かにそんなにいっぺんに落ちて大丈夫かってぐらいはらはらと散りますよね」
 作物と病気を直接関連づけるのは、昔のポピュラーな考え方だ。
「そんなに散り急がないで。と謡いながら、そのあいだに囃子(はやし)と踊りで疫病神を送り出してしまうんですよ」
「来たことないのに詳しいんですね」
 と感心すると、
「鎮花祭は昔よくあってましたから」
 と先生は言った。あ、そうなのか。と恥ずかしさに頬が少し熱くなる。そんな素振りも見せずにオレが話すのをずっと聞いていたのかこのひとは。
 それなら言ってくれればいいのにと呻くと、
「なんだか、懐かしくて」
 とオレを見て笑った。ああそう、だからぼーっと聞いていたってわけだ。
「先生が子どものときですか?」
 初め先生はなんの質問かわからないという顔をし、ややしてさっきまでの会話を思い出したように、
「いいえ」
 とゆるく首を振ってみせた。「もっとむかしのはなしですよ」
 その言葉に呼応するように、再びどこからか尾をひく音がオレの鼓膜に届いた。
 懐かしく。
 記憶を呼び起こすように、ゆるく遠く。
「笛――」
 ふたつの心が同時にぶれる。
 とっさに記憶の中の姿を追うと、音は急激に遠ざかり、クレープやりんご飴といった、いかにも幸せそうな匂いに変わってしまった。
 香ばしいイカ焼きの匂い。
 別のソースの焦げる香り。
 テキ屋のハキハキとした口上。運動会のテントのような下、お好み焼き、焼きそば、たこ焼きの三大粉もので仲良く夕飯を取る親子や学生たち。イカ焼きと一緒に売られている貝の串焼き。
「海産物が多いのはやっぱり日本人が魚介類好きだからなのかな」
 と先生がつぶやく。
「あ、サザエのつぼ焼がありますよ、買ってきますか?」
「どっちかというといまは魚のほうがいいですね」
「魚……ってあるかな。うわ、いまあんなのもあるんだ」
 綺麗に仕切りで三色に分けられたかき氷を、驚きながら通りすぎる。
 ひときわ華々しいキャラクターの綿菓子。口のなかであふれながら溶けるあれは、家に持ち帰ろうとしても着いた頃にはちいさくしぼんでしまった。幼心にも、その日かぎりの縁日のはかないにぎわいのようだと思った記憶がある。
 懐かしい雰囲気を残しながらも、しっかりと時代の空気を受け止めてたくましくそこにあるものたち。
「あ、すみません。ちょっと」
 と、植木や盆栽の並ぶ店で先生は歩調をゆるめた。
 せわしなくひとが入れ替わる出店でもここだけは例外らしい。お年寄りたちが鉢植えを一個一個のんびりと大切に選んでいる。こういうのが好きなハルおばあさんの姿を思い出し、ちょっと探してみたがいなかった。
 子どもの頃にはどうでもいいのでまったく見向きもしなかったが、こうして見るとみんな生涯の伴侶を選ぶかのように楽しそうだ。裸電球の下で、それぞれの笑んだ顔の皺がやさしく照らされている。
 にぎわいから遠いところで家でひとり育てる植物を選ぶ。それをさびしいこととは思わない。もの言わぬ植物から確かな生命力を感じれるなら。
 気づけば完全に先生は足を止めていた。
「なにか気になるのが?」
「うーん……いくつか。でもいま買うと荷物になりますからねえ。これから暑くなるし、庭の水遣りだけにしておきましょうか」
 それでもせっかくだからと、先生はすでにいくつか実がなっているちいさなイチゴの鉢を買った。うっすらと赤い実が白くてかったビニール袋から美しく透けて見えた。
「おまたせしました」
 ゆるやかな流れへとふたたび身を投じる。
 「悪をもって悪を制す」――その言葉どおり、強力な神への信仰を示す豪華な山車や軽快な祭り拍子はここにはない。盛大なかけ声で、神と対立する精霊を追い払おうとする夏祭りと違い、春の祭りはどことなく自然とともに穏やかにみんなで過ごそう、みたいな雰囲気がある。強引ではなく、ひとりひとりの身の奥から普段は沈んでいる高揚感を静かに湧きおこしていく。
 そしてオレも例外ではない。その感情が、いま触れるほど近くにいるひとに端をなすものだとしても。
 と、その相手が止まった。
 どうしたのかと見ると、先生は川べりにしなやかに揺れる一本の柳をじっと見つめていた。通行の邪魔をしているオレたちの横を、水のようにひとびとが避けて流れていく。
「どうしたんですか?」
 声をかけると、先生は意識を木にやったままゆっくりとこっちを振り返った。同時に横を通り過ぎた親子連れの不審な目に会い、二、三歩人混みから外へ離れた。オレも倣う。
 気がかりなことでもあったのか。オレは川のほうを見、やっぱりなにもないことを確認する。
 その横で先生が感覚を研ぎ澄ますように眼を細めた。
「先生? 大丈夫ですか?」
「大丈夫……悪い『気』はしませんから。少しあてられただけです。たぶん前夜祭で清められたモノたちの残片なんでしょう」
 正直に答えてくれた内容に思わずオレは黙り、次の瞬間、そんな態度に彼を傷つけやしなかったかと慌てて口を開こうとした。
 それを見透かしたように先生はすぐいつもの微笑を浮かべる。そっとオレの背に手をやり、
「神社に行きましょう」
 とわずかにこめた力と視線でうながした。
「つれていって?」
 語尾をあげてほんの少し首をかしげる彼に、どうかしてると思っても甘さを感じてしまう。
 ちいさく誘いをかけることで、さりげなくこのひとはあらぬものから注意を遠ざけたことになる。無自覚に一番オレを惹きつける動作を完璧に選んで。
 また上をいかれる。先まわりされる。
 そう考えると、苛立ちと、ちりつく熱が体の奥にともる。自然にオレを雑踏という日常に押しやった彼。どこまでも笑いと会話のやまない人々と対照的にひそやかに並ぶ川べりの柳の間で、両方の世界を知っている人間はオレを守るように闇にうごめく異物をその背中で遮断していく。
 必要ないのだと。
 あなたは知らなくていいのだと。無言で首を振られた気がした。
 冷たくはない。けれどそういうときの先生は、冬の星のように澄んだ光を放っている。
 静かな祭りのようにぽうっと灯った熱は、温めるべき対象を見失って完全にさまようだけになった。歩きだしたオレの手に下ろされた先生の手がたまたま一瞬触れてすぐ離れた。その肌はなめらかに冷えていて、その温度を保ったまま毅然とすべてを拒んでいる。
 いきなりこの手を掴んでやったら、彼はどんな顔をするだろか。
 湧きたつもどかしさを押しとどめるのに、ひどく努力を要した。
 ――いいや、かまうものか。
 いくらでも惑わしつづければいい。その眼でオレをたぶらかし、体温の冷たさで容易に触れてくる手を遮断したらいい。
 どんなにひとが多くてもなぜかわかる気配を感じながら、彼の手が触れた皮膚を、オレは慈しむようにそっと指でなぞった。




「やるねぇ、兄ちゃん」
 テキ屋が吹く、吹けていない口笛。
 てめえの葛藤なんぞ知ったことかと言わんばかりに、弾丸となったコルクは目標を撃ち取りざらついた地面に落とした。うらやましいほどまっすぐだ。テキ屋が砂をはたき、キャラメルをくれる。
 くじの景品は時代をぴたりと反映してるのに、射的やダーツなどの商品は時代遅れのものが多くてなぜなのかちょっと謎だ。
 夜の手は、季節が変わると魔法を使う。
 ひらりひらりと舞うように辺りを薄暗くしていくけれど、押しつぶすように濃く塗り潰さないやさしい魔法。提灯や出店の明るさが際立ってきたことで、ああ夜になったんだな、と逆に認識するくらいだ。
 それくらいに春の闇は曖昧で空より川のほうが暗く、ところどころ海辺の灯台のようにオレンジの光をちりぢりに映していた。
「うまいものですね」
 と感心する彼に、オレは夜色の銃をさしだした。
「私もですか?」
「慣れるとけっこういけますよ。台のたてつけが悪いとか、銃に変なくせがついていないかとか弾は軽くないかとか。一つ一つ見極めていくと、狙ったものは大概撃ち取れます」
「腕だけの問題かと思ってました」
「言うのは簡単ってな。えっ、どうだい黒い兄ちゃんも」
「そうですよ、ほら」
 テキ屋の声に便乗してオレは強引に握らせる。先生は受け取った鉄砲を扱いあぐねるようにいじった。適当に構えてみせる。銃身より黒い髪をばさりと一度降って、でもすぐに下ろした。標的を見つめ、細められていた漆黒の眼がもとに戻る。
「当たりませんよ」
「やるとおもしろいですよ。ね、一回だけ」
「……じゃあ一回だけ」
「毎度! がんばってなー」
 小銭と引き換えにコルクの弾が三つ、金属の小皿に乗ってきた。
「なにか欲しいものはありますか?」
「いいですよ無理しないで。先生が好きなので」
 テキ屋のオヤジの注意が、クレープを口にしながらぬいぐるみが欲しいと笑うカップルのほうにいったのを見て、そっとささやいた。
「というか、射的で欲しいのなんてめったにありませんから」
「そうですね」
 先生はコルクをつめながら、「ちがいない」と笑った。
「じゃあ、なにか当たったらあなたにプレゼントしましょうね」
「なにがじゃあ、なんですか」
 そして飛んだ弾は、見事に全部外れた。
「ひとに押しつけようとするから」
 オレの苦笑に先生はこめかみを押さえた。
「銃は苦手なんですよ」
 そう言いながら、案外負けず嫌いらしい。三度目――つまり九個目にしてようやくちいさな箱を木棚から落下させるのに成功した。
「おっ、兄ちゃんこりゃ当たりだ。見てみぃ、割れるから中身入ってねぇだろ。これが景品」
 赤ら顔のテキ屋は首元をタオルでぐいと拭い、「ほいっ」と中身をつめた箱をくれた。
 先生は自力で手にいれたのが感慨深いのか、けっこう長いあいだそれをじっと見ていた。
「どうするんですか、香水なんて」
「これはメンズですよ」
「そうなんですか?」
 よく知っているもんだな、と感心していると、先生はちいさな箱を胸ポケットにすべらせた。
「あれ、くれるんじゃなかったんですか」
 さして期待もこめずにオレは聞いた。
 まだ明るさを残す空に、ぼんやりと見えはじめた月。それを従えるようにして先生は口端をあげた。
「気が変わりました」
「え」
「あなたにはまだ早い」
 非難めいたオレの視線を大人の余裕で受け止めながら、ますます彼は笑みを深くする。覆い隠すように胸ポケットに手を置いた。――そんなことしなくても取りはしないのに。
 オレが見てみたいのはその奥のものなのだから。
 我ながらバカなことを考えている。そう思いながらオレは「じゃあ、先生こっちです」と歩き出した。







「acepe」前編・終

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