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14)
口にしてからその事実に気づき、少し皮肉気に笑った。
なにに遠慮することもなく、どこまでも相手を求めて手を伸ばしあったあの二人に……そう、オレは。小金色の夕暮れのような畳に爪をたてた。
やっぱり少しは酔っていることを自覚しながら、言葉がぽろぽろあふれ出た。
「あんな風にだれかを想い続けるなんてできっこない気がする。でもそれが本当なんじゃないですか? あんな何百年も生きてるのに比べたら、オレたちなんてほんの短い人生だし、あの長いあいだ、『オレ』にはあのひとしかいなかった。それはあのひとだって同じだった。あんなものを見てしまったら、ごまかしながらだれかとつきあっていくなんて不可能じゃないですか。こんなに欲張りになった気持ちは、無意識に高望みして……きっとなにも知らない相手も傷つける」
それとも、いつかオレも考えなくなる。
焦りも憧れも遠くしりぞいて、川の流れにそうように誰かとつきあったり結婚したり子どもを作って家庭を築いたりして。夢よりも遠い未来。
わかっているのだ。あれはただの夢だと壁越しに見つめ、比較せずたまに感じる息苦しさをやり過ごせばふつうに生活できることに。
それでも、オレはまだ違和感の沼で溺れている。
「培ったものを二人の歴史というなら、コースの短いランナーはどうしたらいいんですか。本当にゴールがあるかわからない、はるかに遠い道だからこそひとりじゃいられない。……オレはずっとあの背中を見つづけてきた。けどいまここにいるオレは違う。無難に歩きつづけていればいつかはすぐ終わる中で、あそこまでだれかを求めつづけるなんてたぶんできない。あんな気持ち、ぜんぜんわからない」
ずるい、と思わず掠れた声が出た。朝目覚めたときの言いようのない感情。
「気持ちばっかり押しつけて、見せつけて、いつもすぐ消えていく。なんだあれ。なんだあの夢。オレは泣いてただ残っていくばかりで。だれにも本気になれないで。もしかして人間として劣ってるんじゃないかって、そんなことまで考える……」
なにが言いたいんだ。おまえたちはなにをオレに伝えたいんだ。
長い年月を得て少しずつ変化していったあの考え方、生き方、歩き方。
傷つけあい、それに後悔と息苦しさを感じているのにやめられないのは、彼らが人間だからだ。
そのことにどれだけ罪悪感を感じようと、どうしようもなく哀しいくらいに生きているからだ。
ここにいる自分も含めた大半の人間だって「そう」だろうに、なぜ彼らのようになれないのだろう。
やはりあれは夢でしかないんだろうか。だとしたらそれに虚しさを感じること自体がおかしいのだろうか。オレのやるせなさを感じとったのか、静かに聞いていた先生が、
「大丈夫」
と、そっと眼をふせた。
「あなたはひとを愛せるひとだから。どんなに不器用でも見苦しくても、まっすぐに、愛しい相手に、全身でそうだと伝えるひとだから」
あなたは、というところに必要以上にひっかかりを感じ、
「先生は?」
ぽろりと言葉が出てきた。
「だれかを愛したことが――?」
愛した、なんて口にしたのは初めてだったかもしれない。
まるで口説いてるようじゃないか、とオレは言ったあと自分でひどくとまどった。
普段ならぜったいに言わない。というか言えないだろう、こんな強くて口にするだけで怖い言葉。半端に使えば薬の味とざらざらした粉っぽさだけ残す昔の駄菓子に似ている。舌に乗せただけでぴり、と違和感だけ残して薄っぺらく消えていく高潔な言霊。
「愛した……」
つぶやきが響いた。視線を落としたまま、そしてゆっくりまぶたを下ろした彼の態度でおぼろげに答えはわかった。
――あ、そうか。
胸の奥に一点、深海のようにシンと冷えた空虚を感じ、もういっぽうでああなるほどと、どうしようもなく納得している自分に気づいた。
他人を愛するということは、ひとひとりを受け入れるということだ。それだけ広くなった世界だから飲みこまれていく気がするのだ。なんだ、かなうわけがない。となにかを大きく投げ出したい気になって、けれどすぐ思いなおした。
振り向いてほしいわけじゃないんだ。
――間違えるな。
自分に言い聞かす。
オレが追いつきたいだけなんだ。
だからいまはまだ、その広い部分に甘えてしまわないようにするしかないんだろう。彼が想うだれかに――
そう、嫉妬などしてる間もなく。
「ひとを、愛せることを教えてくれた」
ちいさな返答にハッと胸を突かれたのは、同じだからだ。
そうだ、知りたいのはだれかに愛してもらえるかじゃない。
自分が違う遺伝子を持った他人を愛することができるかなのだ。
「長い時間をかけて。猜疑心と自己防衛の固まりの人間に、どこまでもひたむきに、ときどきこちらがひるむくらいのまっすぐさで。疑って疑って疑いすぎても、もうはっきり間違いようもないくらいの強い眼で、そのひとは」
肩に緊張を乗せまま、先生は少し笑った。
「それに応えることも逃げ出すこともできない自分がもどかしくて、傷つけてはどうして自分はこうしかできないんだろうといつだって情けなかった。けれどもうしかたないのだと、それよりもっと大事なことがあるんだと、意識を変えようともしなかった。……けれど結局そのままではいられなかった。私は、そう、負けたんです」
もしかしたら一番嬉しかったのは、もらったどんなものより自分が言った「愛してる」。
「それに気づいたとき、まだ自分は生きていたんだと呆然としました。自ら口にしたのが最初信じられなかった。自分でさえとうに放棄して忘れかけていた感情を、そのぬくもりと激しさで叶えたんです。愛してくれただけじゃない。愛するという気持ちを、与えてくれた。感謝なんて言葉じゃない。どれだけの時間をかけても、もうだれにもできないくらい凝り固まったものを、染め変えてくれて、解き放ってくれて」
ありがとう――と。
「伝えたんです。心の中で……もう何度も」
「見てみたい」
とオレは言った。
「なにを」
「先生の、愛し方を」
言ったところで、いつものように微苦笑されて終わるかと思ったら、ふと向けられた目は笑ってはいなかった。なにかを訴えたくて、でも踏みとどまっている。そんなかんじだ。
ほんのわずか、振られた首。
くしゃりと泣きそうにゆがんだ顔。
「駄目ですよ、私は」
「どうしてですか」
「すべてを奪い、すべてを壊す」
ためらいなく先生は言い放った。毅然さに思わず息をのんだほどだった。一瞬揺るぎそうになった心を持ち直し、だからこそ対抗しえるだけの強さで、オレは今度は本心から言った。
「それでも。知りたい」
夜の海のような深い眼球をじっと見つめた。
その眼。最高級の陶磁器のように蝋燭に照らされている手触りのよさそうな肌。導かれるように指が動く。欲しいものを求めるままに。このままでいると予想もつかない行動にでそうだった。
「先生」
ほら、呼ぶだけで魂が溶ける。浮きかけていた手を、かろうじてグッと畳に押しつけた。
「いまオレの周りには、必要以上に死に怯えることも、自分から体を傷つけに行くことも、焦がすような熱情を保たないと自分が崩壊するような状況もありません」
「……ええ」
「それでも、あることだけは知っているんです。目に見えないだけで。名のつかない、体温よりほんの少し高い熱を持ったものの存在を、オレはたぶん知っている」
だから求める。
戻れないなら前に進むしかない。何億という命からたったひとりを見つける可能性を諦めるなと、オレの嫉妬と安堵を受けながらあの夢が強く信号を鳴らすのだから。
「バカバカしいくらいおかしな話だけど、……オレはときどき、彼らが『生きてる』って思うんです」
ずるいと詰るいっぽうで、そんな綿菓子のような想像を捨てきれない。祭りが終わっても、白くて甘い雲はいつまでも萎まずオレの中に残る。
「夜、ひとりで道を歩いているときに、ふと見上げたアパートにぽつんと明かりがついているのを見たとき。そこには確かにひとがいる。ふと自分はひとりじゃないと思える」
それは、そんなことを考える自分のさびしさに同時に気づくことでもあるけれど。
「少しだけ心の空いた部分が埋まる気がする。それに近い、なんだかたいせつにしたい気持ちなんです」
『存(い)る』『在(あ)る』――姿は見えずとも。
「気づけば街のあちこちに彼らの面影を探している。自分の行動の先を答えみたいに聞いている。ときどき心が重なるように同じ風に吹かれて――そんな澄んだ気持ちになったら、ひとりを探し、求めつづけるのも最上の在り方なんじゃないかって思ってしまう。似合わない子どもみたいな戯言なのかもしれないけれど」
けれど本当に困るのは、そんな夢を捨てきれない自分がいやじゃないことだ。
「錯覚や妄想かもしれない。きっとそうだと思う。それでもほら――」
オレは自然に笑った。
「しあわせなほうがいいでしょう?」
「acepe」前編・終
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