acepe


15)



 この言葉に嘘はない。オレは先生に嘘はつかない。
 つかないでいられることを、幸福だと思った。
「いいですよそれで」
 と先生は穏やかに言った。
「ゆっくり成長しなさい。もったいないから」
「もったいない?」
「いましかできないことでしょう。けして数年後に冷めると言っているわけじゃありません」
 まっすぐ信じることができる、その気持ちそのものがいまのあなたのすべてならば。
「真に大人になるというのは、適当なところで折り合いをつけれるようになることを言いません。自分の力を持つことです。夢を自分の手でさわり、確かに現実で動かす力を得ることです。なににぶつかって角を軟化させてもいいから、自分にだけは妥協してはだめです。想いを恥じることだけはしないで。ここまできたんならいっそ貫きなさい」
「妥協するな、ですか」
 ひとが聞けば一笑に伏すようなロマンチズムを否定せず、かといって軽々しい口先だけの肯定もしない。さすがだ。たわいない一言で人を楽にさせる。
 なんだか気持ちが軽くなった。かなわないな、と苦笑する。そうだ、どこかで勝ちたいとかじゃない。全部だ。全部でこのひとに追いついて。
 そしたら、守るから。
 がんばって、オレはまだ大きくなるから――大きくなる。
 その表現自体が子どもじみてて赤面ものだが、まあいいだろう。いろんな場所であなたを包めるぐらいに。オレは、絶対に力を得る。
 だから見ててほしいと願う。
 見られることに恥じないでいるように。
「ねぇ、先生。変なこと聞いていいですか?」
「どうぞ?」
「そうやって見つけた大事なひとがいるとしたら、先生はなにを望みますか。大切なひとに……なにを託しますか?」
「なにを……?」
 と先生はとまどったようだが、すぐに、あ、という顔をした。「前に同じようなことを妹さんが」
「そう。オレも聞かれたんです。アイツいわく、オレとは違うらしいんですよ、先生の答え。でも教えてくれなかったから。だからなんて言ったかオレに聞かせてくれませんか?」
 先生は少しためらうような間のあと、
「幸せになってほしいと」
 わずかに動揺を含みつつ、揺れる瞳で言った。「妹さんには違うって言われましたけれど。本心じゃない、と。でも私は家に帰ってからずっと考えても、これ以上なにも思いつかなかった。私は――なにか間違っていたんでしょうか」
 ああそうか。
「オレも先生とだいたい同じですよ。けどオレは」
 いったいなんだと聞いたら、今度先生に同じことを聞いてみろと思わせぶりに肩をすくめて笑ってみせた妹。
 いまならわかる。
 あのとき思い浮かべた相手の顔をしっかりと見つめながら言った。
 そう、聞かれたときオレが一瞬にして辿りついた答えは――

「オレが、幸せにしたい」

 うなずくことも、微笑むことも、先生はどちらもしなかった。
 ただ、驚いたように丸い目でオレを見つめた。
 オレはまっすぐ奥を見つめ返す。
 窓の外で風が出てきたのが耳にわかるほど、オレたちはなにも言わなかった。
 息さえも止めたような長い静寂のあと、やがて雪が溶けるようなやわらかさで、
「……まいった」
 という声がふっと漏れた。
「あなたは、やはりそう言うんですね」
 微笑み、うつむいて片手で顔を覆う。
 ひとりはいやだ。じゃなくて。

―― ひとりにはさせない、って言うんだね。お兄ちゃんは。

「あなたからは成長する匂いがしますね」
 そう言って、先生が立ち上がった。「――……酔いそうだ」
「え、大丈夫ですか」
 ちょっと慌てて問いかける。先生が振り向いた。悲しげで愛しい眼をふせた表情が、灯りのせいでやわらいだような、それとも逆に影が差したような、不安定なバランスの上に成り立って見えた。笑顔なのにさびしさを感じさせる、そんな間があった。
 オレの心の底から急激に込み上げる強い感情。
 このひとを護りたい。
 だからオレは聞いた。もう聞かずにはいられなかった。
「先生教えてください」
「なにを」
「そのひとが、不安になったりさびしくなったり、ひょっとして孤独を感じているとき。オレはなにをしてやればいいですか」
 風が強くなって窓がカタカタと揺れた。
「わけてください」
 窓を背にした先生は、紛れこませるようにそっと言った。
「ただ、分けてあげてください。あなたの中にある熱を。そのひとにはきっとそれで――十分だろうから」
「誓います」
 間髪入れず返した俺の強さに、彼は驚いたようだった。
 同時に、あの夢でよく口にされた言葉がふいに口をついて出たことにオレ自身もとても驚いていた。
 誓う、なんて。
 ドラマじゃあるまいし。どうも毒されている「あの世界」に。
 でも言葉にした瞬間、真剣さを伝えるにはこれが一番ふさわしいような気がした。いいだろう。本気で言えるなら、二人きりのこの夜に使っておくのも悪くない。
「なにに? ここには私しかいませんよ」
「じゃあ、先生に」
 先生はオレが言外に含めたものにそっと触れ、
「もう私は、なにかにつけてだれかに誓わせずにはいられない――そんな子どもじゃありませんよ」
 強がったようにも、痛そうにも取れる顔で微笑んだ。
 この人は――。
 瞠目する。せつなさが、オレの胸の弱い一点をゆっくり押した。
 決意を言ってみせないと駄目なんだろう。不器用で綺麗で哀しいひと。孤独を本当に嫌ってるくせに、でもひとりで生きることができてしまうひと。同時に、不器用なんて言葉で甘くなぐさめられるのを喜ばないひと。
 酔っていると彼が言うなら、いつだってオレも酔っている。目の前の存在に。
 触れた瞬間、足元を浸す甘美であらがえない波にぞわりとつれこまれそうになる。酔わせるどころじゃなく、まるでこのまま溺れてみろ、と誘う。絡んで侵していく。
 見るものを無意識に惹きつけずにはいられない外見と全身から滲み出る冴えた雰囲気を持ちながら、その核にあるのは実は乾いたゆで卵みたいにパサパサした猜疑心の固まりだ。彼は飢えている。求めてしまっている。もうどうにも手遅れな死んだ細胞を、散らばすことなくこねなおしてパン生地のようにまたひとつに温めてくれる奇跡の手を。
 けれどいつもみんなつややかな表面だけで満足して恐れて中に踏み込んでこようとしない。ふぬけた者を浅く笑い、やはり世界には愛なんて存在しないのだと天へと仰のき、叫ぶ。やがて哄笑の対象は、求めることを止められない自分自身へと変わり、だんだん自分が本当に求めているものがわからなくなっていく。
 超えろ、と念じる。
 どうかオレに勝ってくれ。この疑念を思いきり砕かせるなにかで。怖くてたまらないから誓ってほしい。
 砕ければその瞬間、自分の足元は崩れる。
 生きていくためにそれは許可できない。獣が自殺できないように、オレはオレをやめるわけにはいかない。
 だからもう自分じゃ「自分」に勝てないから。
 オレに勝ってくれ。
 どうしても負けられないから、どうやってもオレじゃないおまえに、勝ってほしい。
 味あわせろ、敗北を。抱きしめろ、敗者を。嘲笑え、勝利を。誓え、復讐を。叫べ、怒りを。絶対に許さないから。
 どこまでも矛盾した思いに咽(むせ)びながら手を伸ばす。
 絶対に、オレは負けないから。


――おまえだけはオレに勝て!

「!」
 ハッと顔をあげた。
 いま、だれの声が聞こえた……?
 膝で握った拳にじわりと冷えた汗が滲んだのを感じながら、ふっと肩から力を抜いた。つぶやいた。
「誓わせられるのは嫌じゃないんですけどね」
「え? なにか言いましたか?」
「あんまり強いとかわいくないですよ」
「おや。あなたは私にかわいくなってほしかったんですか」
「え……、と、それは」
 むむ、と思わぬ切り返しにちょっと真剣に考えていると、先生は薄く笑って背を向けた。
 少しして、ふと古びた旋律が鼓膜に掠れて届いた。外の火を見ていた先生の喉からだ。
「それ。なんの曲ですか?」
 と聞くと、先生はいま気づいたというような顔をして窓を閉めた。
「私、唄ってましたか?」
「はい」
 首をかしげた。彼自身、あまりよくわかっていないようだった。古い曲だとだけわかった。古いが古びてはいない。それでも、いい曲だと思った。
 わずかな畳と古臭い埃の匂いに蝋燭の火だけが灯って、光と光がほたるみたいに結びついてふわりと昇っていく。ひとけのない、静かなこんな夜によく似合った。
「オレもあの夢を見ているとき、ずっと耳の奥で音がするんです。なにかの音楽にも似た。それに近いかな、と」
 居心地のよさにまどろみかけて、つい吸うものを求めて無意識に上着へと指を入れた。
 と、当たる固い感触。
 あ。
 ここにきてようやく、オレはハッと今日やらなければならないことを思い出し、そのまま上着のポケットから指二本分の白くて小さな包みを取り出した。あぶない。よかった、気づいて。
 畳の上にそっと指の腹で滑らせた。
「先生、誕生日おめでとうございます」
「……あ、私に? ありがとうございます」
 驚いたように先生は言葉に詰まり、開けてもいいかと目で聞いてきた。オレはうなずく。
 燭台の下で見る金色の絵屏風のように、不安定に光を放つちいさな装飾具に彼が目を細めた。人工の光がいっさいない部屋で細い火に照らされたタイピンは貴金属というよりも手垢のついてない新雪を思いださせた。
 おずおずとつまみあげ、しげしげと見て手触りを確かめる。
 こそばゆそうにすみずみまで丁重に見ていた手と視線が、ふと吸いよせられるように裏側で止まった。
 先生が大きく目を見開くのを認めてからオレは口を開いた。
「先生へ――って、ことで」
 簡潔に刻んでもらった英字を、彼は気にいってくれただろうか。
「……橘、先生?」
 なにも言わない彼に心配になり声をかけると、ハッとしたようにこちらを見た。
「……そうですか」
 と言って、先生が握りしめる。ピンの冷たさを肌の温度に近づけるように。
 そのままネクタイとシャツに手をかけた。流れるような動作で、ピンがおさまるべき場所におさまる。
 とどめるように、胸に手をやる。
 宣誓のような姿勢のまま、ちらりとオレに視線をあげた。
「私だけのものなんですね」
 その表情を引きだせた自分を誇らしく感じた。光っているピンと同じ場所が、オレの体でも熱くなる。
 これからもこの気持ちは、ちいさなちいさな光となって、オレの内部に灯るのだ。それに導かれるようにして、無意識に「先生」と呼ぶと、
「ん」
 と彼は極上の笑みを浮かべてみせた。数分前の揺らぎも不安もなく、陽だまりのように満ち足りた顔で。
――いまなら。
 なんてありふれた……そしてひとつしかない想いなんだろう。唇が震える。告げることが許されるだろうか。報われることはないとわかっていても。心臓が早まる。
 その笑みに吸い寄せられるように、たまらず言葉がオレの喉をすべった。
「先生――」
「すんませーん! お待たせして――」
 あふれ出そうとしていた言葉を抑えるのに一瞬身動きがとれなくなった。ガラリと大きく戸が横に開き、ざわざわと騒がしくなった外の音が遅れて耳に入ってきた。
 聴覚が戻り、つづいて視覚が現実を認めたところでオレは我にかえる。
 声を発した男のほかに何人もの人影がいきなり増えていた。その笑い声や足音に紛れてオレは咳払いをして、喉のつっかえをいくども胃へと叩き落とす。
 あぶない。
 本当に、思いきり理性が削りとられてた。
 水垢離を終えて戻ってきた彼らは、蝋燭だけが灯る暗い部屋と、橘医師の他に得体の知れない人間が居座っていたことにぎょっとしたようだった。
 どうやらそれが高校生だと認めたところで、露骨に顔をしかめてみせる。まずい。
「だれだ、おまえ」
 非難の視線をはっきり感じて、オレと先生はとっさに顔を見合わせた。
 そして、

「――従兄弟です」

 意図したわけでなく重なった声に、一瞬場はシン、と静まった。
「……そう、か」
 なにもそろって返さなくても。とまどった彼らの顔に、おかしさが心の底からこみあげて口端がゆるんだ。
「はい。すみません、お邪魔してます」
 視線を交し合う彼らに隠れたところで、先生とこっそりこづきあいながら、このときオレは信じていた。
 必要ならば、きっと自分は持っているすべてをこのひとのために使えるだろう。
 押さえきれずに背中をくつくつと震わせた含み笑いのように。
 なんの不安も、疑いもなく。幸せに――

 まだ、信じていたんだ。



「acepe」前編・終

 (14) / 16