acepe


16)




 空には灰色の雲がかかっていて、明るく光る白いほうへとなぞっていくと冴えた月へ到達する。その下にオレたち二人と一匹。
 ざく、ざく、と、石まじりの固い地面が鳴る。淡い夜にほんわりと響く鳩の鳴き声。
 ときどき落ち葉を踏み割る感触を足裏で感じながら、オレたちは神社の裏手から川へと向かった。
 手にはリード。つながれているのはシロ。
 欠けた石灯籠を過ぎ、柵を越えて(シロはくぐった)、ガードレールもない舗道に出てからしばらく八本の足は月あかりの下をひたひたと歩く。
「まだ先でしょうか?」
「もう少ししたら大きな橋が見えてくるのでその下。そこでやってるって聞いたことがあります」
 オレの答えに添えるように、「ウォン!」とシロが吠える。
 どうしてオレたちがこうしているのか。
 それは少し前。
 もともとは、この犬の行動にことを発することになる。





 もう九時もまわった頃ようやく本殿に戻ってきたひとたちに、
「ずいぶん遅かったんですね。水垢離は終わったんですか」
 先生は聞いた。すると彼らはなにやらすっきりしない顔を見合わせ、一応終えたことは終えたと答えたのだが、
「ただ、シロが吠えるんだよ」
「シロ?」
 どうしてここであの犬の名前が出るのかと聞き返すと、開けっぱなしの障子から見知った白い毛並みが見えた。そういえば彼らにまじって、町内会長の姿も。
 すこし前、挨拶をしてまわっていた会長は一緒についてきた愛犬がひどく河原へと興味を示すのに気づいたのだという。挨拶もそこそこにぐいぐい手綱を引っ張られるままにやってくれば、ちょうど水垢離をやっている途中。これは邪魔をしてはいけないと早く立ち去ろうとしたのだが、シロは手綱を振り切り一気に土手を駆け下りるとその輪の中へ踊り出し吠えちらかした。それも尋常じゃなく。
「空中に向かって、まるでなにか追い払うようにさぁ。あんまり吠えるもんだからこっちもなかなか進まなくってねぇ」
 ずっと暴れるシロをなだめ押さえるようにして、会長たちはようよう帰ってきたのだと言う。
「犬は犬なりに、神さんの降臨みたいなのを感じとったのかもしれんなぁ」
 橘先生は笑わなかった。ふと厳しい顔をしたあと、
「すこし気になりますね」
 と口調だけは穏やかに、だいぶ暗くなった外を見つめた。
「すみませんがシロをお借りしてもいいですか。ちょっと見てきます」
「あ、ああ。それはいいが」
「オレも行きます」
「あなたは駄目です」
 と言って彼はすぐオレの目に潜む無言の主張に気づいた。そのままため息をつく。
「……と言ってもついてくるんでしょう」
「はい」
 当然引く気などない。
「わかりました。一緒にいらっしゃい」
 と靴を履いて外へ出て「シロ、シロ」と呼んだ。
「このままじゃ次はドーベルマンとか言いだしかねない」
 つぶやきを聞かないふりしてオレも靴紐を結び、あとへ続いた。




 河原の横の舗道に戻ってきてもシロはもう吠えなかった。どうしたのだろう。
 やっぱりなにかの間違いだったのかと拍子抜けしたオレとは逆に、先生はわずかな緊張を解かなかった。シロの視線をなぞって海へと向かう川の下流へと顔をむける。
「移動したみたいですね」
 移動? なにがと問う間もなく、
「ここで待てますか」
 聞かれたシロは黒目をくるりとまわし、体を沈めて伏せをした。いざとなったら自分で戻れるのは飼い主の保証つきだ。
「そう。ありがとうございました」
 膝を曲げてきちんとリードを道路に置く。理解したように大人しく動かないシロの頭を誉めるように一度撫で、先生は立ち上がり姿勢を正した。
 ふっとオレを見据える。
「行きますよ」
 反射的にうなずいたオレを確認して走り出す。
 街灯もない土手のアスファルトは足元などほとんど見えず、オレは彼の背中だけを頼りに走った。
 タッタッタッタッ。
 タッタッタッタッ。
 足音が重なる。ついてくるのを信じているようにその背は振り向かない。それでいい。わずかに安堵と感謝を感じている己を自覚した。
 信じて進めばいい。絶対に離れやしないから。
 なにかが起きる予感を感じながら、それにしても、と息をあげながら感心する。
 なんでこの暗闇で、迷いなく走れるんだこの人は?
 答えはすぐ出た。たぶん闇を恐怖と感じないから。自然すべてを怖がらないから。
 世界を受け入れる姿勢をいったいこの世で何人が貫けるだろう。あまりに大きくて得体の知れないものには蓋をしたり、わざわざ視界を曇らせたり縮めたりする。そうしてようやくすこしだけ安堵する臆病な人間が大半だというのに、先生は違う。怖いけれど本来の姿をいこうとしている。心が熱くなる。
 彼という光を追って、昼とはまったく別の姿を見せる川沿いを結構な距離走ったとき、ふとオレはあたりの異様さに気づいた。
 なにか得体の知れない情動を感知する。

――なんだ……?

 音がすべて絶えた世界のように、異様なほどの緊張感がみなぎっている。なにより空気の密度が変わった。走りながらもじっとりとした汗がいくすじもこめかみを流れて、復讐の前夜みたいに心がざわついた。
 冥いものが蠢き、潜んでいる。
 予想もつかない流れが自分たちの前に姿をあらわそうとしている。
 川にかかる大きな橋のところで先生は止まった。目が慣れてきたのか、月あかりでオレにもうっすらと辺りが把握できる。
 ドドドド…と幕を手で振り払ったように、突然鼓膜に届いてきた音は、流れが早くなった川のようだ。なぜ。さっきまでなにも聞こえなかったのに。
 川はまったく異質なものへと変容していた。
 水銀か重油をたたえたような水面に月がいくつも千切れて波うっている。重くちらちらと。
 壊れた世界のようにくり返す、融合と分裂。
 そこへかかる橋に――

 なにか……いる。

 ゾクリ、とオレは橋先で背すじをわななかせた。とっさに身を固くして息を潜める。闇に目をこらす。重力が変化したような気持ち悪さにくらくらしながらも、振り絞るように言った。
「あそこになにがあるんですか? 近づけない」
「わかるんですか」
 と驚いたように先生が言った。「なにか見えますか?」
「いえ……」
 とそのとき、オレは一瞬悲鳴をあげかけた。いきなり足元にドライアイスを乗せられたように冷気がのぼったからだ。痛みさえ感じてぎょっと見下ろすがなにもない。
 なんだ!?
 初めて味わう感覚に、脳より先に体が反応した。悪寒が全身を貫き、先生が見つめているものを網膜がとらえはじめた。三十メートルはあろうかという大きな橋だ。
 その真ん中。
 夜の動物園のように、ただ気配だけ不気味にひしひし感じていたものが、見ようとする意思にこたえるように次第に像を結びはじめる。
 ひとの姿をしているが、けしてひとでないもの。
 気づいたオレに気づいたように音をたてて流れる川を見つめつづけていたそれが、ゆっくりとこちらを向いた。市松人形のように切りそろえた髪とその辺の女の子と変わらない服を着た子ども。蝶のように乱反射する川の月の欠片。状況だけ見ればいっそ風流なほどだが――しかし。
「嘘……」

 ぞっとした。
 ただひとつだけ異色を放っていたのは――

 「それ」には瞳がなかった。






「acepe」前編・終

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