acepe


17)




 オレは為すすべもなく呆然とした。本来、眼球が神経でつながり収まっているべき場所が、空洞となっている。糸状の生物が無数に蠢いているような錯覚。暗黒物質のような暗さを見た瞬間、ゆがむ怪奇の中心はこれなのだと認めた。
 ありえない。と常識が反射的に否定して、いや、本当に「在りえない」ものなのだと再度思いなおす。すくなくとも、オレが知りえる世界では。
 先生。
 これが間違いなく現実であることをゆいいつ知っているその人を呼びかけて、オレは言葉を呑んだ。後ろから見える彼の横顔にあらわれていたのは、いつもとまるきり違う表情だった。
 姿勢を正した先生はすこしだけ目を細めた。
「さっき向こうの柳のところにいましたね」
 そこに恐怖や嫌悪の色はない。声を出したことでのどがひりついているのを知ったオレと違って、ただその声だけはいつもとなにも変わらない穏やかさで響いた。
 化け物としか思えないそれにも、先生はまったく怯むことなく、橋をゆっくりと歩きだす。
「姿は違うようですが、あれはあなたでしょう? 見たところいろんなもので構成されているようですが、まちがいなく中心はあなただ。でも無理をしたから磁場が狂っている。このままじゃああちこちに影響が出ます。どうしてこんなことを? 体さえあればお祭りに交じれると思った?」
 本当の子どもに語りかけるような真剣でやさしい声は、距離を飛び越えオレのところまで密度の濃い空気の間を縫って届いた。
「にぎやかなほうが好きなんでしょう。ひとがいっぱいいて、笑ってるのが好きなんですよね」
 こくり、とそれがうなずく。
「どうしてこんなところにいるの? あなたがいないと柳たちがさびしがってますよ。分かれて、元の姿に戻りなさい」
「おめめちょうだい」
 咄嗟に返された意味についていけず、オレは混乱した。先生がハッと言葉を飲み込み立ち止まる。爪で金属を擦るような耳障りな音。
 目の前が発した声だと気づいて、一気に心臓に冷水をかけられた気分になる。
「だめだ」
 思わずオレは口にしていた。
 突然「それ」が笑った気配がし、嫌な霊気は肌を刺すぐらいに変貌を遂げた。
 ――……だめだ。
 鉄を溶かしたような黒く澱む川の中心でそれが「よくないもの」に転じたのがわかった。まっすぐ前を見たままオレは叫ぶ。
「先生、下がって――ッ!」
 大人しく先生の言葉を聞いていた子どもの口が、耳近くまで裂ける。
「な……!?」
「ちょお――……だ――……い」
 歪んだ猫撫で声。無理に錆びた窓を開けるのに似た。吐き気がするほど具合が悪くなる。ふらつきそうな足をグッとこらえた。一度も笑ったことのない子が無理に笑ったようなざらつき。耳にわぁん、と乱反射して、しばらく外音がうまく聞き取れない。どくどくと毒を混入されたように鼓動がせわしなくなる。オレは苦しさを堪えながら叫ぶようにくり返す。
 だめだ。だめだ。だめだ。
 得体の知れないものが、今にもいっせいに這い出てきそうな黒い穴が二つ。
 ――先生を「見て」いる。
 その先に川沿いの景色はない。肉も皮膚もない。ちいさな黒い虫がびっしりひしめいてるようなおぞましさをともなって、ただぽっかりと不気味な空虚があるだけだ。
 二つのブラックホールの下で下弦の月のような口が濡れたように光った。媚びようとして失敗したような、壊れた顔で。
「あなたの、きれい――。……おめめちょうだい」
 呼応するように水音が大きく重なった。

 ちょおぉだい。


 ちょおぉぉぉだい――……。


「先生――!」
 グラリと視界がまわりかけ、ざっと踏みとどまった。
 いつもなら聞こえる風や虫や草の音は、不気味な磁場の歪みに怯えたように無音となり、それがなおさら不安と恐怖をかきたてる。生き物の声がまったくないことがこんなに心を乱す不自然なものだとは知らなかった。
「く……ぁ……っ」
 三半規管がいかれそうだ。耳から餓鬼のようにザワザワと動きを伴って入ってくるものを遮るために片手で耳を塞ぐ。
 それでも逃げださずにすんだのは、動かない背中が目の前にあったからだ。

――眼?
……彼の?

――ダメだ。

 恐怖と混乱より強い否定。荒い息の下、廃ガスが入り込んだような体でそれでも届けと叫ぶ。

 先生――橘先生。

「ちょおだい……」
 「それ」はオレなんかまったく眼中にないという様子で、対等に自分と向き合えるひとへと、わざと外した甘え声で再びねだる。先生はちらりとオレを見、すこしためらったあと厳しい眼差しを戻し、意を決したように一歩踏み出した。触れることができるのを信じているように、ふたたび近づく。
「戻りましょう」
 迷子の子どもに対するように、壊れものにふれるように。そっと子どもの頬のところに手をそえる。
 けれどそれは子どもの格好をしてても、なにも知らない無力な幼児ではない。
 それを象徴するように、「それ」は人間のできる表情をはるかに超えた異形さで、その瞬間待っていたようにニタァと笑った。オレの臓腑がぞっと冷える。まずい。
「危な――!」
 背筋に虫が這うような叫びがオレの口から迸り出た。

 そこから先は本当にスローモーションのように見えた。すべてがはっきりとオレの五感で感じられた。
 いきなり不自然に膨張する空気。そして歓迎するように広がる異形の口。急速に凝縮する力。驚愕に広がる先生の顔。
 身を庇いながら、片手で防ぐように咄嗟に手のひらを突き出す。しかし力の凝縮は止まらない。裂けるように広がった赤い三日月。余裕の笑みを頂点として集まる粒子。
 そして。

「先生――!!」


 その瞬間、場が弾けた。






「acepe」前編・終

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