acepe


18)




「……ぁ……あ?」
 なにが起きたのかわからなかった。激しい衝撃の後わかるのは――「あれ」と、そして先生が消えたこと。
――いや……。
 確か水音がした。とすればあれに弾かれて、彼はこの下に落ちたのだ。
 そう気づいたにも関わらず、オレの足は橋の上で黒く海へとうねる川を凝視したまま固まっていた。
――助けないと。
 落ちた彼を諦めたのか、「あれ」はなんの形跡も残さずどこかへいった。いや、綺麗にということはない。
 車が突き破って川へ落ちたように、欄干がそこだけない。
 ひとひとりが余裕で入る大きさ。あのとき感じた圧倒的な力をまざまざとあらわすように、割れた鉄柵が無残な姿を曝していた。なんて激しく暗い。
 これだけの衝撃を受けて、確実に彼はここから落ちたのだ。
 すぐ助けないと。
 足を必死の思いで動かし胸まである鉄柵から下を覗き込む。ぜったいにあんな衝撃、まともに受けて平気なはずがない。意識をなくした重い体がいまも川の底へ沈んでいくのが脳裏に浮んだ。
 わかっているのに、なぜか棒のように足がすくんで動けない。
 雷に撃たれたような衝撃に、我を起こしたのはだれだと言わんばかりに川は暴れ、神の怒りのように大きく荒れ狂っている。なにもかもを押し流してしまう勢いに、なくなった手すりの淵に立ったままオレはたった一歩も先に進めなかった。
 こうしている間にも、彼はもう戻ってこない深くて遠いところへいってしまうかもしれない。

 わかってる。

 わかってるのに。

 オレは必死に命令を下す。そうだ、助けるんだ……。手のひらに汗がにじみでた。動け。なんで、どうして。早く助けなければならない。悪意そのものが渦まいているような、荒れ狂う水の中へと飛び込んで。助ける。あのひとを。
 でもできない。可能、不可能じゃない。身をすくませている恐怖は別のところからだ。
 痛みなら、傷ならどれだけでも負おう。彼のために。けれど、行ったら終わりだという確実にも近い前提が、今オレをとどまらせている。そう、

 いま飛び込んだら、死ぬ。

「――!」
 ぴくりともしなくなった自分を認めた瞬間、形容しがたい衝撃を感じて立ちつくした。
 ――恐怖。オレは怖いのだ。踏み出した先がなくなってしまうのが怖いのだ。
 その考えに行き着いた瞬間、自分の体に愕然とした。信じられないと眼を剥き、ややあって別の強烈な恐怖と憎悪が襲ってきた。
 ガタガタと震えが背筋を上り、自由を奪う。金縛りにあってるみたいだ。意識は間違いなくはっきりしているのに、体中の筋肉が言うことをきかない。なにを考えている。ここから飛び込むだけだ。早くしないと、彼は死ぬかもしれない。ただでさえまともじゃない体なのに。
 早く。
 じゃないと、この流れではすぐにひとひとり容易に飲みこんでしまう!
 早く!
 いますぐ――!
 荒れ狂う川から救いを求める手が脳内に見えた。自分を求めてあの手が伸ばされている。もうすこしであの手は力をなくして落ちていく。いますぐ水底まで追いかけ、見つけて、手首を掴んで引き上げてやらなければ。なのに。

 なんでこの体は動かない――……!!

 見えない頑丈な壁を押しているように腕がぶるぶる震えた。胃の底が限りなく冷え込んでいくような感覚に襲われ、反射的に思いきり振り下ろした拳は、割れた鉄柵を響かせた。そのあいだにもうねりは刻一刻と流線型のまますべてを飲みこんでいく。
「くそ……ッ!」
 自分を呪いたくなって悪寒がきた。
「なんで! なんでだよ……ッ!!」
 ふざけるな! と叫んだ。夜の中へ。あの中に彼はいるのだ、いまも、オレを待って。
「動け……って――!」
 どんなに叱咤しても動けない自分の見えない暗い部分に深く根付いているもの。それをまざまざと知った瞬間、
「……っざけん……な!」
 オレは耐えられなくなって額をその拳で殴りつけた。霞む目で橋の周りを見渡した。喘ぐように不快な空気を吸い込み、踵を返して川の流れるほうへ舗道を走り出した。飛び込めないまま。
 見つけられるか。
 いずれにせよ、もう遅い。暗い澱みに支配されたどこにも繋がっていない川は、異様なぐらい流れが急になっている。
 あの瞬間、躊躇なく行ってたら違っただろうに。
 なんで、と高熱から来る寒気とともに自分自身が一番わからなくなった。意識と体が自分にそむく。なんだ。これはなんなんだ。まるで心臓を巻き取るように自分の中に他人が住んでいる。理解不可能ななにかが。
「くっ……そぉぉ――!」
 やりきれなさをぶつける対象もなく、オレは痛めつけるように固い舗道に足裏を叩きつける。ただやみくもに流れの下へと駆ける。無情にも荒れ狂う川の流れに追いつくべく。
 そうしながら、たぶんオレは泣いていた。
 もうこの先自分はけしてまっすぐな気持ちで彼の前に立つことはできないのだと。
 もう二度と、寝る前にあの人を思って安らかさとあたたかさを得ることはできないのだと知って。
 涙を流さず、オレは泣いていたんだ。





 流れの中に気配はないか。
 わずかな変化も見逃さないように月だけが浮ぶ夜の闇の中を見渡す。
 全身から次々と嫌な汗が出て止まらなかった。
 馬鹿なことを。馬鹿なことを。
 絶望的な気持ちになりながら自分を責め続けた。
 馬鹿なことを。馬鹿なことを。馬鹿なことを……!
 オレを支えていた誇りや信念といったものがぐずぐずに溶けていく。細胞という細胞が、神経という神経が、もうもとには戻らないのではないかというほど、ばらばらにほどける。十七年で培ってきたものがぼろぼろにくずれていく。
 こんな思いは生まれて初めてだ。
 腹の底からわきあがる屈辱が抑えきれない。ぬるぬるした不愉快な汗となって全身を濡らす。もう一度こめかみを思いきり殴った。衝撃はきたが痛みは感じなかった。揺らぐ視界で滲む汗をぬぐいながら、オレは生まれて初めて敗北感を味わった、と思う。
 汗だか涙だかわからないものをぬぐって走りながら、ハッと顔をあげた。
――直江。
 オレが直江だったら。
 その考えは、ばらばらになったオレの体に硫酸をかけるようなものだった。くらりと酩酊したまま、だんだん跡形もなく溶けていく。このまま流されてしまう、とぞくっとしたとき、耳に何か聞こえてきて、オレは鼓膜を中心に体を再構成した。
「シロ!?」
 よく知ってる犬の鳴き声とわかった瞬間、ハッとあたりを見渡し耳をすませた。目を凝らす。
 それをきっかけにすべての五感が戻ってくる。完成したオレの体。無力なんてかわいらしい言葉じゃなく、いまは憎悪の対象でしかないオレのこの体。
 声を目指してオレは走った。下から聞こえる。先の河原のほう。
 いる。
 そこに彼はいる。
 確信をもってオレはふたたびしっかりと走り出した。胸に一抹の希望を感じ、一瞬遅れてそんな自分を思いきり恥じた。
 ウォン! ウォン! と辺りに警笛のようにけたたましく吠える声。早くしろとオレを呼ぶ。
「先生!」
 呼応するように名をほとばしらせる。もうどんな懺悔も言葉にならない。
「先生……先生、先生――!」
 生きていくかぎりこうしてなにかを試されるのか。目にしなくなるときが来ても、きっと彼の存在はつねにこの体の一番胸に近い部分にあるだろう。激しくざわつくこの心臓があるかぎり鼓動をやむことない言葉にかえながら。
 一生奥に抱えていくのだろうと思っていたものが、ここへ来て、いままた悲鳴のようにあふれだす。
 全力で走るオレの胸に、唐突に二人で帰った日のことがよみがえった。

 あの日。

 学校の書庫を二人で探した夕方だ。二車線の通りから上る坂。このまま本を病院まで持っていくと言い張ったオレから、橘先生は袋を受け取った。

 大丈夫ですから。シロを送っていってあげてください。
 でも。

 すぐには去りがたくて、せめて見送ろうとシロの喉をかき混ぜていたオレのところに、先生は閉店間際の花屋でなにかを買って戻ってきた。

 はい。
 ……オレに?
 ええ。

 白い数本の花束。
 手も出せずに困惑した。

 バラ?
 簡単なラッピングしかできませんでしたが。
 ……父の日って6月ですよね。
 別に私は、あなたを父親として見てはいませんよ。

 たっぷり考えて聞いた。

 なんの日でしたっけ。

 今度は彼がきょとんとする番だった。
 本当に彼は理由などまったく意図してなかったらしい。すこし首をかしげて答えをひねると、

 ――いい天気だったから

 実にテキトウな理由を口にして、あたりまえのことのようにふわりと笑った。
 本の重さも感じさせないような足取りで坂を上っていく彼の背中を見送りながら、花を贈るのは記念日だと勝手に思いこんでいた自分を、オレは苦笑まじりに反省する。
 たとえば恋人の誕生日とか、年間イベントとかに登場させるとか。花束にはそんなイメージを抱いていたけど、なるほど、花そのものはけしてひとに合わせて咲くんじゃない。咲きたいときに咲くものだから、オレたちだってだれかに贈りたいときに贈ればいいんだと。
 あっさりとやってのけた先生がとてもまぶしく見えた。
 すこしだけ世の中に慣れて、多少いろんなことに斜めに接しはじめたオレをそっとまっすぐ戻すように。
 さりげなくも、先生はいつもいろんなことに気づかせてくれる。

 ――いい天気だったから。

 そう言う彼がなんだかとても好きだと思った。
 走りすぎてゆく日の中で、
 ささやかながら鮮明に焼きついている思い出。





「acepe」前編・終

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