acepe


19)



 現実に変わり、急に視界を晴らす。汗ばむ体。息をあげながらもいっこうにその体は熱を持たず冷えていく。
 ここはどこだ。ギクリとしたのは、川べりで浮びあがったシャツとこっちに吠えている犬の毛並みがともにあのときの花の色によく似ていたから。いや、もしかしてもうその色は視界に入っていて、そのとき瞬時に呼び起こされた記憶だったのかもしれない。認めたくないがゆえの逃避として。
 時間の狭間で一瞬置いてけぼりをくらったオレの耳に、シロの吠える声が飛び込んできた。
「!」
 ハッとガードレールを飛び越え、ザザザと土手を滑り下りる。崩しかけたバランスを持ち直すと、そこに横たわる動かない体に痛いほどに心臓が鼓動を始めた。
 足を交互に動かすことだけに全神経をやり、ぎくしゃくとした足取りで歩みよった。川のせせらぎがざわざわと聞こえている。
 彼は――?
 にわかに血流に潜んでいた恐怖が肌近くまで吹き上がり、どっと汗が吹きだした。
 足は思うように前に進まなかった。ともすると震えてもつれそうになる。頭から順に下へ引いた血が凝り固まって、枷を作っているようだ。
 月明りの下、駆けてきたオレを見てシロがけたたましく吠えた。毛並みの顔の部分しか濡れていないところを見ると、ちょうど近くの大きな石にひっかかったか、自分で縋りついたか。どちらか力つきたところをシロが引きずり起こしたのだろう。
 軽く頬を叩き、脳を揺らさないように気をつけながらびしょぬれの半身を起こしてやる。
 腕にひっかかっているだけのじっとり重いスーツの上着を脱がした。
 呼吸が早く、浅くなっている。彼じゃない。オレの。
 そっと頬に触れてぺしぺしと叩いた。何度も「先生」と呼びかけるがまったく意識は戻らない。ぞっと血の気が引くのを感じた。
 慌てて胸に耳をあてる。……鼓動はある。
「シロ……」
 ただ一匹の仲間に手をさしのべると、犬はするりとオレの手を避け彼の足元に寄り添った。
 そうしてまるで我が子を守るように、オレと彼の間に立つ。
 白い毛並みが内部からほのかに光って見えた。哀れむような目でシロは静かにこちらを見ていた。
 裏切り者、と聞こえた気がして悲しくなった。
 オレは黙って膝を落とし、そこへ彼の頭を横たえる。オレはこいつ以下だ。自分自身へ殺意を向けるときというのはこういうときか。しかしできはしないのだ。ひとのためにも死ねなかった人間がどうやって自殺する。最低だ! 歯を食いしばり声には出さずに叫んでいた。失う。この体温を永遠に。そう思った瞬間、オレの中ですべての言葉が喪失した。
 残ったのは同じ言葉ばかり。
 先生、先生、先生――。
「神さま」
 不安のためか怒りのためか指先は震えていた。暗闇の中で頭を垂れ、熱をわけあたえるように額を合わせて目を閉じた。哀願するように訴えた。全身で。
「たすけてください」
 そのとき、にじりよるものの気配を感じてオレはハッと肩を揺らした。
 薄かった夜空が光のない海の色に変わっていた。
 さっき感じた悪寒がぞくりと再び背中に巣食う。
 冗談だろう、こんなときに……!
 首だけを上にあげ、空中にあらわれた「それ」を見たとたん、激しい怒りがこみあげた。
 気づいたオレに呼応するように、すべてをなぎ倒す勢いで悪意が押し寄せる。
「さわるな……」
 自分の声とは思えないほど低い声が出た。容易にキレた。
 もうやめろ。近づくな。これ以上彼を傷つけるな。
 さもないと。

「だれもこの人にふれるなぁ――!!」

 渡さない。
 渡してたまるか。もうだれにも、何処にも。
 よろっと立ち上がろうとしたのと同時に、先生の眼が目覚める直前のようにちいさく痙攣したのが見えた。あわてて抱き起こそうとしたとき、上空から迫りくる圧倒的な力を感じた。
「――ッ!」
 反射的に先生の体を抱え込んで思いきり転がったがやや遅かった。
「……ぐあっ!」
 思いきり肺を殴られたように一瞬完全に息が止まった。直撃ではない。かすったせいで背中の裂傷だけですんだが、余波はやりすごすことができなかったようだ。切れた傷が動くたびに引きつった。
「く……ぅ、っは」
 こめかみに汗が伝う。それでも彼は離さない。離せない。
 引きちぎられそうな痛みに呻きながらも意識を上方から逸らさないようにしていると、さっきの衝撃で完全に目覚めたのか、腕の中の体がちいさく身じろぎして、ぎゅ、と腕を掴んできた。
「先生……先生ッ!」
 うっすらと目が開いた。
 まだわずかに焦点の合わない黒い瞳が、いままでなかった距離でオレを見つめる。
「先生…!」
「……大丈夫、ですか……?」
 言葉を失った。
 まだおぼろげな意識のもと、掠れた声で言ったのはオレじゃなかった。
 まるでこぶをつくった子供の頭をなでるように、彼が傷ついた場所をやや外してオレに弱く触れる。ひどく悲しそうな顔で。まだ力の入らない手を伸ばし。
 背中に、指の腹の感触。
「先生……」
 その姿は胸に痛くせまった。
 失わずにすんだ瞳が、オレを見ている。オレだけを。頬に血がのぼるのを感じた。
 安堵だか後悔だかがなだれのようにあふれ出て、これ以上先生の顔を見たくなくて彼の視線を自分の胸で塞ぐ。濡れた躰からとまどいが伝わってきた。
 歌いかけの唄をおずおずと再開するように、彼が弱くオレの名を呼んだ。今度は愛しさや後ろめたさがないまぜになって、傷口にじわりと雫のように染みる。
「すみません」
 火傷のように痛みを発するのは背中じゃない。心だ。苦しくて苦しくて、たった一言しか言えなかった。
「どうして」
 先生はそっと言った。
 すぐそばを流れているはずの水音は聞こえなかった。罪を弾劾する魂のほうがよっぽどうるさい。絶望に打ちひしがれながら、オレは彼をきつく抱きしめた。
 一瞬の抱擁のあと、生命のあたたかさとやわらかさを強い意思で剥がし、
「……すみません」
 もう一度だけ、きつく目を閉じて謝った。
 先生が首を振り、安心させるようにオレの肩に手を置いて自力で立ち上がる。慌てて立ち上がろうとするオレに首を振り、毅然と踵(きびす)をかえす。
 するどく天を見上げるその横顔には、今度こそいっさいの隙も弱さもない。オレは顔をあげて先生の姿を正面に見つづけた。
 さっきまで意識がなかったとは思えない強さが、彼の中に満ちている。戻ってきた水音を聞きながら、オレは空間を震わせる神意というものを生まれてはじめて感じた、と思う。
 彼の眼の奥には怖いほどの決意の色が凝縮しはじめていて、地上近くでわずかに浮いている「それ」を、水面の魚をねらう鳥のようにまっすぐ射抜く。
 それを見た瞬間、奇妙なぐらいオレに心配や不安はなくなった。
「……すみませんが、これはあげれません。あげてもあなたとは違うものだから、見えるようにはならない。それに私も、まだ見続けたいものがある」
 まっすぐ前を見つめている。声は力強く、決然としていた。気高くすらある。このひとはときどきこうなる。燃える氷みたいに綺麗に。強さを超えて美しく。
 さっきまでと違う雰囲気を感じ、そしてどうしようもないことを悟ったのか心なし悲しそうにしている「それ」を包む手。
 先生の透明で堅い炎がオレの前に姿をあらわそうとしていた。
「けれど人々の祈りでそれはできる。何百年先か何千年先かわからないけれど」
 待てるでしょう、と濡れそぼった前髪の奥から美しい眼で笑ってみせる。
「ひとを信じていてください。いままで待ってたんですから。神事の形式がだんだん簡単になり祈りも希薄になって不安になるのもわかるけれど、この国には八百万の神の分だけ確かに神や精霊への敬いや信仰があるから。だからもう少しだけいまは――」
 握った手に光がともる。四方へと真白きオーラがあふれだす。しなやかな腕とともに光が流線を描き、空中でぴたりと静止する。
 そうしてあたりをゆっくり包んでいく光のまぶしさにオレはたまらず目をつむり腕で瞼をふせいだ。巨大な月が生み出されたようだった。そむけた顔にビリビリと伝わる「意思」の力。
「――ッ!」
 放射線状の溢れるたくさんのまばゆい光。
 腕の隙間から燦然と輝く光の美しさに釘付けになる。先生の指先が虚空を裂くのをまばたきも忘れて見た。
 浄化。という言葉が思い浮かんだ。
 やがて足元からのぼってくる感触に彼が口をちいさく開けたまま目を閉じた。
 その表情はどこか恍惚さえ感じているようで、目を開けるとその光より彼自身に魅入られてしまう。
 すべてを破壊してもおかしくないほどの力は、しかし何もかも壊すことなく、巨大なうねりは流線型となって天へと昇っていく。折れない大地に溶けていく、粉雪のような残響。
 やがて力の粒子は湯に落ちた角砂糖のように大気や川に溶け込み、なにもかもが消えていった。流され、洗われていく。ただ彼だけを地上に残し。
 もうそこにはなんの不穏さもない。ただ透き通った「場」が存在するだけだった。霧散する光の粒が消えていく中で、下げた腕から「あれ」が消えた天をじっと見ている先生の姿が見えた。空に引き戻されるようにのぼっていく光の蝶を、先生は親が迎えに来た友達のもう振り返らない背中を見つめる子供のように見ていた。
 そして確かめるように両手をじっと見つめる。
 こらえるように、ちいさく唇を噛んだ。
 浮ぶその表情は後悔か? なにに。消してしまったことに?
 それとも――……。
「先生……」
 あのみなぎる力を放った瞬間の、なににもとらわれない表情が気になる。妖艶なまでに開放的だった。まるで桜の大木を大きく揺さぶり、花びらをいっせいに舞い散らす神の化身のようだった。
 風と織り成す壮大な舞いとひきかえに見るのは無残な花びらの残骸だというのに、実際に生殺与奪を実行した瞬間に存在する、自分がなした罪とそれを上回る快感。罪の意識を感じる一歩手前の一瞬の、激しい嵐のような昂揚。一夜限りの月下美人の花を見たような気になった。
 そんな自分の表情に自らも気づいているのか、やがて彼の顔に影が落ち、顔をそむけてうつむいた。
 見られたくないというようにそのまま両腕で自分を抱くその仕草は、どこか知っているような気がした。背中を向けたまま彼はすべてを見ていたオレに静かに告げる。
「消してはいないんです。道が見えるようにひかりを通しました。これであるべきところに戻るでしょう。私にできるのはもうこれくらいです」
「……」
「たった……これだけなんです」
 と先生はくり返し、首を振った。顔を両手で覆った。泣いているかとさえ思った。震えてはいない肩が一人で寒さをうったえている。そしてそれを温めることのできる人間は、ここにはオレ一人しかいないのだ。





「acepe」前編・終

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