acepe


20)




「これだけなんて……十分でしょう。あれも消えた。だからそんなに――」
 慎重に熱を戻す言葉を選んで伝えようとするオレを、「違う」と痛そうに遮って先生は、
「違うんです。私が怖いのは」
 求めてしまうことだ。と、振り向かないまま恐れるようにちいさくはきだした。
「まだしがみついてる」
 彼の手だけが痙攣している。こらえるように濡れたシャツの胸を掴み、「本当の夜叉をすまわせているのは……」とつぶやいた。
「これじゃ足りない。もっといる、ってまだオレの中が叫んでいる。いまじゃこの世界に対してなんの傷にも癒しにもなれない。ひどく自分勝手な言い草なのに、それに震えてしまう。足りない、だなんて。これさえずいぶんと無力だなんて……いったい何様だ。浅ましくて吐き気がする。オレは……オレは、あれにどこまで慣れてしまって……!」
 とっさにオレは導かれるように歩み寄り、苦しげな彼のもう片方の腕を強くつかんだ。うったえる。
「でも先生がいなかったらいつか被害が出た。だれかが傷ついた。それに普段からだってずっと、オレみたいにたくさんの人が先生に助けられている。救われてる」
 すがりついてるようななんともいえない不思議な顔で、先生がオレを振り返った。
「力を使う機会を作っているとしても――?」
 なにかが剥がれたようにぽろりと出た言葉のあと、彼がゆるく拳が握ったのが筋肉の動きでわかった。
「私があの診療所に、心霊相談を出しているのが、善意じゃなく」
 ひそやかな声。

「ただ、この力を衰えさせないためだとしても――?」

 思いもよらぬ言葉にびっくりして、逆に腕を掴んだ手に力をこめた。
 それはオレへの問いかけでなく、ふと湧いたとまどいとつきつけだった。彼は自分自身へ問うている。
 彼の眼にぎりぎりまで緊張と怯えを孕(はら)んだ光がうつる。いつかの夜にも似た懐かしい輝きだ、とこんなときなのにオレは思った。
 いまにもこぼれそうだった凍れる満月。
 近づくな、と訴える声。
 漆黒の夜空にたったひとつだけ星を見つけた人のごとく、幻でなく彼がそこにいるのをまばたきをくり返して確かめる。それから、遠ざかろうとした彼の腕をこれだけはというように強く引きとめた。
 切れ切れの独白にどうしようもなく胸が締めつけられ、オレは先生の濡れた背中に額をあてた。
 なんと、なんと言えばいいのだろう。
 彼は怖いときにはだれも寄せつけない。戦おうとするのだ。それに、オレはなんと答えたらいいのだろう。いったいどうしたら彼の不安を取り除いてやれるのか教えて欲しい。どんなかすかな希望でもいい。オレの奥底にもしそれがあるのなら、掘り起こしてどうか彼に分け与えてやってくれ。
 腕を離さぬまま黙っているオレに、ハッと我にかえったように先生はいつもの表情を浮べ、
「……嘘ですよ」
 とやさしい声を落とした。その言葉は、しかし事実を好転させるものではなかった。弱く笑む眼の奥にさっき彼の手から放たれた神々しい光が重なって見えた。
 それでも彼は選ばれた人間だった。
 望む望まないに関わらず、先生は神に選ばれたひとつの魂を持っているのだ。
 答えの出ぬまま、のろのろと彼の背から額を離した瞬間、いきなりガクリとオレの膝が落ちた。
 なに……?
 お互い目を丸くする。一気に低くなった目線で先生を見上げ、オレはようやく原因に気づき、尻餅をついたまま思わずまいったとうめいた。
「いまごろになって、気が抜けたらしい……」
 先生が相好をくずした。もうそこには大人の余裕と包容力さえたたえたいつもの落ち着きがあった。表情をやわらげ、
「あたりまえです。だから言ったのにまったく無茶ばかりして……。立てますか?」
 差し伸べた手。さっきの痛々しさは完全に消えてしまったのか? 思わず彼を探る目になったオレに、
「わかりますか? 私にも不安なことは多いんです」
 と冗談めかす彼の左手に、あれだけの波に飲まれながらもしっかり噛み付いていたタイピンがぎゅっと握られていたのに気づいた。微笑みながらも、まるで嘘をつくと一瞬にして心臓を破るような装置を手にしているみたいにそこだけは真剣だった。
 ああと、こみあげる愛しさを抑えながら、せめてと力強くうなずいた。
 はっきりとはわからなくとも、得体のしれないさびしさの正体と、うんと細いものでここにつながっているようなか細さが見えた。否、見せてくれているのだと感じた。あえて自分に。
 先生はやさしい。先生はたぶん、そんな告白しなくても生きていけるのだ。なのにオレを安心させるように己の恥を吐露する。
 いつかの公園でオレが漏らした不安を彼はまだ覚えていて、いままたやわらげようとしている。普段スムーズに隠せる部分を、危うささえ感じる等身大で曝しながら。
 あなただけじゃないと。
 こんなときまでオレを導こうとしているのか。
 多くを隠すことに慣れたひとがしめしてくれた不器用なやさしさにツンと鼻の奥が熱くなったのをごまかすように、オレは膝で汚れた手をはたいた。
 差し伸べられた手にはもう、あれだけまばゆかった光はない。けれど確かにそこから大きなものが解き放たれたのをオレは見た。証明するようにまったく濡れていない手を、しっかりと握り返して立ち上がった。
 オレたちはたぶんなんの力もない、ただ一つのべつべつの個体で。だからこそ消えてしまわないように手をつなぐ。
 互いの体温と肉の感触で、ちゃんとここにいるのを知るように。
「帰りましょう、先生」
 橘医院に。
 すこしだけそのままだった手は、ただひんやりと秋に似た川の温度を保っていた。






 その後一度シロといっしょに神社に戻ったオレたちは、蛍光灯の付け替えられた部屋でほとんどのことを省いた出来事を話した。口調にあの力強さや厳しさや不安はない。さっきまで感情の起伏が大掛かりな芝居だったように、先生の話し方はいつも通りやわらかで落ちついたものだった。
 先生は、おじさんたちに一つ二つこれから神事の際にやってほしいことを指示したうえで着替えだけさせて欲しいと言ったが、スーツの上着を片手に頭から足元までびしょ濡れになったその姿にあっけにとられていた彼らは、先生にすぐに帰るようにと言った。
 よかった。オレ自身も気だるい体で一晩起きていられる自信もなかったし、なにより「足をすべらせて川に落ちてしまいまして」なんて言って笑う横顔からはあまり想像できないが、先生の疲労はオレ以上だろう。
 風呂もない場所で風邪をひく。帰宅を勧められなかったら、オレがなんとしてでも帰らせるところだ。
 苺の鉢植えを入れたビニールを持って、ぬるい外に出た。すぐに離れがたそうなシロが先生の足元にぐるぐるとまとわりついた。
 タオルで軽くシャツをぬぐいながら、空いたほうの手であごをくすぐると、
「ありがとう」
 と先生は声に出して言った。気持ち良さそうにシロが目を細めて、クゥンと鼻を鳴らした。
 やや緊張しながらオレも「シロ」と呼ぶと、ちょっと迷ったような間のあと、こたえるように「ワン!」と吠えた。
 きっともう返事は来ないと思っていただけに、わずかに胸が熱くなった。躊躇とともに手を差し伸べると、かがんだオレの胸元にぐいぐいと鼻面を押しつけてきた。お……。
「わかってる」
 ものいいたげなシロに口先だけでちいさく答えて、先生の腕に触れた。
 なに、と問う声より先に、強引に木の傍の石に座らせる。ひざまずいて靴を脱がせにかかったオレに、先生は慌てて肩を押し戻そうとしたが、
「……ッ!」
「やっぱり腫れてるんでしょう。ちょっと見ますから、動かないでください」
 ぐっと先生は黙る。
「足、ひねったんですか」
「……気づいて」
「いまさっきですけど」
 まったく。なにからなにまでシロに完敗だ。平気な顔して。ここに来るまでまったくそんな素振り見せなかった。
 それでも気づけなかった自分に歯噛みしながら、確かめるように箇所箇所に触れていく。
「……っ!」
「ここ?」
 あまりひどくはないようだ。さっきまで歩いていたくらいだから、そんなものだろうが。
「痛いときまで笑わないでください」
「……」
「お願いですから」
 しっかりと言った。「無理なら、せめてオレの前だけでも」
 痛いときは痛いと言ってほしい。体も、心も。
 先生と違ってこの手は本当に無力だけれど。
 せめて、と冷たい足を温めるように、圧力をかけないままじっと押さえた。
「大丈夫なのに」
 ぽつり、と先生が言った。なにかに耐えるように閉じた両瞼を親指と人差し指で覆い、
「私は、大丈夫なのに」
 その言葉をオレは無視して丁寧な動作で裸足のまま靴をもう一度履かせた。
 やや居心地悪そうだった彼がほっと顔をゆるめたのを逃さず、自分の肩に手をまわさせ空いた手で腰を支えた。
 一緒に立ち上がると先生がひゅっと息をつめた気配が首あたりでした。
「待……ッ! いいです。ひとりで歩けますから!」
「馬鹿言わないでください。どっちが無茶してるって言うんですか」
 ぴしゃりと言い切る。「背負うわけにもいきませんから、多少歩きにくいのは我慢してください」
 もうすこしし上背があったらそれもできただろうか。そんなことを考えながら、とりあえずいまは一刻も早く安心できる場所へ戻るため、神社の裏から車の走る舗道へ出た。向こうからやってくる車の黄色いランプに手をあげる。
 こんなに濡れててはたして乗せてくれるものだろうかと思ったが、幸い愛想のいい優しげな初老の男性ドライバーは逆にこっちの心配までしてくれた。止まったタクシーの横を、ひっきりなしに通る車。
 先生が最後に橋のほうを振り返った。
「いつか昔みたいに、ああいうのを見るのが普通になるときがくるかもしれません」
「そうですね」
 唇で相槌を打つ。
 走り去る音で聞こえなくてもいい。
 ゆっくりと彼を解放しながら、オレはまったく違うことを聞いていた。
「先生、いまでもなにを捨てても構わないぐらい、好きな人がいますか」
「いますよ」
 わずかな間さえなかった。
「……いる」
 先生は目を伏せたままもう一度穏やかに答えると、座席に乗り込んだ。
 腕に抱えた喪服のような黒い服からは、まだ水がしたたっていて、運転手が敷いたビニールシートにときおりちいさな音を立てて落ちていた。





「acepe」前編・終

 (19) / 21