acepe


21)




 目の前に白い踵が見える。彼は裸足だった。当たり前なのにドキリとしたのを、ずっとあとでもおぼえている。
「……え? あ、すみません」
 診療所の二階へ階段を上がりながら見つめていたせいで、なにを言われたか聞き取れなかった。顔をあげる。
「いまコーヒーを入れますから」
「……いや、いいですから」
 服のあちこちから水滴を落としているくせに。
 悠長なことを言う彼を「それより早くシャワー浴びてください」と呆れながらバスルームに押し出した。
「足は大丈夫ですか」
「歩くぶんにはもう。じゃあちょっと使ってきます。テレビでも見て待っててください」
 と先生がリビングを示す。オレを意識してか、危なさは感じられない足取りでゆっくり奥の風呂場へ入っていく。「気をつけて」と言おうとして、彼のテリトリーにそれもないかと短い廊下で口をつぐんだ。
 大きな窓があるリビングには横になれるぐらいのソファにテーブル。ちいさなテレビとデスク。
 フローリングの床には、壁の本棚にも収まりきれなかったらしい見覚えのある本が数冊重ねられていた。そういえば今度学校から持ってくると約束したな。書庫での出来事が鮮やかによみがえり、胸を圧迫した。
 いつもならわずかに胸躍るだろうささやかな使命も、いまの自分にとっては胸塞ぐ過去でしかない。
 彼の濡れた体を抱きしめた手を開閉する。動かなかった。あのとき。もう二度とあの眼が開かないかと思った。
 しだいに指先が冷えていきそうになって、どこまでもくり返しそうになる感触を振り払うように頭を振る。
 リモコンを手に取る気にもなれず、さてどうしようかとソファに所在なく座った。
「まいったな……」
 この精神状態は「まずい」類のものだと自分でも分かる。シンプルな部屋は階下の診察室によく似ていた。間違いなく彼が住んでいる空気が漂っている。居心地がよくて、だからこそ居心地が悪い。反律の原因は己の中にだけ、ある。
 ふとカーテンがかかった窓のもとに新聞が広げたままになっているのが見えた。妙なことに一度ぎゅっとして広げたみたいにしわくちゃに波うっている。なんだろう、あれ。
 思考からの逃避としてぼんやりその意味を考えていると、廊下のほうから走らないまでもやや慌しい様子で足音が聞こえてきた。まっすぐにこっちまで来た、と顔をあげたときタオルを手にした先生が、
「背中!」
「せなか?」
「すみません。すっかり忘れてて。ちょっと見せてください」
 ああ。
「いやそんなオレだって忘れてたくらいだし。それよりちゃんと髪拭いてください。風邪ひきますよ」
 背中越しに首をひねり、真新しい半袖シャツと黒いスラックスというさっきまでとたいして変化のない彼の姿を見やる。先生はオレの背中の傷をじっと確認して、痛そうに眉をよせた。
「ああ……服も破けてますね。それに擦れて赤くなっている。服は今度新しいのを買ってきますから。熱や痛みはありますか?」
「とんでもない! いいです、このくらい。先生のせいじゃないんだし」
「私のせいです。あなたを守れなかった」
 何気ない一言は、ざくりと予想以上に心臓を突いた。
 早まる鼓動を感じながら掠れた声で、
「……ほんとうに。違いますから」
 と言うのが精一杯だった。「薬でも塗っておけばすぐ治ります」
「じゃあ風呂で傷口を洗ってから、手当てさせてくださいね」
 有無を言わさぬ口調で、先生は言った。辞退は許されず、オレはただうなずくしかなかった。




 生まれるのが嫌だった。嫌だった、と思う。
 正しくは血とぬまった液体と粘膜に包まれて産声をあげた記憶がないのが嫌だったのだ。
 いろいろと障害があるため自分たちはある程度年齢が達するまでは意識的に記憶を封じる。たとえば何百もの赤ん坊を見ていようとも自分がなんの恥もなしにそれを真似できるとは到底思えないから。不審がられないように。少しでも安全なように。精神に身体が追いつくまでなんとか周りに庇護されて生きれるように。
 しかしそんな理屈も、組み敷いたあのすべらかな体と繋がっているときにはなんの歯止めにもならなかった。
 自由でしなやかな若い躰に四肢をはめこみ、あいだの空気さえも惜しむ勢いで口づけあいすべてであなたと繋がる。それでもつのる焦燥感に駆られながら奥まで楔をねじこんで、突きあげて、堕ちていく。
 生後何年か経ち、自我が芽生えてある程度体が思い通りに動くようになるとすぐにあの人に念波を飛ばしていた俺も、産道から粘膜とともに産みだされるときだけは、彼より自分の外界での初呼吸を優先させるのだ。
 だから何度母親から生まれた経験があろうと俺は、自分の最初の産声を聞いたことがない。あたりまえだともちろんわかってはいても、彼を抱いているといまさらながらそれがずっと疑問だったようにも思えた。
 「目覚め」、すぐにあなたを呼ぶとき、胸の中でいつも「またか」と失望しながらどこかやるせなく思っていたような気になる。それが彼という麻薬が見せる幻覚だとしても。
 自分は、体を、言葉を、精神を涙を、すべてを彼のために使った。返されることを望む余力もないほどに、捧げるという言葉がふさわしい勢いで使いきることを望んだ。
 最後の一呼吸までもあなたのことを考えていたいのに。
 事実そうやって、いつも宿体の呼吸を止めるのに。
 再度自分が「生きる」ときには、それすら無と化すのか。

「一番最初に聴いた音はあなたの声じゃないし、最初に視界に映すのもあなたじゃない。たまにそれがひどくおかしく思えるんですよ」
 のけぞらせた喉にじわりと浮かぶ汗を、舌であごに向かってなぞりあげながらそう言うと、官能にわななく唇が、
「……イカれてる」
 と掠れた吐息を落とした。



 えぇ。自分でも普通じゃないと思いますよ。
 ……だれが好き好んで、こんな苦しい世界に産み落とされる瞬間を、味わいたいと思うんだ。
 それでも俺は、自分の記憶の一片にでもあなたを思わないときがあるのが憎らしかった。
 ……あッ
 何度生きることをくり返しても、その部分だけが空っぽで。あなたがいなくて。
 いや……、や、そこっ、突くな、ゃ、ヘンにな……ッ
 ああ、目元が赤くなってきた。
 耳、ゃ……ッ
 舐められるのは嫌い?
 ぃぁ、噛んで…噛んでく……ぅっ!
 痛いほうがいいんですよね、あなたは。
 ぁ……っ、あ……っ、ア、…ッ!
 声を聞かせて。殺さないで。



 頬の上のでっぱった部分が、下半身を深く浅く攻められるたびにすぐ熱を持つ。わかりやすいとおかしくなるくらい放熱の証拠を浮き立たせる目元を見ながら、なおしつこく侵入を深めていくと、その朱はだんだん耳や首に広がり、やがて体全体を桜色に火照らせていく。
 産まれたての胎児のように汗や涙やいろいろな液体にねっとりと包まれた体を舐めてやると、子を慈しむ獣になった気がした。それでもこの行動は庇護欲ではないのだ。
 ギリギリまで欲望を押し留めたひとが、とうとう耐え切れずにか細い悲鳴を、予想もつかない嬌声を、ちいさくちいさくあげるのが好きだった。
 快楽に染め上げられた体から悲鳴が漏れる。
 泣き声と嬌声の薄い境目。
 どこまでも冥く堅固な殻に、ギリギリまで追いつめた快楽でヒビを入れると、その切れ目から高い音を出して空気が噴出す。自分の身を抱くようにして中でうずくまっていた彼自身が、気づかぬうちに少しずつ溜めこんで窒息しかけていたところから。
 なにもかもなくなりからっぽになった体を己で埋めて塞ぎ止め、そこへ思いのたけをこめありったけ白濁を注ぎこむ。



 なくさないみたいに呼ぶんですね。
 な、に……を
 俺を。幾度も幾度も。どうして?



 いつもみたいにきっと答えは返ってこないと思いながら聞くと、彼は答えた。なにもかもを壊して汚した暴風雨が去った後にひとつだけ残った花を見つけたみたいな顔で、弛緩した躰を後ろに倒れこませてゆるく包みながら。
 俺の頬を。



 名は――祈りだから。



 そう言ってまっすぐ見据える彼が放つか細い悲鳴は、殻からやっと漏れた涙だった。
 泣きたくなるほどうつくしくせつない、
 さざ波のような愛しさだった。




 最小限の動きでザッと汗を流してシャワーを止めた。
「くそ……っ」
 眼を閉じて水が肌を打つ音を鼓膜で受けていると、気が変になりそうだった。
 入る前にはなかったから、そのあいだに用意してもらったらしき新品のタオルで頭を拭きながらオレは診察室に下りる。
「すみません、タオル借りました」
「じゃあそこに座って後ろを向いて」
 夜にこの部屋にいるのは初めてで、なんだか妙な気分だ。白く薄いカーテンの向こうには木々の陰と暗闇だけが静かにある。
「滲みますか?」
「いえ、大丈夫です」
「本当に?」
 と聞かれた瞬間、ジュッと傷口に液体が浸入し一瞬うっと息を止めた。
「ほら、痛い」
「……わざとでしょう」
 恨みがましく言うと、くすりと後ろで笑った気配がした。
 なんだってこんな普通にしてられるんだろうと思い、すぐに気づく。彼は知らないのだ。橋のうえでただ立ちつくしていたオレを。自分を裏切った男の存在を。
「はい、おしまいです。思ったより傷が浅くてよかった。縫わなくてよさそうですし」
「平気ですって言ったでしょう。薬つけたらもうすぐ治りますよ。傷の回復早いんですよオレ」
「そうですか?」
 丁寧な手つきで傷口を簡単に消毒すると、先生は黄色に赤く滲んだ綿を捨て、ピンセットをカチャンと筒に中に入れた。「病院って便利ですよね」としみじみ言うもんだからちょっと笑った。
 シャツを着ながら、ここから家までの距離と疲労具合を考えてタクシーで帰るかと思っていると先生が壁時計を見て言った。
「客用の布団がないので、すみませんが私のでいいですか」
「え」
 言われた意味がわからずに聞き返すと、
「もう遅いし今夜はうちに泊まっていってください。妹さんにも泊まりと言ってるんでしょう? こんな時間に帰ったら驚かれますよ」
 日付も変わらないうちからアイツが寝ているとも思えないが。
「でも……」
 ぎくしゃくとためらっていると、ふわりと先生が微笑んだ。
「疲れたでしょう? 幸いお互い明日は休みだし、昼までゆっくり寝てから帰りなさい」
 思いもよらぬことになった。
 ともに二階にあがり、差し出された洗いざらしのシャツにオレは黙って瞬きをくり返した。





「acepe」前編・終

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