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22)
弱ったな、と所在無く掛け布団の上にあぐらをかいて、天井をぼんやりと仰いでため息をつく。
湯でまだ少し火照った体からわずかに消毒液の匂いが立ち上る。借り物のシャツの前を外して、等身鏡に背中を映した。打撲……じゃないな。赤くなっている傷は、まるでブロック塀に思いきり擦ったようだ。いずれにせよ、こんなものたいした傷じゃない。彼に比べたら。
またあの気持ちがよみがえってきて、手首のところで額を数度こづく。息をはいた。
やっぱり帰ればよかった。
疲れてはいるんだろうけど、いまだけはここにいたくないと思う。
先生がオレに笑うのが苦しかった。彼のそばから離れていたい。わかってる。これは逃げだと。
――また、逃げている。
さらに気持ちが暗くなって、せめて早く寝ようとオレは決めた。時計はもう日付を変えていた。さっさと朝を迎えよう。
もう彼は寝ただろうか。
客用の布団がないからと、橘先生は診察室のベットで寝ている。オレがそっちに寝ると言うと、
「病院のベットですからやめたほうがいい」
医者だからって抗体ができているわけでもないだろうに。
目を閉じると、この部屋から一枚だけ持っていった毛布にくるまって眠る彼がまぶたの裏に見えた。
そうか、いま彼はオレと同じ屋根の下で寝ているのか。強さと穏やかさの交じり合うあの瞳を閉じて。
そう思って、オレは逆にパチリと目を開ける。
いま階下に行き、ほんの少し身を近づければ触れれる距離にある。
「……なに考えてんだ? オレは」
くしゃりと髪をかき混ぜて手元に目を落とす。最低だ。横向きになり、やわらかで軽い布団をかぶった。無理矢理目を閉じる。そうしないとわずかな時間も眠れそうにないから。
けれど鼻は敏感にいつもと違う匂いを嗅ぎ取って、オレはすぐにまた目を開けた。
「寝よう」
言ってはみたものの、本当に寝れるのか怪しいものだと思いながらくしゃくしゃと寝返りをうち、やっぱりそのとおりだということをオレはすぐに実感することになった。
「……だめだな」
ガバリとまったく眠る気配のない頭と体を起こす。
喉が渇いていた。
からからじゃないが、眠れないときには不思議とこうしたささやかなことが気にかかってしかたない。もし先生が起きているようだったら水を一杯もらおう、とオレは立ち上がった。
電気をつけるのもややためらわれて、足音をたてないようにして爪先からぺたりぺたりと冷たい階段を降りていく。
病院だと思うからか。診察室のある一階はどこかひんやりとした空気が漂っていた。
暗い。
ああ、もう寝てるか。無理もない。あの傷のせいで発熱とかしてないだろうか。逆に少し心配になる。
ドアは開きっぱなしで、代わりにクリーム色の厚いカーテンだけがかかっている。診察室の電気はもう落とされていた。
……じゃあいいか。
勝手に二階の台所で飲ませてもらうことにしよう、とすこしだけ隙間のあったカーテンからそっと中を伺ったオレは、そこに佇んでいたひとに、思わず声をあげそうになって慌てて壁に手をついた。
あまりに静かに闇に溶け込む身体に、思わず半歩後ざすりそっと息をつく。
彼は、寝ていなかった。
さっきの服のままで、橘先生は窓辺に椅子を寄せて裏庭を眺めていた。
ドアの影で立ち尽くした人間に彼が気づかなくてよかった。夜の中でひそやかに呼吸している木々や淡い月。彼はそれらをぼんやりと見つめている。手には数時間前に買った苺の鉢植えから取った果実があった。
それを緩慢な動作で口元に運んでちいさく齧る。歯の間からじゅわりとあふれた果汁が手や首を冷たく伝っていっても特に気にする様子もなく、窓から視線を外さないまま、しどけなく深く背もたれに身を預けてその赤い果実をゆっくり咀嚼する。音がこちらまで聞こえてきそうな官能的な食べ方。
舌全体で果実の欠片を転がし、やんわり磨り潰す。
したたり落ちる汁は、まるで神の蜜のように甘たるく指の股をつたっていく。広げた指の隙間を埋めるように唇で食む。そこから舌を出し、指のつけ根を緩慢な動作で舐め取る。なにかの代わりのように。
そのあいだ、形容しがたい塊を抱えた黒い瞳だけが月に向けられていた。
机のライトと、たぶん彼が見ている月あかりだけが光源。
すべてがきちんと整った夜の診察室で、彼のいるそこだけがあきらかに違っていた。
いまや夜の診察室は、彼の身から羽衣のように放たれる芳香に惑わされ、空気を濃密に保ったまま、蜃気楼のように不安定にひそんでいる。それでも饐えた匂いをまったく感じないのは、彼の横顔にいまだなにかの意思がともっているからだ。
薄闇で見えずとも分かる。
あの眼球の中にある満月は、夜を凝縮したみたいに黒く。堅く透き通った宝石みたいに純粋だ。
オレはただすべての動作を忘れ、呆然とした。
――橘先生。
彼はいつも体温も呼吸も抑え気味に過ごしているようで、禁欲と理性の裏に潜ませたものをほとんど勘づかせない。それがいまはどうだ。普段無意識に封印している自我を蝶を放つように解放させている。
潔癖さと正反対のこんな面もあったのかと、引力に添うようにその光景を見つめた。
眠っていたものが目を覚ましそうな予感がオレのなかでする。
スラックスから出したままのシャツが描く、しなやかな腰の線。
細すぎはしない、長く綺麗な形の指。
熟れたように濡れた唇。
わずかに開いた窓から夜風でも吹いたのか、ふいにちいさく彼が身じろぎをした。
名残り惜しむ接吻のように、そっと甘い指の腹を吸いあげると、離した手で反対のむき出しの腕を抱く。
近くなった肘を今度は逆の手が包む。うつむいた。まるで卵の殻に入ったように。
やはりオレはずっと前からそれを知っている。
少なくとも、いま先生が抱いているのは寒さでなく、彼の癒されない孤独なのだと分かってしまったくらいには。
ひとを思いきり後ろから抱きしめたいのは、きっとこういうときなんだと痺れるように痛感し、同時にオレは必死で耐えた。壁についた手をきつく握りしめる。
だれを。
だれを想っているんですか。
そんな、全身全霊で生きている姿で。
パラ、というかすかな音に、いままで読んでいたらしいノートが机に広げられているのに気づいた。
おぼえている。パラパラ…、と風がめくった最後のページに、オレが書いた一文があるはずだ。
いつか渡す彼へのメッセージ。
夢の中で、はるかな力強さをこめてくり返した言葉。
――あなたの大地を忘れないように。
ふと呼ばれたように、せつなげに目を細めたまま彼が顔をあげた。一度月をじっと見上げて視線を戻し、身体を抱きしめたまま星のしずくのように光った目を閉じた。
うつむき加減のままじっと身じろぎもしないその静かな横顔を噛み締めて、オレはきびすを返した。来たときよりもっと慎重に、猫のように足音を立てないで。
とそのとき、暗い廊下でつま先がガツンとドアに当たった。
静寂にいきなり音が割り入る。軋みながら閉まろうとするドアをとっさに押さえた。つま先の痛みよりも心臓が一気に心拍数をあげる。どうしてオレは最後の最後でツメが甘い。
ハッと早足に歩みよってきた先生が、カチリとつけた電気の下で侵入者の顔を認める。
「あ……」
声を漏らしたのはどっちだったか。
気まずげな雰囲気が漂った。
「先生」
泣いて? それとも?
わずかに潤んだ切れ長の眼。ときに気高く、存在を美しいと言わせてしまうだけの強さがそこにある。けれどいま、白く照らされた人工灯の下でその眼はとても無防備に見えた。
「水を。喉が渇いたので……」
声が掠れたのは怯んだせいだと信じたい。
「あ、すみません。気がつかなくて」
「いえ、いいんです。台所のコップを借りていいですか」
「そうですね。下にもちいさな冷蔵庫があるんですけど、ちょうどいま、飲み物が入ってない……ような。ちょっと待っててください」
「いいですわざわざ。座っててください」
「じゃあ上の冷蔵庫にミネラルウォーターが入ってますから、それを」
「ありがとうございます。じゃあ、おやすみなさい先生」
スムーズな会話の見本のようだった。先生が見つめている気配を背中に感じながら、オレは一定の速度を保って階段を登った。
台所へ寄ることもせずに寝室に戻って戸を引く。最後の二段ばかりは、もう気もまわらずに踵を引きずってしまった。
何度か大きく肩を上下させ、呼吸するとだいぶ気持ちは落ち着いた。
打ちのめされてなんかいない。
自分に言い聞かせながら横になる。あの眼。どこかで見たことがある。先生じゃなくて。
とまどいを抱えてドアの先にいた少年。見た瞬間、欲望と自制心の狭間で揺れたこの心臓。一瞬顔が歪んだのを隠すために空いた微妙な間を覚えている。
あれは……いつのことだったか。
あのとき自分はなにを考えていた?
気になりながらも、いまはそれを追求する気分じゃなかった。足指と布団をすりあわせ、ため息をついて目を閉じた。なにも考えずに眠りたかった。だって眠ることしかできなかった。
頼むから今夜ばかりは出てきてくれるなと願いながら、今度はたいした抵抗もないまますぐに常闇に落ちていく。すべてを放棄するように。
虚無さえ感じる風が耳元でうなりをあげる。
やがてひたすら乾いた夢が、砂塵とともにオレをいざなっていった。
「acepe」前編・終
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