acepe


23)




 夢を見る。
 廃墟さえも乾燥した風に塵と消え、地平線まで広がる砂漠をさすらう夢を。
 太陽の見えない重い空を見つめているのはひとりの男だ。そうしている間にも手や体はどんどんひび割れかけていて、見ているオレは「ああ、乾いているんだな」と冷静に思う。
 そして同時に気づいた。
 怖くない、悲しくないと言ったけれど、それは起きたときにはすっかり忘れているだけなのだ。まるで目覚める前にだれかが拭い取って送りだしてくれるかのように。
 夢を見ているときだけ気づく。
 現実はいつも自分が思っているより一生懸命だから。地面に手を着き、悲嘆にくれる間を許さないぐらいには。
 いま目の前には地平線まで乾いてひび割れた大地が広がっている。生き物が死に絶えたようにしずまり、ときおり思い出したように風が吹く。
 こみあげる警報が喉元いっぱいにあふれかかって、げえげえと臓器の中のほとんどの水を吐いたら、いよいよ中にはなにもなくなって、男は重い脱力感に襲われた。
 だれもいない。だれもいない。
 前進すればするほど、自分の他にはだれもなにもいっさいないのだとわかる。
 それでも、歩き続けていた。
 記憶が凍るぐらい長いあいだ、男が遂行する目的もなく踏み固めつづけた大地にはもう花も咲かない。体と大気から同じ比率で水分が失われ、身体の先のほうから、どんどん乾いていく。例えば指先。抱き合っているとき羞恥を堪えて噛もうとする代わりに与えた固い指の節。
 熱く湿った息と、くぐもった喘ぎ声がよみがえる。
 いままた急速に乾いていくのは、いつか絶望に打ち砕かれたとき、たやすく砕けて二人交じれるようにだろうか。
「あ、のひと……は?」
 しゃがれた声が、鼓膜で奇妙にからまった。肉声とも思えぬ不気味な声に、果たしていま自分はひとの形をしてるのだろうか、という疑問さえ湧く。
 一歩踏み出すたびに、苛む嫌な予感。
「――……さ…」
 呼びかけながら、脳までもだんだん乾いていくのを感じる。
 まずい。
 やがて空っぽの肉体に、無気力に陥る時間がたびたびやってくる。肌の毛穴という毛穴から水分が蒸発していく。声を涸らして名を呼びながら、砂塵交じりの大気に空咳をくり返した。
 脳漿がさらさらと風に舞う錯覚。こうして少しずついろいろものの記憶や感情を砂漠に捨てていって、最後に残るのは、ゆいいつ最後まで共にある名前なんだろうか。入水自殺のあいだくり返し唱えるような信仰めいた。それは、魂と同じ重さだ。彼がいるとき、男に真の意味での恐怖は訪れない。彼がいない時間はいつだって水が足りない。生きていけなくなる。
 干からびた脳が半分ほどなくなったとき、朦朧としていた意識がやっとひとつの答えを導き出した。
 ――死のう。
 すぐそこに「死」がある。
 自分はいま、ひとりだ。
 ――なら、死ねる。
 気づいた瞬間、心は広く、どこまでも澄み渡った。くまなく見渡し、男はこの世界で初めて少しだけ微笑んだ。
 鉛の空からとても細い光が、砂漠を照らしている。
 涸れた大地を。
 自分を。
 そうしてぞっとするような笑みを浮かべた俺を、泣きたくなるほど哀れだとオレは思った。





「……ぁあ、……あ、ア!」
 遠く叫んでいた声がグンと急激な波となって身に迫る。
 悪夢から逃れるとき、声を出せと脳で命令を下す。手足や眼球は金縛りにあったように動かないから、声を出すことで粘膜のように貼りついている恐怖を破れと。
 発作みたいにうなされる悪夢から現実へ。もうすこし。
「……っ、あああああっ!」
 一点を突かれたような急激な反応。呪縛を解くように自分の唸り声で目が覚めた。
 大きく跳ねるように、オレはガバッと上体を起こした。一瞬「起きた」というのが理解できずにとまどう。脳が混乱してまともな思考を止めている。もう震えてはいないのに片手で自分の腕を掴んで背中で浅く息をくり返す。
 小刻みな呼吸がゆるやかな下流曲線を描くようになってから、撃たれたように麻痺していた頭がやっと現実を受け入れ始める。
 ここは橘医院の、橘先生の、部屋。
 白い天井に、オレンジの豆電球だけがちいさく灯る、室内。
 跳ね起きた背中が、いままで横たわっていた、布団。
 そして――
 自分の手首を掴んだ手に、力をこめた。
 横を見ると、ドアの横の鏡が動けないでいる人影を映し出していた。しばらくそのまま姿見の中の自分と向き合う。
「これは、オレだ」
 つぶやくように確認する。確認せずにはいられない。それくらいあの姿は人間からかけ離れていた。とっさに自分の皮膚が乾いていないことをこすって確かめていると、慌ただしくガラッと戸が横に開いた。
「大丈夫ですか!?」
 すべての電気をつけて先生は駆け寄り、
「声が聞こえたので」
 と心配に瞳を揺らし、呆然としているオレを映した。
「先生……」
 ほっとした。そしてひどく助けてほしいと乞いかけ、それを気取られぬように瞬時に平気そうな肌の下に押し込めた。オレにはもう、そんなことを願う資格などない。
 さっきまで砂漠にいたみたいに、悲鳴をあげた喉は掠れて痛んでいて……いや、それとも喉が渇いたまま寝たからあんな夢を見たんだろうか。
 思い出した。
 そうだ――水をもらいに降りた先で、このひとを見て。
「もしかして傷が痛むんですか? 熱が出たりとか」
 まだ寝ない気なのか。着替えもせずに、膝をついて心配そうに見ている。いつもの他人ばかり優先させるひとの顔だ。
 孤独というものに世界があるのなら、彼は蒼天を望みながら凍れる大地に虚しく爪をたてる白い虎に近い。それに比べて自分の孤独は、ただひどく乾いたものだったらしい。そこには寒さも痛みもない。世界すべての感触がなくなって、ゆいいつ渇きを止めるものを求めながら干からびた皮膚で流浪の旅をしつづける。
 ふと、不思議な悲しさに胸をつかれた。
 砂漠。
 さっき見た景色に理由がついたような気がした。あれは確かに「オレだけがいる」世界だった。とてもわかりやすく。
 大きく首をふり、それによってちょうど熱を計ろうとした彼の手が振り払われたのを確認してからオレは冗談めかして言った。
「大丈夫です。ちょっと変な夢を見ただけで。よく覚えてないけど、なんか鎌持ったおばあさんから必死で逃げてる夢でびっくりして」
「おばあさん」
 ごめん、ハルおばあさん。
 ふと浮んだ人に謝りながら、都市伝説みたいに幼稚な内容を苦笑混じりに語ってみせる。
「もう腰もすっかり曲がってるのに、ローラースケートでも履いてるみたいにものすごく足が早いんですよ。オレは光の並んだ明るい高速道路を走ってるんですけど、向こうはなにか怒鳴りながらぐんぐん追いついてきて。で、鎌振り上げられてもうダメだって思ったところで都合よく眼が覚めました」
 あたかもそんな内容に本気でビビってしまった自分を軽く恥じてるような演技は、芝居命の友人が見たら速攻でダメ出ししてくるようなシロモノだっただろうけど、先生は一応でっちあげの悪夢で納得したようだった。
「もう大丈夫ですか?」
「続きとか見たらいやですけど、さっきのですごく疲れたから、たぶん今度は夢も見なさそう」
「ひとりで寝れますか」
「寝れないって言ったらいっしょに寝てくれるんですか?」
「必要なら」
 と、先生は微笑んだ。「あなたが眠るまでそばにいますよ」
 オレもつられて笑う。
「子守唄でも歌ってくれるんなら考えますけど」
「唄は苦手ですからずっと見てましょう。あなたの寝顔を」
「じゃあやめときます。緊張して寝れなそうだから」
「――おやすみなさい。明日はゆっくり起きてくるといい。電気は?」
「おやすみなさい。いいです、そのままで」
 先生は少し笑った。
「ときどきあなたがもっと無防備になればいいと思う」
 すっと手を出されたかと思うと、額に触れてすぐ戻った。熱をはかっただけのようだ。
 先生の若竹のようにまっすぐな背中が、閉まったドアの先に消えた。
「――!!」
 とその瞬間、ズッと血の気が引き、オレの顔に貼りついた薄っぺらい笑みが一気に失せた。急激に襲った喪失の重圧に震えながら、布団をきつく握る。
 いかないで。
 また、ひとりになる。
 河原に伏せたまま動かない白い影がたちまちフラッシュバックする。鼓動がせわしなくなり、すがるように視線を上げた。
「――待って!」
 気がつくとオレは布団を跳ね上げて、彼の背中を追いかけていた。「待ってください! 待って! 行かないで……!」
 足音に驚いたように止まっていた彼の腕を、階段の途中できつくつかまえる。震えそうな声で、滲みそうな視界で、オレは本心から告げた。
「……いかないで」
 先生はさっきと少し表情をあらためてオレの虚勢を見抜き、そしてそっと、つかまれていないほうの手をオレの腕に重ねてじっとこっちを見上げた。彼はひとの感情の動きにとても敏感だ。気を配っているのではなく、鋭い勘に近いもので。
「こわい夢でも――……見たんですか?」
 もう取り戻せない。知ってしまった。
 あのとき、すべてが涙の中に砕けた。
「聞いてほしいことがあります」
 きっとオレはこのひとに、自分の罪を告白することになる。
 彼はどんな反応をするだろうか――。うなだれたまま、オレはきつくまぶたを伏せた。





「acepe」前編・終

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