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24)
「水、もらえますか」
とオレが言うと、先生は診察室で待つように言って、固定した足をややかばうようにして再び階段を登っていった。
麦茶を受け取ると、白く冷たい陶器の中でふたつの氷がぶつかり涼しげな音を響かせた。
つい視線をさっき先生が座っていた窓辺にやると、
「もう落ち着きましたか」
と遮るように先生が言う。そこにはあの物憂げな表情など微塵もない。まさか幻じゃあるまいな、と自分を疑うほどに。しかしさっきまで窓が開いていたことをあらわすように診察室は廊下より少しだけ冷えていた。
「寒くありませんか?」
「いえ……大丈夫です」
先生は少しだけ迷って、シャツの上から白衣を羽織った。
いつものカウンセリングと同じその姿に、日常的な穏やかさを感じてあやうく流されそうになり、ぎゅっと緊張を纏いなおした。
なかったことにすることなんて、簡単だ。
都合の悪いことだけ、忘れたいと願えばいい。
自分しか知らないのなら、自分だけが抱いて水底へ沈めばいい。
そうすれば消える。
夢も――数時間前の罪も。
「なにか、あったんですか」
ギクリとし、彼が言ってるのはさっきオレがうなされていたことを指すんだと気づいて、つまらせた息をゆっくりはいた。
ひどい悪夢を見た。彼がいなくなって、その現実に気づいたら死のうとした。救いもなんにもない。けれど、羨ましいぐらいにわかりやすかった。
けれどここは、果て無き孤独だけがはこびる砂漠ではなく、平和な、ひたすら平和な街なのだ。火傷せんばかりの熱情で求めあった恋人たちと違い、オレの手は冷えている。自分の煮えきらない冷淡とも言える部分を見据えるのはつらい。ときどきむしょうに叫びたくなるが、いったいなにを叫べばいいんだろう。
シャツの上から腕をぎゅっと握ると、自分の手に固い反動が来る。たいがいのことは自由に動く、完成に向かいつつある成長期の体。たぶん、筋力だけなら目の前の人よりわずかに強いはずの。
オレは黙って役立たずの膝を強く握った。ジリ、と妬けつく胸を堪えるように目にだけ力をこめた。
「さっきから様子が変ですね。戻ってきたときから……いや、もっと前。神社に戻ったときから?」
ふっと原因に思い当たったように、先生は表情を翳らせ、それでも気丈に笑ってみせた。
「私が、怖くなりましたか」
「ちがいます!」
大いなる誤解に、とっさにオレは叫んだ。「どうしてそんな風に考えるんです! オレは、先生のなにも恐れてやしない。オレが怖かったのは、先生でも、『あれ』でもなくて、もっと別のものです」
目の前の顔をにらみつけた。彼特有の目がオレの怒りを吸収して、代わりに無言の語りかけをする。その視線に耐え切れず、歯を噛んでうつむいた。
「オレは……昔から執着するものなんて、特になかったから――だから、逆に自分より大切なものができたらなにを捨ててでも守れると思ってました」
地位、プライド、友人、恋人、家族。
「それぞれ普通に大事でそれなりに愛せるのは、たぶん自分の中にどうしてもゆずれないものがないからで。このままなんとなく年月が過ぎる中で、じゃあいつか自分より後に残さなければと思うものができたら、オレはそのために身を捨てようって。それはまんざらじゃない気持ちで。そんなものがあらわれるのを多少心待ちにするくらいには。でも、あのときオレは――」
舌先が毒で痺れた。苦々しさに顔をゆがませながらもオレは、
「あなたを一度見殺しにしたんです」
うめくように……つぶやいた。
「先生を、助けられなかった」
先生は驚いたように少し目を見開き、でもすぐ首をふってやさしく微笑んだ。
「見殺しなんて……。あれは不可抗力でしょう。まぁ、今日はちょっとふいをつかれてしまったけれど、でもそれはあなたのせいじゃない。現に私はいま無事にここにいる」
「ちがう」
「なにが。どうしてあなたが悔やむんです」
問われても、その先は口にしにくい。片手でまぶたを覆って耐えた。返事のないオレの頭に手が置かれた。痛みを吸い取るように。ああ、と心の中でうめいた。彼に去られることがこれほどまでに苦しいとは思わなかった。
いまだって肩に置かれた手を思いきり引き込んで押し倒し、そこに在る命の水を、喉仏に齧りついてすすりあげたくなっているのに。
ずっと、人間として好きなんだと言い聞かせてきた。それならこの温もりも、彼がだれにあたえても普通に喜べばいいのに、それができないこの激しい感情はどこから来てるんだろう。いまあるのはこのひとのすべてを自分のものにしてしまいたいというバカな独占欲だけだ。しかしそれすらオレは手放した。
――あれがむきだしのオレなんだ。
他のだれよりも、ここにいる資格はない。
このやさしさに甘えてしまいたい誘惑を抑えて、オレは自分の身にナイフを刺す。他人の嘘を鋭く見抜く人だ。爛れた心臓を思いきりえぐった。
ならばいっそ全部を見せてやれ。
「違うんです。やろうと思えばできたんです。先生が橋から落ちたとき、すぐに飛び込もうとしました。けど……どうしてもできなかった。うねった川が底なしみたいに異世界じみてて、一度飛び込んだらもう二度とこの世には戻ってこれないんじゃないかって。そしたら急にものすごく怖くなって」
一歩も前に進めなかった。
「のぞきこんだままどうしようもないまま途方にくれてた。そんなところに先生は落ちたのに。……助けられるのはオレしかいなかったのに! いこう、と思ったんです。けど、この体があのときまったく動かなかった」
「誓う」と言い放った言葉は、あのとき神棚で揺らめいていた蝋燭のように、不安定でたやすくうつろいゆくものだったのか。
心を体が裏切り、呆然とするばかりで軽い恐慌におちた。はじめて自分を「怖い」と思った。
一瞬の判断が生涯つきまとうことがある。オレの場合はあの瞬間に違いない。それでも、繰り返すとしたらオレはまた同じ道を辿るだろう。それくらい本能に近く、近いがゆえにオレは自分を許せなかった。深く反省したら次はきちんと間違えない。そうじゃないからわけがわからなかった。
先生を殺すか、自分が死ぬか選べというなら、オレは間違いなく自分が死ぬほうを選ぶ。
けれどあの川に落ちたのがだれでも、肉親でも親友でも、オレは反射的に飛び込めなかっただろう。意志があればできることが、本能だけだったらなんて惨めで馬鹿げているんだろう。
薄っぺらな自分の底闇を深い井戸のように覗き見た気になった。どんな暗く濁った色をしているのか。直視することはできないまま、切り離した心臓が秤にかけられる。
死者が己の魂の正当さを計るという、魂の計量。
あの絵の主人公にオレはなる。
公正を務める審判は二人。よく見知った顔だった。地につくような白いローブを着こんで、膝と両手をつくオレを二面鏡のように向かいあいながら、横目で黙って見下ろしている。やはりあざ笑うか、と脆息しながら、彼らを力の入らない目で睨みつけた。
悔しい。羨ましい。あんたたちみたいにだれかをあんなに求めたい。けれど叶うはずもないのだ。現にオレはできなかった。おまえたちとオレは違う。もう信じられない。こうしてなに不自由なく安穏とした生活の中で、あれほどまでに強く誰かを求めあえるなんて。
――殉教という愛なんてくそくらえだ。
あの二人が超えてみせた一線は、ほのかな芳香だけ残し美しく残酷に消えていく。
「……っ、だから」
くやしくて。くやしくて。何度もかぶりをふった。
「本当は追いかけたかった。救えないならオレも一緒に沈みたかった! できると思ってたのに……。ぜったいに、できるって信じてたのに。オレが、オレが『直江』だったら……!」
オレは確かに誓ったはずなのに。
その思いは嘘じゃなかったのに。
ああそうだ、オレは信じたいんだ。諦めたくないんだ。オレがオレであるかぎり、自分よりも優先させる存在があると信じたいのに……!
「オレが……オレが、直江だったら……ちゃんと、ちゃんと守れたはずなのに」
命より大切なひとを、迷わず全身で庇い守れたはずなのに。
「認めない。認めたくない! オレが『そう』じゃないなんて。オレは、『俺』であるはずなのに!」
わめきながらふいに視界がゆがんで、オレは自分を立ちすくませている感情の名を知った。オレは嫉妬したのだ。直江に……「自分」に。嫉妬したのだ。
結局ここまでだったなんて、勝てないなんて。
自分に。自分の理想に。
あの夢に。
「なんであのとき、オレは――ッ!!」
『あなた』を。
返ってきたのは、静かな声だった。
「死にたくなかったんでしょう」
瞬間、オレの中に水を打ったような静寂が生まれた。
けして吐き捨てられたわけではなく、ただそれだけを口にされた。息が止まった。先生が真顔でこちらを見ていた。
「死にたく……なかった……?」
審判と同じ白い服を前にして。
オレは、呆然とくり返した。
――そうか。
それだけなのか。
それがオレの本性なのか。
「――は…」
ゆっくりと大きく目を見開く。思わず口が笑いの形に広がったのが分かった。不気味にオレをからめとり、ねばついた腕を後ろからまわして目隠しをする影。重油のような匂いと重さに真っ暗になる。壊れたように笑う自分の声だけがこだまする。忘れることはできないから、せめていっときのあいだ目を背けていようとしていた暗い影が再び射す。
「ははっ、はははっ、ははははは……!」
黒い影は自分自身だ。
あの化け物と同じ笑いを浮かべて、「行く」と振り払おうとするオレを羽交い絞めにする。あのとき橋の上で足をからめとった正体。
それが最低最悪の自己愛だと判った瞬間、たまらず身を抱いてうずくまりたくなった。
死にたくなかった。
死にたくなかった!
つんざく嘲りが喉の中でひっかかって、叫ぶことさえ封じられた。
どうしても、オレは、オレのために死にたくなかった――!
「はははは、ははっ、……っは、は……ぁっ!」
呼吸のしかたを忘れて、酸素が欠乏状態になった。指先が震える。ぐらぐらと視界が歪む。
まずい、倒れ――
「!」
厳しい声が脳を揺さぶった。ハッと顔をあげると、
「落ちついて。大丈夫。まずは口で、吸って。――吐く。そう、深呼吸して気持ちを落ちつけて」
「ぁ……っ、ん……っ」
「前かがみになってつま先を触って。体の力を抜いて――大丈夫だから……」
言うとおりにすると、ようやく腹のあたりが呼吸の開始とともにかすかに動くのがわかった。自分の息づかいを感じるくらいになると、足りなかった酸素を取り戻そうと体が一気に蠢き出し、汗が吹き出た。荒い息づかいをくりかえしながら、オレは熱にうなされるようにうまくまわらない思考で先生を見た。
そして痛ましげな表情を向けられているのが、自分だと知って動けなくなる。
深い水の中で苦しんだはずの彼に蔑む色は欠片もなく、ただ痛ましそうにオレを見ていて、まるでオレのほうが本当に大けがでもしてるような錯覚さえ覚えた。血のしたたるナイフを手にしたように、悲しそうに見下ろしている。
「――あなたのせいじゃない」
その場にふさわしくないほど遠く、穏やかな声だった。
口先だけのなぐさめかと、カッと怒りにまかせて顔をあげると視線がかちあった。
ゆれることをやめないオレの眼と正反対に、動揺の欠片もない、凪のような静けさに息を飲んだ。そこにあるものを認めた瞬間、オレは熱病のように問うていた。
「……なにを知っているんですか」
オレの知らない、どんな理由を。
彼は答えなかった。けれど嘘もつかなかったから、そこにある色だけがこの世のすべてのようにオレは無防備に曝されている真実を一心に見つめつづけた。
オレのことで、彼だけが知っていることなんてなにも……。
と、唐突に閃いた考えにぞっとした。まさか。
「あの夢のせいですか? オレが見てる! ならなんで先生がわかるんですか。先生だけが知る理由があるんですか。だったら教えてください! 頼むから!」
じゃないと、オレはいつまでもこの後悔を抱いて生きていかなきゃいけない。まわりすべて塞がれたまま。自分自身を信じられないまま。
いったいいつまで?
一ヶ月? 一年? それとも一生――?
先生は無言で首を振った。原因ではなく、教えることを否定するようにちいさく。だがオレはすでに確信を持っていた。彼が、自分の深層部分において、彼しか知りえないことを知っているという確信を。
「どうしてですか。オレはきっとこれから今日という日を背負わない日はない。それでもと先生は言うんですか」
視界に彼だけを写して、食いしばった唇の間から言葉をほとばしらせた。苦しみながら。
「それでも生きていけとあなたは――!」
泣きそうな眼に力をこめた。オレの意思をからめとって、細胞レベルにまで染みついている醜いもの。
命令を無視し、呪いのような圧倒的な力をもってこの体を地上に留めたもの。
それがあの夢のせいだと?
だとしたら、
「……これじゃあ呪縛じゃないか」
「acepe」前編・終
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