acepe


26)




 怒りが怒りを呼び、ブロック塀を思い切り殴りつけた。バカかオレは。何様だ。彼に言うべきことじゃなかった。戸が閉まったとき、撃たれたように言葉を失って立ちつくす先生の姿が見えた。先生はどこまでも誠意を持って真摯に対してくれたのに。
 ますます自分が嫌になり、自分の傲慢さ、無神経さに、今日何度目かの吐き気がした。そろそろ本気で内臓全部取り替えたい。ずっとなによりオレを救ってくれたひとの所業を一気に否定した。死から遠ざかった途端にこれか。
 ずっと潜めていたものが今夜濁流のようにあふれだしたのを感じながら、街灯の灯る長い坂を突き動かされるように全速力で駆け下りた。
 激しい後悔と自分への怒りに震えそうな拳を握りしめ、かかとや爪先が固い地面を押しやる感触だけを追った。荒い呼吸をくり返しながら追いたてられるように。すがるものを求めるように。ただ一心に。
 上にはおぼろ月が出ている。

 ――夢と現実の世界が近づくような。一番境目があやふやな季節だからでしょうか。浮き立つと同時に不安にもなる。

 ああ、見ろ。なんてバカな夢を見たんだろう。本当に、あの夢はオレの「夢」だったんだ! こめかみに汗が薄く滲む。
「く……そっ」
 あんな感情のぶつけかた。ぜったいに呆れられた。きっともう見放された。 歩道沿いにふっと目に入った淡い色。満開の花をつけた大木によろめきながら手をかけた。ざらついた灰色の幹に祈るようにオレは頭をすりつける。
「アァ…ッ、ウ……くっ……」
 あのときの先生の瞳。突き放された子どものような目を思い出して、ガツンと腕に頭をぶつけた。
 違うんです。聞こえない懺悔をしながら、どうしようもない苛立ちで自分がまた憎くなる。あなたはなにも悪くないのに。
――どうして……。
 痛そうな表情。先生の強い問いかけがよみがえる。なにより彼を最後まで傷つけた自分が憎らしかった。
「言えるもんか……!」
 ガツ、と手加減なく木を殴ってももう痛みなどない。大きな橋を殴った拳。壁や塀にぶつけた拳。それよりも。
 つけてはいけない名だと、知ってはいた。
 日常という箱庭からわずかに滲み出ている彼という存在が胸にせまる。彼に満ちる水に指を浸して、オレはいつもその恩恵を受ける。
 憧れとは少し逸脱したこの思いに、いつからかオレはとまどっていたが、そのとまどいすらいまは懐かく幼稚に思える。
「言えるわけないだろ……っ」
 最後は嗚咽でかすれた。
 オレはまだその感情が持つ本当の底なし具合を知らなかった。ただふわふわした甘いものがたぶん「そう」なんだと勘違いしていた。ぜんぜん違った。そうじゃなかった。甘かった。
 内部から壁を叩くように激しく打ちつづける心臓が、苦しいほど痛い。荒れ狂う波。あの黒い川にも似た汚い濁流。
 ――これが、恋だった。
「くそ……っ!」
 だとしたら、なんて重く苦しい感情だ。相手も巻き込んでふくらんで育って転がっていく、とてつもない暴威。
 いつまで続けていけるんだろう。こんなつらくて、こっけいなこと。ただでさえ疲れることなのに、どうして自分以外のなにかに気持ちの一部をもっていかれなきゃいけない。自分と別離する「自分」なんて。
 呆れすぎてはじめの一歩すら踏み出せない。
「ふざ……けんな……っ」
 もうやめよう。やめよう。やめよう。
 もう忘れよう。やめよう。終わらそう。こんな。こんな底のないもの。喪失感に沈むもの。ほんとうに大切なものを失わないうちに。取り返しがつかなくなる前に。
 涙ではないものが、ぽつりぽつりと頬を濡らしていく。少しずつ粒は数を増やし、やがて猛烈な雨が降り注ぎ、目を開けることもできなくなる。けれど寒さなどまったく感じなかった。忘れさせるほどにオレは心が寒かった。寒くて寒くて叫びたいほどやりきれないものだった。
 空に向かって大きく枝を伸ばす木。固く目を閉じたまま、オレはすがるようにずっとそこに背をあずけつづけた。




 気がつくと、自然と足は慣れた家路を辿っていたらしい。
 玄関は当然もう鍵が閉まっていて、暗闇で合鍵を発掘するのも面倒だったオレは屋根の下でチャイムを鳴らす。濡れた前髪から落ちる水滴がコンクリートに黒い染みを作っていくのをぼんやりとうつむき見ていた。
 すぐに玄関横のちいさな窓にも明かりがついた。
 ドアの向こうに走りよる足音がし、ガチャガチャと鍵を開ける。相手を確認する様子もなく、ドアが開いた。
「なんて顔してるの……!」
 と、妹はオレの顔を一目見るなり苦しげに言い放った。
「なんでもない。大丈夫」
「だいじょうぶって顔じゃないから言ってるんだってば!」
 と、洗面所に走っていく。ああそうか、たぶん家に連絡があったんだろうな、とよくまわらない頭で思った。あの足では後から追いかけることもできないから。
「橘先生と、なにかあったのね」
 取ってきたタオルを差し出して、ほとんど確信に近いように強く言う。オレはゆるく首をふった。
 なにか? なにもない。笑うくらい、本当に。
 いっそあったなら彼の前から飛び出した理由もつく。と、己の行動をいまさら振り返ってますます気を重くした。きっと混乱させたろう。自分のことしか見えない思慮のなさを恥じた瞬間、疲労感が急に襲った。体が立つのを放棄したようにその場に座りこんだ。
「お兄ちゃん!?」
 ひどく、情けなかった。
 顔を見られたくなくて立てた片膝に額を押しつける。濡れた服は冷たかった。
「オレは……ガキだな……」
 どうしようもなく。なにかを察した妹が、ふっと怒りの気配を静めた。ボクシングの試合放棄のように、パサリと頭にタオルがふってくる。オレの胸も思考もすべていっぱいになっているひとを、
「あきらめたら?」
 と妹は言った。
「駄目なんだ……」
「他にもっといいひとがいるよ」
 ちっとも信じていない口調で、頭上から静かに声が降ってくる。聖母の神託のようなやわらかい声を受け止め、オレはゆるゆると首をふった。
「駄目なんだよ」
「つらい恋になるよ。あたしはなんもできないから、もしかしたらすごいきつい恋になるかもしれないよ」
「どうしても駄目なんだ」
 言葉にしたら、あまりに真実すぎて震えた。自分に怒りさえ湧く。さっきやめようと誓ったくせに。
 やめようと――……
 なのにたどりつくのは結局、
「あのひとじゃなきゃ……駄目なんだ」
 そっと肩に手が置かれたかと思うと、オレはふわりと上から抱きしめられていた。驚く。
「うん」
 それだけ言って、妹も目を閉じる。「――よし」
 その一言はひどく優しくて、まだこいつがマシュマロみたいな生き物だったときを思い出す。
 母親に抱かれてうとうとしながらも、おずおずと差し出したオレの人差し指をぎゅ、と握って笑った生き物。きゃっきゃとあどけなくというよりにっこり微笑むように。
 わずかに自分より熱い体温はふわふわの天使なんかじゃなくてもっちり湿っていて、これも自分と同じ人間なんだと、驚きとともに感動したのだけれど。
 あのときの赤ん坊は、スラリと伸びた少女の手足と長い睫毛の下にたたえた慈愛を含む瞳を持って、愛される側から、愛する側へと成長してオレの前に立っている。
 冷えた肌に感じた体温に、オレも震えていた体から力を抜いた。
「おかえりお兄ちゃん」
 そうしてそのまましばらく動かなかったオレたちに、春の雨は淡く優しく降りそそいでいた。





「acepe」前編・終

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