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27)
家に入ってすぐ、橘医院には妹が謝罪の電話を入れた。
自分で謝るべきだと言われたが、どうしてもいまは彼の声を聞くのが耐えられなかった。正直怖い。諦めた妹が、オレが帰ってきたことと心配はいらないことを丁寧に伝える。何度も「大丈夫です」と「すみません」をくり返す会話の切れ端から、彼がずいぶんと心配していることが分かって、そのたびにズキズキとまた胸が痛んだ。
「――はい。……はい。じゃまたね先生。おやすみなさい」
カチャリ、と受話器を置いて妹が振り返る。てっきり小言のひとつやふたつ、言われても仕方ないことだと覚悟していたにも関わらず、オレの座ってるテーブルを素通りしてキッチンに立つと下から鍋を取り出してコンロへかけた。
うつむいたオレの耳に、タンタンとリズミカルな包丁と水の音が聞こえてくる。
「ほら、お兄ちゃん! ぼーっとつったってないで、シャワー浴びてきて」
今夜二度目だ。素直に従って雨を洗い流し、タオルで拭きながら再び台所に戻る。一瞬このまま自室に入ってしまおうかとも思ったが、後からどんな皮肉を言われるか。納まりが悪いのも事実なので、エプロンをつけた背中を見ながらダイニングテーブルのイスに座った。
ちょうどいいタイミングでカタン、と目の前に皿が置かれて顔をあげた。いい匂いが鼻腔をくすぐる。
「悪い」
「ありがとう」
妹が訂正する。苦笑した。
「――ありがとう」
ここにきてやっと笑えたオレは、箸を手に取った。たっぷりのもやしとかつおぶし。そして白ネギ、アオサが乗った深皿からは湯気がのぼっている。スプーンですする、薄口醤油の餡かけスープ。
肉だんごかと思って箸でつまんだら、口の中でアジのつみれだとわかった。しょうがのいい匂いが広がる。箸でつみれを半分に割り、とろみのついた汁にひたす。
ぐるりとかきまぜて湯気とともに、口へ運ぶ。
「コショウいれなかったんだけど味薄い?」
「いいや」
まるで、刺激の強い香辛料は控えることで、少しでも心がなぐさめられるようなやさしい味にしたかったからだというように。
気のせいかもしれないけれど、妹のさりげない心遣いは胃から冷えた体の末端へとじわりと染みていった。ホッと湿った息をつく。
「うまいよ」
そう、と妹が笑う。
「……みっともないとこ見せたな」
「いいよぅ、少しくらい。お兄ちゃんいっつも一人でなんでもできるみたいな顔してるからつまんないし」
「そうかな」
しょうがないなというように妹が笑った。
「早く大人になりたいんでしょ」
思わず皿と口の間で手が止まった。さっきのことか。タイミングを逃がさないように、犯人に確信をせまる名探偵のごとき口調で妹が言う。もうばればれだ。
「……幻滅するか?」
「まさか」
大げさに両手をあげてみせる。そのおどけたしぐさに少し癒された。スプーンを置き、イスにもたれかかって深くため息をついた。湿った髪をかきあげる。
「うまくいかないな。なにもかも」
「なにがあったか、言いたくないんなら聞かないけどさ」
赤ん坊のときにはぜったいしなかった顔で、にやりと笑った。「まどろこしいのが青春スよ。青い春ですよ、お兄サマ」
「おまえ……適当言うなって」
なんだか気持ちが軽くなって、つられるようにオレもついつい口元を緩めた。
眉をよせてくつくつと笑いあいながら、不思議なやつ、と奇妙にもオレは自分の妹に感心していた。
「あたしお風呂入ってくるから、食器は自分で洗っておいてね」
「ああ、ごちそうさま」
「どういたしまして」
妹がうやうやしく執事みたいに大仰なお辞儀をした。
「受験生へDHAの思いやりです。ついでにカルシウムとって、早く立派に大きくなってくださいませ」
調理中きびっていた髪ゴムを外しながら去ろうとする背中に、なぁ、と呼びかけた。
「春眠暁を覚えず、の続きってなんだっけ」
いきなり変なことを聞いたオレに、くすりと妹が笑った。
「しょしょていちょうをきく。だよ、お兄ちゃん。後は忘れた」
「夜河を渡る。暁に見る――ってのは?」
「? 知らない。別の漢詩なんじゃないの? 少なくとも春眠暁を覚えずの続きじゃないよぅ」
あたしに聞くなんてめずらしい、とからかうように言うので「橘先生も間違ったぞ」と言い訳めいた言葉を返すと、
「ふぅん」
とわずかな揶揄を含めて笑い、普段どおり適当な鼻歌を歌いながら「お風呂入るね」と暗い廊下へ妹は身を消した。
「今日は特別ね」
ともったいぶって差し出された見覚えのあるキャンドルに火を灯す。甘い香りが光量を落としたオレの部屋に広がった。
ひとの精神を楽にさせるという蝋燭の炎の動きを見つめながら、やっぱりどうにも気になって、寝る前に久しく使っていなかった漢詩の資料集をひっぱりだした。
分厚いそれは、授業で開いたところだけを飛び飛びに広げる。三度目の適当なひもときで、記憶どおり目当てのものを見つけた。
しゅんみん あかつきを おぼえず、
しょしょ ていちょうを きく。
やらいふううのこえ、
はなおつること しりぬたしょうぞ。
春眠不覺曉
處處聞啼鳥
夜來風雨聲
花落知多少
――孟浩然「春曉」……。
やっぱり全然違うじゃないか。キャンドルの火に息を吹きかけ、首をかしげながらベットにもぐりこむ。
水と湯を浴びてだるい体が、やがて浮力のきかないプールに沈んでいく。
謝りに、行かないとな……。
でもいつ? 当分無理そうな気がする。このままじゃいけないのはわかっているとしても。離れようとしても離れられないことを認識してしまったいま、いつかはケリをつけないといけないのだとしても。力が足りない。まだいろいろなことに耐える力を身につけてから。
――まだ、近づかないで
水の中で意識を手放しかけた瞬間、あっという悲鳴が喉から飛び出した。
「鞭声粛々夜河をわたる。暁に見る――!」
一息に口をついて出た声が、夜のとどまった部屋にワァンと響いた。その大きさに驚いて続きを飲みこみ、再び静かになった部屋で、そうかこれかと感心した。
どこで聞いたのかはわからなくても、そして一番に伝える人はここにいなくとも、少しだけすっきりした気持ちでオレは二度目の夜を迎えた。
眠りが浅いのか、やっぱりおかしな夢を見た。
眠い目をこすりながら、うつむいて夜明け前の川を歩く数人の夢だった。
オレもいた。彼も一緒だった。
がんばれがんばれというように、青白い燐粉をまき散らしながら群れをなす蝶々。ホタルみたいにオレたちの周りをふわふわと飛ぶ。そのたびに水面に青や黄色や白の綺麗な光がついたり消えたりした。
ようやく濡れていない大地に足をつけたとき、ちょうど山の向こうから暁の太陽が昇った。
一本の金色の線が、闇を引き裂いていく。
「見てください。空が明ける」
「本当だ……いつのまに」
一歩踏み出し、オレの斜め前に立った彼が振り向く。
朝日で陰影のついたまぶしそうな顔が、こちらに微笑む。
その瞬間、急速に実感した。
予感や想像を超えて、脳の芯でしびれるように悟った。
どこまでもどこまでも。きっとこの人にとらわれ、惹かれつづけていく。いままでも、遠い先これからも。永遠に。
表面張力をたもっていた器から水が溢れるように、その真実はオレの体中を幸福にひたひたと満たした。
放射線状に霧散する、光の筋。
おお、と一行から感嘆の声があがる。
光る蝶が舞う。
朝日の昇った金色の川の中で、オレも言葉にならない感動のまま、両腕を伸ばして、彼を背中からきつく抱きしめた。彼はもうたじろがなかった。
陽光が乱反射する水面。
朝日がオレ達を白くやわらかく包む。
まぶしさを肌に受けながら、彼の肩口に顔を埋める。
ふと彼がむずがゆそうな顔をしたかと思ったら、「はくしゅん!」と、もう何度となく触れた黒髪から水滴が落ちた。照れくさそうに彼が鼻をすする。
「見ろよ、直江」
飛び散った水滴が光を反射して天に舞い上がり、空で明けの明星となって輝いていた。
借りっぱなしだったシャツは、翌日朝一で妹が返しに行った。
暦が変わってすぐの、ある日の夕方だった。
やはりしばらく橘医院に足を向けるのを避けるつもりだったオレが、はっきりこのひとをなめていたと痛感したのは――
「だれか来たぞ」
「ええ? お兄ちゃん出てー!いま手が離せない」
車の音が止まったのは聞こえていた。
だからまさか思いもよらなかったのだ。
なんの前触れも連絡もなく、玄関のチャイムを鳴らしたひとの姿に、
「……待って」
オレはドアを開けたまま、思わず呆然と言った。
早すぎる。
先生はオレの呟きを無視し、視線を仰ぐ。
「お兄さんをお借りします」
「どうぞ」
いつのまにか妹がすました顔で廊下から言ってのけ、これがこの二人の間で確約されていたことだと知る。
おい、待て。ちょっと――!
黒いスーツを着た橘先生が真顔でこっちを見た。
「……っ」
射抜かれて息をとめる。
「迎えに来ました」
「いやまだ心の準備が、……って、なんで、いきなり、どこへ――」
「二人きりになれるところに」
「――は、い……っ!?」
このひとたまにびっくりするぐらい大胆なこと言うよな。
なんてまったく関係ないところで思考を止めているうちに、車のエンジンがかかる。
こうしてオレの物語は、急速に加速し、一点に導かれるように動き出す。
オレは腹を決めた。動き出したものの行き着く先。ここまでされたらもう目を反らさず見るしかない。助手席でシートベルトをしながら視線を前にやった。
窓の外を流れていく景色が、新緑に染まりつつある。
五月。
季節はゆっくりと、だが確実にこの春を終えようとしていた。
「acepe」前編・終
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