acepe


28)




 標高2100Mの看板が流れて見えた。レンタカーは、モンブランケーキの渦に沿うようにまだ登っていく。いつもと別人のように、有無を言わさない静かな強引さでオレを連れ出したひととともに。
 外に目を転じると、夜と、ガードレールと、見事な枝ぶりの木々と。それらを抜けて滑らかに走る車と、オレと、先生と。煙草のニコチンやタールのように胸にわだかまる過去と、打ち砕かれた虚構と、この瞬間と。すべてを同時に体感している、オレと、先生と、「俺」と。
「もう少しです」
 長い無言のドライブの末、ようやく彼が口を開いた。じゃあ最終目的地は長野でいいのか。息をつき、少しだけ深く腰を沈めた。というか、なんで本当に大人しくついてきてるんだろう。
「私と話したくなければそれでもかまいません。ついてきてください」
 固い口調に、やっといまだ彼が誤解していることを知る。さっきまでの沈黙はそのせいか。あわてて謝ろうとする意思とは別に、今までわだかまっていた疑問が口から飛び出した。
「どうしてですか」
 まただ。やはり聞かずにはいられないのだオレたちは。
 どうしてここまで関わろうとする。
 どうしてもう見限らない。
 どうしてこんなところに連れてきた。
 どうしてこの日に、オレといる。
 返事はきっとないだろうと思ったら、先生は偽る間もなくスッと言葉を発した。
「会いたかったから」
「な……」
 オレの気道をなにかがふさいだ。すべての思考を硬直させる熱い塊が、こうもあっさりと前に出される。
 オレに吟味する間も与えないまま、ようやく車はビニールハウスの前、どうにも一般道とは言いがたいところに強引に止まった。
 ここはどこだ……?
 車を降りると、頬にあたる空気はわずかな湿りを含んで辺りはうっそうと暗い。前方に広がるちょっとした雑木林を見渡し、ずいぶん向こうに小高い丘があるのを知った。
 見知らぬ土地。混乱を抱えたまま見上げた夜空は狭く、こんもり茂った木々の間に見事な満月がかかっていた。オレを拉致した彼は、黄色い月明かりをもとに探りあてたキーのボタンで車をロックして、暗闇にも怯まずひとりでさっさと歩きはじめた。とり残されそうになって、すべてを忘れて後を追う。
 ところどころで飛び出た木の根にひっかからないよう足を進める。風に揺れたぺんぺん草が、少しだけ水分を含んだ音を奏でてオレたちをいざなった。まるでお菓子の家に辿りつく前の二人の兄妹のように。湿った大気にからむ黒髪の下、なめらかですっきりとしたうなじと、わずかに見える先生の透明な眼差しを見つめた。
 発する言葉が何も出てこない。
 森のように黒くて湿った土の先になにがあるのか。会いたかったのは謝罪や詰問のためか。互いのあいだにできてしまった正体のないあやふやなものをはっきり曝(さら)すためか。
 聞きたい。オレは先生のなにもかもを聞きたいし、知りたい。こうして会いに来てくれて、オレは泣き出したいぐらい嬉しく、同時にうずくまりたいぐらいやりきれない。その奥にあふれそうな気持ちを抱えこんでいるくせに、なにもかもを秘めてオレの傍にいるひとの静謐さと孤独を剥ぎ取り、どうしてあなたはオレになにも言ってくれないのかと詰りたい。吐き出したい。それでもオレたちは同じ歩幅で歩きながら声を出せないでいた。
 注意深く足元を進め、パキパキと落ちた小枝を踏みながら雑木林を抜けると、突如視界が開けた。
「!」

 まっ平らな丘より先に、同時に飛びこんできたのは――砂金を散らばしたような夜空だった。

「あ……」
 オレは絶句し、ぽかんと立ちつくした。
 一瞬、何百ものホタルの光かと思った。けれどそれは瞬きこそすれ、動かない。森より薄い春の闇。しかしそれは普通よりももっと白い。すぐに何時間も運転して、先生が見せたかったのはこれなんだとすんなりわかった。さわさわと足元の草原が風に揺れる。オレは目を見開いたままこの圧倒的な何万という輝きを見ていた。
「月が、あんまり綺麗で、冷えていて」
 ずいぶんと迷った後、ようやく自信のない答えを口にするように先生はたどたどしく零した。
 凍えていた胸のあたりからじわじわと熱いものがせりあがってくるのを感じながらオレはうなずいた。
「ええ」
「しかも満月で……ずっと見てたら、ここを見つけたときのことを思いだして」
「ええ」
「月があるからどうだろうと思ったけど、見たくなって、見せたくなって……」
 先生の声が不安そうに消える。もう十分だ。
 月の輝く丘の草原には、オレたちと、どっかにひそんでいるはずの虫や鳥のまじった音。そして空だけがあった。
 何万ものちいさな光をただ仰いだままオレはうなずき、噛み締めるように言った。
「――わかってます」
 心の中でうごめく、得体の知れない胎動。彼がひとりでここに立ったときの震えがつぶさに分かった。知らない街に迷いこんだ子どものように、激しくとまどいながらまわりを見渡したはずだ。これをだれかに伝えるために。自分と同じだけの重みで受け入れてくれる誰かに、この大小さまざまのひかりを。
 月明かりに照らされて、二人分の影がくっきり草むらに落ちる。
 彼はオレを連れてきた。……今日。
 その意味を間違えたくはない。不安の交じった手を握りしめる代わりに、相手をしっかり見つめた。それを真正面から受け止めた先生の瞳に星より強い光が宿っている。彼はいままで見たことがないほど、ぎりぎりの場所で真剣な顔をしていた。
「もう、いいですから――」
 確かに彼は言葉足らずかもしれない。けれどいい。オレにはわかる。それで十分だと思った。
「なにも言わないで」
 お互いになにか言おうとしていることが、触れるように伝わった。しかしそれをせずに、目を伏せて先生はただ微笑んだ。
 張り詰めていた糸がふっと緩む。瞬間、ざわりと足元をすくうように風が撫ぜる。長めの前髪が先生のまぶたを幾度となく擦り、そのたびに彼はくすぐったそうに目を細め、指の腹で房をつまんで払う。その清涼なやわらかさは、何十年も前の世界から届けられたような懐かしさをともなっていた。



先生……星

うん

すごい

こわい?

うるさすぎて

だれもいないのに?



 オレは首をふった。「オレのなかが」
 ああと、先生が困ったように笑った。

「でもひとりじゃないから」

 赤く、黄色く、白く、青い。
 驚きが先に立ち、もちろん色まで判別できるはずがない。なのになぜいま、何度も見た夜空のようにオレは見えているんだろう。
 胸の痛みは激しさを増し、まるで一個の星のように熱を放ち焦がそうとしている。
 その熱さを感じた瞬間、火照った喉の奥でつかえていたものがあふれ、
「……っ」
 オレはなにかを叫びかけた。
 眩暈。酔いそうになる。突如突き上げるようなさびしさを感じて愕然とした。全身を巡る血がどくどくと脈打つ。うるさいのは孤独だ。普段忘れているものを、いまこの瞬間、唐突に思い出したように。叫ぶ。
 同じようにこの丘にたって上を見上げたら、きっとだれだって――!

 だれか、だれかオレを見つけてくれ。

 光が多すぎる、と思った。見慣れずに酩酊する。
 この星空をもう一枚黒いカーテンで覆いたい。一度全部塞いでしまって、針でぷつぷつと穴を開ける。そうでもしないと、この数は曝け出しすぎてて逆に恐ろしい。
 いままで自分が見ていた星空なんておこぼれだ。自分はまだ本当の夜空を知らなかったのだ。嘘くさくて認めたくなくて。毎日の生活のなかに、こんなに自分のまだ知らない姿があったのかと全身が震えた。
 一番大きな穴から漏れる光が眼をさす。信じられない。はるか宇宙にあるくせにどれだけまばゆく光ってるんだ?
 これは――本物か?
 こわい。こわい。こわい。
 現実と虚像の境目がぶれる感覚に、すべてがまぼろしになりそうな予感に、急激な心細さが湧きあがった。
 そのタイミングでオレの手首を先生がやさしくつかみとめた。留まらせるように。
 空を仰いだまま先生がささやいた。
「ここにいる」
 オレが? 先生が?
 まぶたが熱い。湧きあがるものをそっと閉じこめるように瞳を閉じ、オレは笑おうとした。鼻の先がツンと熱くなって、胸がドクドクと痛いくらい打ち始めても、オレは笑おうとした。先生を安心させたかった。あたたかい液体が目の端に浮んでゆらゆらと視界を滲ませる。上を向き、こぼさないように数回浅く瞬きをくり返す。いま指を動かす筋肉の動きさえ本物か疑いたくなる。本当に? 本当にオレはここにいるんだろうか。
 それでもオレたちは確かめる手段を互いのなか以外から発掘できず、手首でつながったまま動かなかった。
 見えすぎると怖いのは、知らないことが増えすぎるからだ。立つ瀬の見えない自分の卑小さを思い知るからだ。だからひとは、ずいぶんと身勝手に人工灯を増やし、空気を汚し、はるか長い時間をかけて星と自分たちの間に靄を張ったんじゃないか?
 そんな理由を綺麗に忘れて、満天の星空を恋い願い、懐かしむのであれば。

 なんてひとは我がままで弱いんだろう。
 そして――なんて愛しい生き物なんだろう。

「遭難したみたいだ」
 とオレは呟く。
「こんな遭難ならしてもいい」
 と先生が囁く。
「そっか……そうですね」
 届いてほしい。あの先にこの気持ちを。
 ちらかる星に手を伸ばしたオレに、先生も隣でクエスチョンを指で夜空に描く。たえず動かない星の見つけ方を教えてくれた。
「北極星の光は、400年かけてここに届くんですよ」
「……そんなに長いあいだ?」
「そう。どんなものでしょうね。その光が見る、出発からこの地に降り立つまでの景色の移り変わりというのは」
「全然違うでしょうね」
「そうですね。でもまったく変わらないものもあるかもしれない」
「……そうか」
 とオレはいっそすがすがしい気持ちでつぶやいた。「だとしたら、なんて幸福なことだろう」





「acepe」前編・終

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