acepe


29)




 自分たちが変わらないことをそのものだけが知らない。きっと変わっていくいろんなものに不安ばかり感じて足掻いている。けれど後から見たら結局流れつづけている一すじの道で、魂は変わることなく在りつづける。
 形は消えても、それが生きたあいだに触れあったいろんなものが少しずつ受け継いでいくなら、炎は絶えることはない。獣の時代に見た星空を懐かしむ遺伝子のように。何千、何億のときを超えて戻ってくる。
 彼に会ったとき、確かにオレは、オレに語りかけてくる言葉たちを聞いたと思う。
 あのとき、春が満ちる診察室で。
 言葉にできない部分で、宇宙並みのとてつもない時間と広がりを一瞬で展開し繋がらせることができたと思う。
 銀河――天に流れる星の河。
 あの祭りの黒い川は、オレの表面を洗い流し曝け出し剥き出しにさせた。しかしいま、はるか遠くから届くまたたきが、喪失したオレの心に荒くばらばらと、けれど熱だけはもって散りばめられた。
「先生」
「ん?」
「オレ……生きていてよかったと思います」
 胸が痛むほどに告白はやなり苦しくて掠れたけれど。いまは言いづらいことほど、紡ぐべきだと思った。ちゃんと言葉として。
「生きててよかった」
 いくら彼がかまわないと言おうと、罪は消えない。きっとあのとき動けなかったことに対してオレは苦しみ、やっぱりときどき夜中に眼を覚ますかもしれない。あの黒い川の濁流が耳の奥で鳴り、またいつかあの水がオレを押し流そうと迫り来るときがあるかもしれない。
 けれど、今度こそオレは負けたくない。
 生命――生きている命。
 それがある限り、この星は続いていくのならば。
 この手はやっぱり無力だけれど、それでも歴史はつくれると言った。昔、なにを産みだすのかと聞いた相手がそう答えた。生きていく限り自分たちは歴史を作っていける。この世界とともに。強く言いきった。
「そう。どうして?」
「変わらないものを伝えれるから。たぶん、オレにしか話せないものがあるから」
 あれは夢だ。
 実際に彼らはいないのだとたしなめてみても、次の瞬間にはいいじゃないかと思う自分を許してやった。
 あの物語は星空に似ている。絶望的に遠いところにあって手が届かないけれど、見て考え想いを巡らすことはできる。ある者はそこに神を見、ある者はそこに畏怖と恐怖を。ある者は大切な友人や家族を重ね、ある者はそこに夢を見る。
「オレはこれから先、きっといろんなことで何度も迷っていく。五年たっても十年たっても、二十歳(ハタチ)になっても三十になっても、まだ世界に馴染めない気がしてときどき無性に寂しくなるときもあるかもしれない。けど、立ち止まって自分の立ってる場所を確認しようと地面に目を落としたとき、そこにはあの夢が光っている。ずっと昔に放たれた星の光みたいに」
 生きるというのは跡を残すということだ。そのひとが創造し、誰かに見せ、残されたもの。なんのために? 生きた証を残すために。本能にも近い無意識のなせる業(わざ)だ。
 もしそうだとしたら、ひとりの人間が生きたことを他人が強烈に認識する、その星が瞬くほどの一瞬の記憶だって、証拠にならないだろうか。
 自分の心を大きくしめるこの気持ち、余韻……。それがあるならあの二人は生きてるんじゃないか。
 そうだ、「生きて」いる。

 いまこの瞬間も、どこかで。

 愚かな考えと自覚する反面、どうしようもなく認めた。証拠が必要なら、自分の涙でかえてやろう。朝の頬を濡らす温かな雫。あのひとが残した確かな跡だ。
「だからオレは記憶します。この光景を。今日という日を。先生と見た、この空を。これから見るだろう、この世界の愛しいものを。たくさん。伝えたいと願い続ける限り。……この星が消えるときまで」
 どれだけ悩み、泣こうと、それでも忘れてしまうよりずっといい、と思った。
「だから先生、聞いてくれますか。これからもあの病院で。あの部屋で」
「言ったでしょう。最初から」
 と、橘先生はうつくしく微笑った。
「あなたの話を聞かせてください――、と」
 ああ、そうだった……と新たな感動とともに、許された行為といつかの誓いをたいせつに抱きしめる。オレの話は、いつしか先生の幸福の一部となっていたんだろうか。分けてくれという言葉がふいに胸を強く衝いてきた。
 自分にも彼にあたえられるものがある。世界中でオレだけが持つ激しい炎が。
 若草が微風にそよいでいる。遮るもののない自然の風を受けながら、はるか広がる草原を見つめた。白く全天が輝く夜、目の前に広がるのは未知の可能性をひめた未来だけだ。
「オレがときどき怖くなるのは、あの夢を見ることじゃない。見なくなることです。見てるだけで心がやわらかくあたたかく、せつなく熱くなっていくもの。それを見なくなったとき、現実という波にさらわれて、なにもないまっさらな砂浜だけが残ることです」

 いつか忘れてしまうんだろうか。
 忘れたという痛みさえ気づかないまま。
 そんな問いかけを、またくり返す。

「自分を熱くした感動も、流した涙も、大切な宝物のような優しさも嫉妬も、平坦な日常と同じ温度になって、そんなものもあったな、と薄れて消えていく。どうしてあんなに夢中に恋い焦がれたんだろうかなんて冷めた気持ちで過去を思う。若かったんだなんて言葉で片付けるかもしれない。闇に溶ける煙草の煙のように、まるで最初からなかったかのように。それは完全に会得したんじゃない。諦めるのと一緒だ。――なら、オレは消したくない」

 あのふたりを。あの物語を。

「忘れてもいいんですよ」
 その言葉は若干のかさつきをもって響いた。オレはふるふると頭を振る。弱々しくもそれだけは確固たる意志で。先生は少し笑った。
「本当に……あなたは強いですね」
「強くなんて……」
 弱い。はたして本当にたったひとりで生きていけるのか分からないぐらい、オレは弱い。ただ不安とそれを越えたいと願う気持ちだけが、胸の中にいつまでも固く残る。
「だからこそ、波にさらわれても消えない足跡があるのだと信じたい。愛し続けてもいいものなんだと肯定していたい」
 祝福するみたいに、春から初夏になった気持ちのいい風がオレに囁きながら身を抜けていく。それだけは揺らがないよう喉に力をこめて言った。

「だってなかったことになることなんてなにもないんでしょう」

 オレは聞き続けよう。
 降り注ぐ、億万の想いを。
 ひそやかに、消えることなき囁きを。
 はるかつながるよう願いながら、物語の一番初めに明け方の風を吹かせるように。
 不思議なほどの温かさが体の中をかけめぐったのを感じたとき、瞬間的なきらめきで視界をよぎったものがあった。
 えっとオレは大きく瞬きをして視界をはっきりさせると、声をあげた。

「先生見ました!?」
「ん」
「さっきのアレ、流れ星ですよ!」
「うそ!」

 と、先生も叫んだ。うそって。子どもみたいだとおかしくなった。
 彼の反応にせきたてられるように、さらに視界の広がる場所を求めて。
 オレは走り出した。走れば走るほど視界が広がっていく。もっと開かれていく夜が見たくて、ただ無心に走った。
 オレと、オレを追ってくる彼のために。
 最高の景色を。
 スニーカーの裏が斜面になった草をすべる。頬をきる風に目をかっぴらいた。疾走感が背中までかけぬける。あれっ、と思ったときにはすでに遅く、一度派手に転んだ。
 やわらかい土に受け止められて二、三度まばたきをしてからようやく落ち着く。いや、妙な興奮はおさまっていないのか、安堵はすぐに笑い声へと変わっていった。こんな転び方をしたのなんて何年ぶりだろう。まぬけで、突然で、なんとも痛い。よくもまぁ日ごろの自分は何十キロという体を自由に動かしているものだと感心した。
 くっくっと笑っていると、ようやく追いついた橘先生が呆れたようにオレを見下ろしていた。
 脇についた手に触れる、ざらついた土。
 のけぞった背中はそのまま地面へと重なった。
 オレは大の字に寝転がって、ようやく360度の空を見つけた。天井に絢爛な宗教画がある外国の有名な大きな教会で、いきなり寝ころんでみたようなものだ。壮大で、まるで迫ってくるみたいに夜空は圧倒的な力をもって広がっている。
 鼻から吸いこんだ澄んだ風がオレの中の空洞を通り、もどかしさや苛立ちや、その他澱んでわだかまったいろんなものを少しずつ溶かし出す。ようやく笑いをおさめて横目になると、オレの様子をうかがう先生に気づいた。
「星影が見えますか?」
 先生は言った。
「雲みたいに集まって、うっすらそこだけ明るくなってるでしょう。それぞれの光で、星の横にぼんやり影ができる。あれが星影です。見るのは随分と久しぶりですね。驚くぐらい白くて明るい」
「肉眼で見えない部分にも全部ちいさな星があるんですよね。それが、目に見えないところで自然な感じにぼんやり明るくしてるって」
「見えなくても、やわらかさだけは感じるんでしょうね」
「みえないのに、やわらかさだけ……?」
 空を見上げる先生の横顔を見ながら、オレは言った。
 なにもかもが抜けてすっかりほどけたオレは、ポンポンと手と地面でリズムをとって隣をしめすなんて大胆な誘いをし、彼が笑いながらそこに座っただけじゃなく、オレと同じようにごろんと寝そべってしまったことに絶句した。
「スーツが汚れますよ」
 けれどオレは、どこか期待をこめて自分からは立ち上がろうとしなかった。
 先生は首を振って目を閉じた。
「こっちのほうがあなたの声がよく聞こえる」
 その言葉が呪文のように響いて目を見開いた。なんてセリフだ。
「……」
 このひとに言いたかった。知りたかったのだと。
 さまざまな形を経て、何重にも張られた虚像を見破ってなお、間違えずに差し出された手を取れるのか。取れる自分で居続けれるのか知りたかったのだと。
 けれど発する言葉がようやく脳に達した瞬間、頭の芯がジンと熱く痺れた。ぽろりと「泣きそう」とつぶやきかけた自分をオレは息をひそめてやり過ごした。つもりで、消しきれてなかったらしい。
「泣いてもいいんですよ」
 と彼が囁いた。オレを呼び起こすように、遠く。
「思いきり泣いたら、その後は笑ってください。泣くことも、笑うことも、どんな言葉も気持ちも罪じゃない。……私は、だれよりあなたに心から笑っていてほしい。だから」
――だめだ。だめだだめだ。
 そんな手つきで触ったら。いまだっていっぱいいっぱいなのに。張りつめたものが壊れて、あふれてなだれ打つ。
 バラバラに壊れそうだ。乾きを実感する以上の速さで、深く満たされていく。
 懐かしさが逆に不安を喚起する暇すら寄せ付けないほどオレを埋めてゆく。歯を食いしばると、彼が呼ぶ。
 まるで心臓のすぐそばでささやくように。
 最後につまんだ糸を引くように。
 そのやさしいゆびで。ほら。

「――直江」





「acepe」前編・終

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