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30)
なにかが胸に落ちた。指では摘めない、ちいさく光る破片。遠い遠い昔に味わったような、生まれて初めて感じたような、熱に痺れるような感覚。まだ生きている、と思った。息苦しいぐらい、こんなにも熱い体をもっている。思わず声が出た。オレの中で何かが爆(は)ぜた。振動が這い上がり駆け登り溢れ出し、
「ぁ……っ」
ぼろぼろとせきを切ったように涙が零れ、流れ出した。
幾多もの星の間から月が見える。水のないあの惑星の代わりに、オレの眦からこぼれて次々と伝う液体。
「っぁ、ああ……あ、あ、あ……」
声が震える。
「あ……あ、あ……、あぁ、ああああ……っ!」
どこで止めていたんだろうと思うくらい、嗚咽は次から次へと飛び出した。もう抑えは効かなかった。顔を覆った指の間から、どこまでもオレの呻きが夜に広がってゆく。産道をくぐり抜けた赤ん坊がいきなり明るくなった世界に悲鳴をあげるように。呼応のように、全身が震える。
「ああああああああ――……ッ!」
食いしばった歯の隙間から、動物のように堪えきれない唸りが漏れる。
止まらない。もう止まらない。
オレは固く眉根をしぼり、どくどく打ち震える胸を喉元で必死に押さえ込んだ。ぶるぶると体を震わせる。
「……っ、すみませ……っ」
「いいから」
「すみません…すみま、せん……」
叫ばないよう、苦しく喘ぎを抑えながら、オレはそれでも最後の最後で何度もその言葉をひたすらくり返した。ちいさくしゃくりながら、投げ出したオレの片手に落ちつかせるように自分の手を重ねた人にぼろぼろと呻きながら謝った。なにに。オレはいったいなにに許しを請うているのだろうか。
どうしても止まらない涙を、みっともなく見せている彼へなのか。
それとも遠い日、オレにそれをやさしく禁じただれかへなのか。
「泣くのはだめ……なんです」
「どうして」
「いやがるでしょう。オレが泣くのをいやがるでしょう…?」
先生も――あのひとも。
彼は苦しさを抑えた顔で言った。
「悲しみじゃないなら、いいんです。少なくとも、私がいないところで泣かれるよりずっと」
本当に、とこぼした。
「ひとりで、見えないところで苦しまれるよりは、余程いい」
頬に添えられたひとさし指に、とうとう涙がつたった。拭うというより、わけもらうといった感じで、自分の指が濡れたのを確認すると、橘先生はそっと手を離した。やさしく頭を撫でてくれる。悲しみで泣くことはしない。はるか遠い昔、オレは確かに彼に誓ったのに。
――泣くのは、だめだ
だからけして悲嘆だけで叫ぶ真似はもうすまいと。
なのになぜいま、止まらない。
すがるようにオレは、先生の手をただ固く握りしめて泣きつづけた。いくつも落ちては地面へと吸い込まれて消えていく熱いしずく。
「ゆるして」
叫びつづけてかすれた声は、彼とオレの間で弾けては消え、弾けては生まれる。どこか遠いところへオレは祈りのように乞い続けた。
「いまだけだからもう泣かないから、いまだけ――」
「直江、いいから」
「ゆるして……ゆるして、……ください」
「いいから、ぜんぶ。ぜんぶいい。出していい。苦しみも悲しみも怒りも」
苦しそうに呼ばれてうっすら瞳を開けると、少し浮かせた指の隙間から、ちいさな星がちらちら光っていた。滲む視界に点々と見える黒い木々が音色みたいにざわめいて、夜空はもう怖くなく、ただひどく美しかった。
オレは確かに見たことがあるのだと思う。
こんなにたくさんの星じゃなかったけれど、ずっと昔。
いや違う。星の数が変わることはない。目に見えないだけで。ならあのときだって確かに満天の星がオレを――俺たちを見守っていた。
ひょっとしたら彼は見えていたのだろうか。
雲とか、空気の澱みとか、時間とか余分なものを取り除いた先にある、幾億の光を。
オレは、彼がそう言ったのはきっと、正確な数が滲んでぼやけるくらい、そう、なんというか、たぶん夢の中の彼は、相当疲れ果ててたんだと思い、眠った場所が冷たく硬いところじゃなくて、やわらかい大地で、ああよかったなと。俺と二人だけの白くせつない世界なんかじゃなくて、草や、木や、水や、清浄な空気や光。俺たちが生きてきたそのままの世界。そういった、彼が愛して守りぬいたものに囲まれて眠るというのは、きっととても幸せでうつくしい姿なんだろう、と。
生きてきた中で一番触れた人間の体を抱きながら遠いところで思ったけれど。
本当はあのとき。
だれよりも真実を見ていたのはあのひとだったのかもしれない。
夜空に哀しいくらい愛しい夢を描きながら、俺ははっきり悟った。
いろんなものが駆け抜けた空の下に、俺たちはいた。
そう。
あのとき。
最後まで誇り高くまっすぐな力強い眼で。
すべてが出そろった本当の空を、
彼だけが見ていた。
「……っ!」
見開いた。
だれもが躊躇したものを、まっすぐ見続けた姿が光の速さでまな交いにせまり、
「橘、先生……?」
春闇に戻ってきたオレは、そのひとにおずおず手を伸ばした。
空っぽのくせに笑うひと。平気で嘘をつくひと。さびしくなるほど綺麗な愛しいひと。けれどなによりも深いところで熱く激しい。
このひとはどこまでも自分を貫くだろう。それはさびしさをともなった発見だったが、何百年たっても変わらないものはきっとここにもある。
待たれるようにわずかに伏せられたまぶたに、伸ばした指の腹で触れる。濡れている目の淵。しかし、視界を揺らがせないように潤んではいなかった。そのまま眦までなぞると、静かに開いた瞳とともに今度はオレの指が濡れた。
月光に光る指の節。
エンゲージのように儀式めいた。
「この涙は、あのふたりの奇跡だ」
同じようにこの胸が痛むのは、オレたちが生きているからだ。せつなさもやりきれなさもくやしさもまるごと飲み込んで、この瞬間も確かに鼓動しているからだ。
泣くのは悲しいからじゃない。
その証拠に、ほら自分は微笑んでいたじゃないか。
最後に笑えるなら、その瞬間すべてが救われるのだと、全身で腕の中の彼が教えてくれたじゃないか。
互いの髪の毛が重なる。吐息が聞こえる。額のつく距離で、先生はやさしく黙った。
泣き止まないオレの濡れた指が、月あかりの下でちいさく光ってまるで星に見えた。
いつのまにか、赤ん坊をあやすように彼がオレを抱きしめていた。川べりで冷たくなったこの人を抱きしめたときとは逆に、いま、オレの呼吸はゆっくり、深くなっている。眠りにつく前のように。
とくん、と自分じゃない肉体から規則正しい鼓動が聞こえる。とく、とく、と密着した耳元にゆっくり流れこむ音。
いつの日からか絶えることなくあったメロディーが聞こえていた。落ちた涙で鳴らされた鍵盤のような神秘的な音の正体を、唐突に理解した。
ああ…と、また新たな真実が胸に滲む。霞む目で彼を見つめた。
これだったのだ。ずっと、もうずっとオレに聞こえつづけていた音楽は。
彼の声で。
息で。
波で。
寄り添うどこか懐かしい唄で。
鼓動だったのか。
――すべてが、この人に還っていく。
光の洪水に真正面から対峙したように、目覚めた体の中を突風が吹いた。
好きだと思った。
好きだ好きだ好きだと、わめくように風が吹き荒れた。
そう思うと、もう生まれるずっと前からそうだったような気がした。
「acepe」前編・終
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