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31)
伸ばした手の先にいる人影へ。
奥歯を噛み締め、弱った獣のように唸った。あふれる。あふれ出す。唇も、頬も、熱っぽい指先も。愛しさが実体をともなって目の前にある奇跡に眩暈がした。
ぼやけた焦点を結ぶために引きよせる。ひとつになろうとする強さで。反射的に一瞬抗がった彼の体は、すぐにもう抵抗なくオレの腕の中におさまった。
抱き込み、ひた、とその黒い瞳を覗き込んだとき、覆っていた雲が流れて舞台の幕があがったように月があらわれた。ハッとした。
草原の緑や木立、いままで黒ずんでいたすべてのものが照り輝く。
その瞬間、追い続けているもののしっぽをつかんだ気がして、魔法のように口が動いていた。
「あなたは、だれですか――……?」
いらへはない。オレもそれを必要としてはいない。答えを求めない問いかけに、彼は音色だけで答えた。
その息使い。高さ。抑揚。音色。
知っている。
それは祈りだ。
だれよりも多く耳にしてきた。
返事の代わりに、なにも持たずなにも鎧(よろ)わないまま彼はただくり返した。降り注ぐように。神ではなく、自分が信じると言ったただひとりの名を。だから応えるようにオレは、緩んだ腕の間をぬってそのしなやかな肉のついた身体をそっと抱きしめた。そのまま手のひらでなでたやや質感のある乾いた髪が、夢では得なかったやわらかさだと気づき、急に感動した。細く嘆息する。
抱きしめた一瞬だけ強張った彼の身体は、すぐに弛緩して、満足気な吐息とともに軽く身をまかしてきた。
手触りのいい髪がオレの肌をざり、と擦る。
「熱いんですね……あなたの身体は」
誘惑に負けて触れた首のまわりや耳の後ろは、驚くほど熱かった。ここで終わってもいいからまだ触っていたかった。抱いていたかった。呼吸をするたびに互いの胸郭が動いて、夜の波打ち際の動きに似ていると思った。海と同じ味の液体がまた体からじわりと滲む。
「私は、ただあなたにうつくしいものを見せたかったんだ」
先生が、わずかに泣いていたとわかる声で言った。
「あんな風に自分を責めてほしかったんじゃない。少しでもまだこの世界にいたいと。い続けたいと思ってくれるよう」
「でも星がなくても、オレは見てますよ」
抱く手に力を入れた。
たまらなく他人の体が愛しいと思ったのは、はじめてだった。指も肌も声も目も磁石だった。意思の強そうな唇がちいさく呼吸をくり返すのが見えた。オレのすべてを救う言霊を発する場所。何度もオレはそこから生命の水を得た。花弁のように親指で触れた唇は、やはり緊張をぎゅっと集めたように熱っぽかった。人と唇を重ねたくなるのはこういうときなんだと思いながら、オレはかろうじてそのままだった。けれどその考えを、オレはもう前ほど後ろめたいとか罪とは考えなくなっていた。
まだ言ってないことがある。伝えなければならない。逢いたかったのだと。初めて日の差すあの部屋で向かいあったときからひどく懐かしい気持ちになったのだと。それでも言葉は意味をもつものとして形成する間さえゆるさずあふれてくる。
逢いたかった。逢いたかった。逢いたかった――……!
オレはなんとかしてその思いを彼に伝えたかった。必死にしぼり出そうとしていた。しかし喉がつまってしまって行き場のない言葉は沈黙を守った。言葉は言葉にならぬままオレのなかに残った。もしかしたら永遠に抱きつづけるために。
かわりに、すべてを解放するように泣き声をあげる。
オレの背中を抱き、オレの胸に抱かれた彼が、根気強く耳元に囁く。呼ばれた声の熱さにまた泣けた。
あふれる。あふれてしまう。何度も何度も掠れた声で痛そうに、せつなそうに、慈しむように、愛しそうに囁かれるたびに、わけがわからないまま胸を痛いくらい上下させてオレは、駄々をこねる子どものように首を振り産声をあげた。まるで生命を吹きこまれた心臓のように。全身を震わせながら。
くり返される名が、なんの違和感もなく胸にじわりと染みこんだ。
わずかでも心臓を近づけるように、抱く手に力を込めて密着させる。互いの鼓動を聞き取るように重ねる。
無言の捧愛の仕草になにを感じとったのだろう。返事代わりに、脇の下から肩に手がまわされた。せがむように。
「……ぉえ」
そうだ、この名だ。オレの。オレだけの。
一度声を飲みこみ、息を整え。
あなたの涙の中で――、
ふたたび俺は笑った。
心から。
「――はい」
すると彼は少しとまどった顔をした。
「なんて顔をしてるんですか」
オレは掠れた声で苦笑した。人に笑えと言っておいて自分は泣きそうになっている。唇の端にふれて咎めると、ようやく少し上向きになった。安心する。
「待っていて」
「そばに行く」
「大丈夫」
「……怖くない」
ひとつひとつなぞるようにオレは言葉を捧げる。彼の瞳を濡らすものを唇で吸いあげたい衝動を堪(こら)えながら、空いた手を両手で包んで、あやすように自分の顔に寄せた。瞳を閉じた。
「この手を取る」
誓ったからじゃない。オレは、オレ自身の意思で、この手を取る。取ることを恥じない自分でいたい。裏切ったときこの体は無力だった。何度も苛立ちをぶつけた拳は、腫れて変色している。気遣う言葉は一度も発せられなかったのに、目に焼きつけていたといわんばかりに夜の元でさすられるオレの歪んだ節。もうすべてが伝わった。このひとだけは幾多の星の中からでもオレを見つけてくれる。熱い眼を閉じ、掠れた彼の声だけを鼓膜に焼きつづけ、
「直江」
噛み締めるように答える。
「あなたでよかった」
「なお……え」
「あなたでよかった。こうして抱きしめているのがあなたでよかった。どれほど遠回りしてもどんな暗闇ででも辿り着ける。きっとあなたに会える。俺は間違っていなかった。嘘じゃない。嘘じゃなくてよかった。この想いはすべて嘘じゃなかった。俺は、俺のまま、あなたに――」
「――……直江」
「あなた、に――」
もう言葉にできることはなくなった。
彼に共鳴するように、
俺は言葉にならない言葉を
ひっきりなしに叫ぶ。
だれかの名のような泣き声は、
幾度となく無意識に口からほとばしり出て――
捕える前に。
俺の記憶を、流れ星よりも速くすべって夜露のようにこの大地に溶けて消えた。
何時間見ていても見飽きない空だった。
できるならばそう、夜明けまで。
そう言うと彼は黙って微笑んだ。今日はもう帰らなければ。
「でもいつか、また来ましょう。きっと、すばらしくうつくしいものだろうから」
泣きすぎたのか、それを抱きしめつづけたからか。慣れないことをし続けたふたつの体を狙ったように、新しい風がどっ、と吹き上げ、打ち倒す。
どうにか足を踏みしめ留まった。同じ方向にオレのシャツと先生のスーツのすそがバサバサとはためく。並んだ洗濯物のように。
目の周りを打つ前髪をやり過ごすようにぎゅっと目をつむっていた先生が、あきらめてザッとかきあげた。
手をそのままに、仰のいたまま薄く笑んで目を閉じ、風を受けた。
同じものを感じようと、オレも視界を閉ざして、草が重なって鳴る音と皮膚の感覚だけを追った。
「歩ける?」
とは、どっちが言ったか。
「歩けます」
とは、どっちが答えたか。
でも同じだ。進める。前に、未来に。
あなたまではまだ遠い。けれどこの想いを持てる限り、歩む足が止まることはない。いつか隣でまた会える。あの夢に逢えたということは、あなたに逢えたということ。あなたという人を好きになったということ。
ほんとうに。
オレはもう。
こんな恋はできない。
ささいだけれどやっとここまで来た。振りきれた。
これが真実だ。
舞い上がる花びらのように、ありとあらゆる感情がぶわっと吹き抜けた。その嵐に遭難しないように手を伸ばす先で、相対する眼が微笑んでいた。
オレたちは、歩いていけるだろう。生きていく力がこの手にあるうちは。
「先生」
言葉が口をついて出た。「好きです」
「え? すみません風で」
聞き返しながら暴れる髪とまだ格闘している彼に笑い、まっすぐ空を指差した。
「月です」
オレの話が終わったら、今度はあなたのことを知りたいと思う。
どうやって生きてきたのか。
どんなうつくしい光景とひかりを得て歩いてきたのか。
――けれど今だけは、互いにふらつく足取りが危なっかしいから。
オレたちは顔を見合わせ、
草まみれの姿にお互い声をあげて笑い、
そうして自然とつながれた手のひらは、等しくただ心地よい温かさを保っていた。
「acepe」前編・終
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