初夏の爽やかな風を受けながら、橘医院への坂道を登る。いつもどおり看板を確かめ、砂利道を進んで右へ曲がる。
 見えた裏玄関には、洗ったスニーカーが干してあった。結構履き古している感があるにも関わらず、捨てないで使ってるのが「彼らしい」と感じた。これを履くようなラフな格好は、滅多に見ることがないけれど。この庭で、彼も晴れた日には靴を洗うのだろうか。そう思うと、なんだか幸せな気分になった。
 隅まで行き届いてるプロの作業ではないが、伸びやかに適度な手入れをされた庭からは、診察室にかかった白いカーテンが見える。
 今日は夕方から少しだけ風が吹き、生命力に溢れた木々がやわらかく葉を鳴らしている。こうして裏庭に立って、鉢植えや木や花の音を聞くともなしに聞きながらぼんやりしていると、先生が愛した自然というものの一部をなんとなく感じれるような気がした。

 ここはだれもしゃべらない。

 それはいいことだろうか。他の何処よりもいきいきとしている緑のあまりの眩しさに目を細め、オレは携帯を取り出す。登録済の番号を呼び出そうとしたとき、ちょうど風がぶわっと背中を煽り、咎められたようにギクリと、手の中の携帯を固く握った。
 反射的に、一番大きな木を仰ぐ。
 五月の空がこれほどまでに高いとは思わなかった。
 彼の愛情こもった手入れを受け、見事に成長している緑が、泰然と若輩者に対するようにオレを見下ろしている。
「ごめん」
 そのまま携帯を尻ポケットにしまいながら、ここにあるものを少しだけ哀しく思う。そして――もしかしたら、この庭を作り出した彼も、それは自覚してるんじゃないかと思った。常葉樹林がないと言った庭。
 緩やかな時の流れに身を委ねながらも、けして刻(とき)が止まったと錯覚はしないように。確実に季節が移り変わる風景を意図的に造る。それは彼らしい、遠回りな自制と違うだろうか。
「でもオレは、ひとと関わるのをやめてほしくないんだ」
 まるで答えが来るかのような真剣さで、力強く空へと伸びる木々からなにかを得ようと、耳を澄ませた。無論、返事があるわけもなかった。ただかわりに葉だけがやさしくざわめいた。
 ビニール袋を抱えなおしながら、背を向け、もう電話をすることもなく自ら裏玄関にまわる。
 恋情と想像は空気の震えとなっていつまでも響く。
 ここではない、どこかへと。
 そしてオレは、今日も語り部として、木々に守られる橘医院を訪れる。




acepe


――the last chapter――


32)



 トントン、とドアを数回叩くが反応はない。聞こえないのか? 諦めてチャイムを鳴らそうとしたところ、なんの気なしにまわしたノブがそのまま戸を開けたことに驚いた。
 薄暗い玄関へ遠慮がちに一歩進み、
「すみません」
 奥へ声をかけた。
「すみませーん! 先生? 橘先生?」
 耳をすますと、診察室のほうでガタンと物音がたった。ガシャンガシャンとCDケースにようなものが散らばる音。
 ちいさな悲鳴がおき、拾う間もなく、パタパタと部屋を出てこっちへ近づくスリッパ。午前の診察そのままなのか、乱れた白衣を整えながらやって来た橘先生が、
「……ッ、すみません! ちょっとうたた寝してたもので」
「こっちこそ。起こしてすみません。あ、玄関開いてましたけどいいんですか」
「え――あ、ええ……」
 と言う先生は、なんだか眠そうで声にも覇気がない。微笑う目元には薄く隈も浮んでいる。
「なんの夢を見てたんですか?」
「海の」
 と、オレの手から医学書入りのビニール袋を受け取りながら、
「ありがとうございます。どうぞ、あがってください」
「まだあるんです、バイクの中に。取ってきますから」
「じゃあ私も行きます」
 よろりと外用のスリッパに履きかえるのが危なっかしい。
「大丈夫ですか」
「先月の医療改正でいろいろ変わってしまって。でも事務的なことを早急にやってしまわないと……いろいろたま……って」
 言葉尻を、つらそうに噛み殺したあくびで萎ませ、毛づくろいのように両手で目をこする。庭を横切り、病院の表口。自動ドアの横に止めてたバイクの座席から各自ひとつずつ袋を手にして戻る。
 夕方のサイレンが鳴りひびき、それに呼応するように聞こえる複数の犬の鳴き声。あの中にはシロもいるだろうか。波紋のように街へゆっくりと広がりやがて消えゆくその音を追って、オレたちは空を見上げた。
「きれいな空ですね」
 まだ陽の残る青い空と、そこにたなびく白い雲。その微妙な配分が不安定で、でも美しいと思った。
「屋上も、気持ちがいいんですよ」
「屋上? あがれるんですかここ」
「ええ、ちいさな階段があるのでそこからあがれますよ。もう今は大抵の高校は屋上の出入りが禁止なんですよね。私のときにはときどき上でさぼっていたものですが」
「本当に?」
 もちろん屋上にあがれることではなく、彼がさぼっていたということに対してだ。先生がくすりと笑った。
「今度昼寝をしに来たらいい。今はもう日差しが強くなって後でつらいだろうから、いつか」
「おもしろそうですね。いつですか?」
「そうですね」
 見上げるそこには、薄く黄色味がかった空色だけが広がっている。「来年の春……かな。いっしょに」
 合格したら、ごほうびに、と笑った。今すぐと言われるよりずっと嬉しく感じた。
 オレは想像する。あたたかい空気のただよう中、眠たくなってきたら空を見上げ、仰向けになって瞼を閉じる。まぶしい太陽の光を全身に受けながら幸福感にひたる季節を感じる。目を閉じる直前と、目を開いた直後に隣に存るもの。在るひと。
 そのときオレたちの関係と存在は少し変わっているだろうか。たぶんそうだと思う。はっきりとはわからないが、その想像はなんだかとてもくすぐったいものに思えた。
「そのときはまた歌ってくれますか?」
 巣へ帰る鳥の群れ。その万華鏡のように変化する完ぺきな飛行を見ながらオレは言った。「神社で聞いた、あの唄を」
「子守唄代わりに? でもよく覚えていないんですよ。自分がなにを口ずさんでいたのか」
「大丈夫ですよ」
 静かな気持ちでオレは言った。
「たぶんオレが唄えますから」
 本当に? と目を見開くと、先生は思案するように視線を巡らし、冗談めかしてひとつうなずいた。
「いいですよ。あなたの寝顔を見ながら唄ってあげましょう。今度こそ」
「わかりませんよ。案外先生のほうが早く寝たりして」
「いえ」
 と顎に手をやった先生が、じっとオレを見る。低く、呟いた。
「こればかりはちょっと負けられないというか」
「オレだって、そうやすやすと寝顔見せられませんよ」
「おや、なかなか挑戦的じゃないですか」
「あなたが寝るまで、眠るわけにはいきません」
 先生は揶揄を含んだ眼で囁いた。
「まだ言いますか」
 責めるのではなく、懐かしむように。やや変わったイントネーションで。「……やれるものなら」
 互いに言いたいことはわかったらしい。
 ふっと笑って、同時に空いたほうの肘をあげて軽くぶつけた。クロスした腕の先には、滅多に見れない勝気がかった黒い眼があった。
 オレを煽るその色。不敵ささえ感じて驚いた。
 春の終わりみたいな匂いのする声で、先生はオレに囁く。
「競争だ」
 オレもしっかりとうなずいた。
「ええ」
 それもまた、未来の幸福な約束なのだろう。





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