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「いいですよ、そのまま放っておいてもらって」
「いいですよ」
 と、同じ言葉をくり返す。「ついでだし、全部入れてから降りてきます。先生は残った仕事をしててください」
 思いきり角で叩いたらフローリングの床にぽっかり穴でも開きそうな分厚い本を、元から床に散らばっていた分も含めて、ガッシガッシと大きさ別に分けて積み重ねていく。座りこんで本のかまくらを作り始めたオレを、先生はしばらく所在無さそうに立って見ていたが、やがて諦めたのか、
「じゃあ……すみません。おねがいします。受付の奥の部屋にいますから」
 微笑んで、階下に降りていった。やっぱりどうもあやうくみえてならない。まさか階段で転び落ちやしないだろうなと心配になる。仕事じゃなくて、寝ててくださいと言えばよかったと思いながら、無事大きな音もなく彼が一階に降りたのを耳で確認してオレはようやく作業を再開した。
 内容はまったくわからないから、手に取り、ただ機械的に分別していく。
「こんなもんかな」
 ひたすら手を動かしたかいあって、見事整頓された本棚を満足気に見る。パンパンと手を叩き、かさついた指先を少し嗅ぐと、古い本独特の、埃とわずかに甘い黴の匂いがした。
 もしかしたら窓を開けたほうがいいかもしれない。
 立ち上がってうーんと腰を伸ばした。雨の気配がまったくないことを確かめてから、窓の錠を下ろす。ちいさなベランダの先に広がるやや朱色の交じった空と、さっきの若い木の葉を網戸越しに見下ろした。
 と、机の上にある見覚えのあるものに気づく。まだ未開封のちいさな香水のボトル。無事だったのか。よかったなあのまま水底に沈まなくて、と爪先で軽く弾く。と、そのすぐ横に見慣れた字が見えた。以前オレが持ってきたノートだった。
 ここで彼が読んでいたんだろうか。わずかに波うった羽のようにペタリと開いていた。重みと湿り気で作られたでこぼこには、見覚えがあった。
 たとえば授業中。たとえば予習中。
 幸福な時間からハッと目を覚ました腕の下にあったノートの末路。
 うつぶせる彼と白いノートに広がった黒髪を想像して口端をゆるませたオレの頬が、部屋を出る瞬間ふと照らされた。
 振り返った窓から部屋全体に差し込む光。

「……あ」

 唐突に。シナプスのようにオレの中で結びついて閃いたものがあった。
 いつかの夜。リビングの窓の下にあった、くしゃくしゃに広がったままの新聞紙。もしかしたら。
 あの皺がどうやって作られたか。その上になにがあったか。なにをしていたのか。
「なるほど」
 のどかな情景に、思わず笑いだしそうになった。
 こうしてささいなことがふとした瞬間にほどけ、真実を照らしだすように。いまだ殻に包まれた真実とも、いつかはるか彼方ですれ違うだろうか。
 春は出会いと別れの季節だと言う。
 だったら、オレはこの先、なにと出会い、なにと別れるのだろう。

 ――全部見終わったら、消えるか?

 振り返ったオレの問いかけに、夢の中の二人はひそひそと相談してから、そろってこちらを見た。白い花を差し出した先生のように、あたりまえのように笑った。
 いつまでも。つづいてる。
 おまえがオレたちを見て、内に入れ、動き、笑い、泣き、だれかに触れ、歩いていく限り。

 蜃気楼を現実のものにしていける。

 そうか。とつぶやきをひとつだけ部屋に残し、オレはそっと、光あふれる部屋のドアを閉めた。




 タンタンと階段を降りていくと、私服になった先生が診察室の前で麦茶を乗せた盆を持ってちょうどこっちを見上げたところだった。
「終わりましたよ」
「そうですか。今そっちに行こうとしてたんです。ありがとうご……」
「! 先生……っ」
 瞬間、くらっと後ろへ眩む身体を、階段の上から咄嗟に伸ばした手でギリギリのところで支える。貧血かと思ったが、顔色を見るに、幸いただの立ちくらみのようだった。
「ちょ、もう寝てください!! どれだけ寝てないんですか、そんなふらふらで。診察だって今までずっと一人だったんでしょう」
「平気……」
「なわけないでしょう!まったく、あなたは無理ばかりして。医者がこれでどうするんです。子どもの次にあなたが倒れたら小川さんが自分を責めて泣きますよ。……いや、泣くより怒るでしょうけどあのひとなら。……まったく。これだから目が離せない――……なにがおかしいんですか」
「いえ……」
 盆に零れた麦茶を床にぶちまけないように真剣にバランスを保ちながら、オレは空いた片手で先生の背中を自分のほうへ寄せた。
「ほら、これはオレが置いておきますから。二階でちゃんとゆっくり寝てください。歩けますか?」
「もう……ここでいいです」
 もう逆らう気力もないのか、支えるオレを連れ込むようにふらりと横の診察室に入り、ベットに倒れこむ。
「ちょ……っ、先生!?」
 パタン、と着地してそのまま身動きしなくなる体を、一苦労してちゃんとまっすぐに仰向けにすると、イスにかけてあった白衣を毛布代わりにかけてやった。
 白い布の下で、無造作に広がるやわらかな髪が鮮やかに映える。時折この髪をかきあげる仕草をオレは知っている。ずっと前から。
「約束したのに。まったく、フライングですね」
 一摘み触れて、ささやいてみると、
「ん……」
 最後の反抗とばかりに眉をよせられた。
 簡単に夢に落ちたくないのか、無意識に抵抗するようにまわされた手がオレの背中をひっかいた。走ったわずかな痛みに顔をしかめると、それがわかったのか、先生が視点のあわない目をうっすら開けた。はっきり後悔をその瞳に映し、
「傷が、残りましたか……?」
「浅いから大丈夫でしょう。それにオレはかまわない。残っても、残らなくても」
 安心させるように首を振ってから、一呼吸おいて言った。

「もうオレのものだから」

 背中の傷は、いつか消えるだろう。
 証だからと願ったところで、こればかりはどうしようもない。
 けれど痛みも、熱さも、庇ったひとの体温も、オレの記憶の中でずっともがきつづける。生きていく限り何度でも思い出すだろう。そこに確かにある、同じ時間を過ごした証を。
 例えば年月を重ねて水気を失い、オレの躰がカラカラに枯渇した砂漠のようにひび割れたものとなって、その皺と見分けがつかなくなっても。
 埋没した傷は疼く。
 自分ではけして治せぬ場所で、だれかに触れられ癒されるのを待つように。
「そうですか」
 と、先生が静かな声で返す。
「ええ。だからまた今度、手当てしてくださいね。今度はちゃんとやさしく」
 いつかの秋、自分が予言したことをこの人は覚えているだろうか。オレははっきり覚えている。だれかを守れる背中だと言われた瞬間、火をくべられた古いストーブのように内部に燈った熱を。
 あの炎は消えてやしない。ゆっくりと、ゆっくりと全身へ移していった。このひととの日々の中で確かに。
 だから今は眠れ。
 とそっと瞼のうえに置いた手で伝えると、水を求めるくらいの自然さで、
「話を」
 と唇がねだってきた。そうだな、とオレはしばし頭をめぐらせ、静かに語りだす。
 こんな平和な時間には、同じような季節の話がいいだろう。
 北アルプスが見下ろす、うつくしいちいさな普通の街だった。
 再会は、自分たちなどあっさり飲み込んでしまうぐらい大きく暗い先の見えない渦の始まりだったにも関わらず、あのとき世界は、夏休みの最初の日のように大きく、きらきらまぶしかった。止まっていた時が動き出し、この瞬間目の前に立つひとがいるなら、信じてもいいとさえ思えた。
 これから出逢い、見、感じ、戦う中にあるもの駆け抜けた先にあるもの。

 それらすべてが、言葉にできないくらいうつくしく愛しい景色であることを――。

「――オレ達が最初に出逢ったのは、今日みたいに春から初夏にうつる季節の、穏やかな、とてもよく晴れた日でした」





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